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やりがいの、燃えカス  作者: K3/KASANE
休憩中の人

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4/21

後編 作業中の事故、ゼロ

返品保管庫の扉の下から、血のついた社員証が滑り出てくる。


 俺は、積んである段ボールを、片っ端から床に下ろした。


 箱はどれも、思ったより軽かった。


 返品の伝票が貼られただけの、中身の少ない箱ばかりだった。


 人ひとりを閉じ込めておくための、ただの重しだった。


 俺は箱を放るように下ろしながら、手が震えているのに気づいた。


 冷たい保管庫の空気が、積まれた段ボールの隙間から、細く漏れ出していた。


 開き戸を引くと、保管庫の中は暗かった。


 奥の棚が斜めに崩れて、壁との間に、細い隙間ができている。


 その隙間に、人がいた。


 最初、それが人だとは分からなかった。


 作業着の色が、埃をかぶった段ボールと同じ色に見えて、影の塊のようだった。


 俺が名前を呼ぶと、その塊が、ゆっくりこちらを向いた。


 山岸さんだった。


 崩れた棚と壁のあいだに、下半身を挟まれていた。


 片方の脚が、棚の脚と床のあいだに入り込んで、動かせなくなっている。


 顔は真っ白で、汗が滲んでいた。


 唇は紫がかっていた。


 半日ぶんの寒さと痛みが、その顔にぜんぶ刻まれている。


 挟まれた脚の作業ズボンは黒く濡れ、もう乾きかけていた。


 それでも、目は開いていた。


 「……来ちゃったのか」


 山岸さんは、俺を見て、そう言った。


 助けが来た、という声ではなかった。


 困ったな、というような声だった。


 俺は、あの三回の音を思い出した。


 コン、コン、コン。


 山岸さんは、社員証の固いケースで、扉の内側を叩いていたのだ。


 誰かが気づいてくれるように。


 少しずつ、力が弱くなりながら。


 「いつからですか、これ」


 「……朝だよ」


 朝。


 もう夕方だった。


 半日近く、この人はここにいた。


 誰にも気づかれないふりをされて、暗い棚の隙間で、社員証を握って。


 棚が崩れたのは、その日の朝いちばんの、荷受けのときだったという。


 山岸さんが下敷きになって、悲鳴を聞いた責任者は、すぐに駆けつけた。


 そして、救急車を呼ばなかった。


 俺が箱をどけている物音に気づいて、責任者が走ってきた。


 俺の腕をつかんで、保管庫から引き離そうとした。


 「何やってんだ、お前」


 「救急車、呼びます」


 「待て」


 責任者の顔は、汗で光っていた。


 怒っている顔ではなかった。


 追い詰められた顔だった。


 この倉庫では、半年のあいだに、軽い事故が二度あったのだと、責任者は早口で言った。


 指を挟んだのと、腰を痛めたのと。


 責任者はその二件を、どちらも「自分で転んだ」「持病だ」ということにして、労災の届けを出さずに処理していた。


 そのたびに当人を別室に呼んで、話をつけていたのだという。


 労災の届けを一枚出すたびに、元請けの担当者の顔つきが変わる。


 それを、この人は誰よりも知っていた。


 事故を起こしたあの棚には、責任者自身が「検査済み」と点検票に判を押していた。


 ほんとうは、検査などしていなかった。


 「今、山岸さんが運ばれたら、全部ばれる。過去のも、点検票も、全部だ」


 だから責任者は、山岸さんに言ったのだという。


 昼休みに自分で足を滑らせて転んだことにしてくれ、と。


 出荷が終わるまで、あと少しだけ我慢してくれ、と。


 そして、扉の前に返品の箱を積んだ。


 「今月、契約の更新なんだよ。ここで労災なんか出したら、元請けは次から仕事をよそに回す。そうしたら、この倉庫は来月から無い。お前も、あいつらも、全員だ」


 責任者は、俺のほうに一歩踏み出した。


 「ここで電話したら、全員の仕事がなくなるぞ」


 俺は、ロッカーから取ってきた自分の携帯を、握りしめていた。


 画面に指を置いた。


 一、一、九。


 三つの数字を押すだけだった。


 押せなかった。


 親指が、画面の上で止まっていた。


 ガラスが、指の熱で少し曇る。


 押せば戻れない。


 押さなければ、この人は。


 頭のなかで、二つの声が、同じ大きさで鳴っていた。


 二回、切られた顔が浮かんだ。


 次から来なくていい、と言われたときの、あの静かな事務所の空気が。


 ここで押せば、たぶん俺は三回目を経験する。


 今度は、自分から選んで。


 そのとき、保管庫のなかから、山岸さんの声がした。


 「……もう、いいよ」


 俺は振り返った。


 「もう、いいから。あんたが怒られることないよ。俺が勝手に、昼に転んだんだ。それでいい」


 山岸さんは、俺と責任者のやり取りを、扉の向こうで全部聞いていた。


 あんなに固いケースで扉を叩いて、救急車を呼んでくれと書いた人が、今は、俺に迷惑をかけまいとしていた。


 「娘が、迎えに来るから」


 山岸さんは、笑おうとして、失敗したような顔で言った。


 「もうすぐ、娘が来る。だから、大丈夫だ」


 あとで知ったことだけれど、その日、娘さんが迎えに来る予定なんて、なかった。


 娘さんは、父親が今日も、いつもと同じように働いて、いつもと同じように帰ってくるものだと思っていた。


 山岸さんは、ただ、そう思いたかっただけだった。


 救急車を呼んでくれと書いた人が、他人に迷惑をかけると思った途端、助からなくてもいいと言い始めた。


 俺は、一一九番を押した。


 責任者が何か叫んだ。


 けれど、その声はもう、俺には遠かった。


 電話の向こうの人に、住所と、人が挟まれていることを伝えた。


 声が震えていた。


 自分の声だと思えないくらい、上ずっていた。


 それでも、相手はちゃんと聞き取ってくれた。


 すぐ向かいます、動かさないでください、と言われた。


 俺は、山岸さんの手を握った。


 冷たかった。


 そのあいだに、梱包台にいた若いのが、黙って俺の横に来た。


 何も言わずに、崩れかけた段ボールの山を、脇へ寄せはじめた。


 救急隊が入れるように、保管庫までの道を作っている。


 ずっと下を向いて、俺と目を合わせなかった若いのが、そのときだけ、俺の隣にいた。


 救急隊が来て、作業は止まった。


 一万二千個は、その日、出荷されなかった。


 山岸さんは、助かった。


 ただ、挟まれていた脚には、たぶん、これからも障害が残るだろうと言われた。


 半日、棚の重みに圧迫された脚は、元のようには動かないかもしれない、と。


 元どおりには、ならなかった。


 山岸さんは、もう前と同じようには、この倉庫で働けないだろう。


 助かったけれど、助かる前の山岸さんは戻ってこなかった。


 俺の派遣契約は、翌週で打ち切りになった。


 理由は、業務縮小、とだけ書かれていた。


 二回目までと、同じ紙だった。


 同じ書き方の、理由の書かれていない紙。


 ただ、三回目は、自分で選んで受け取ったぶん、前の二回より、少しだけ軽かった。


 事情聴取のとき、他の同僚たちは、みんな「知りませんでした」と答えたそうだ。


 あの日、俺の横で道を作った若いのも、たぶん、そう答えた。


 それでいいと思った。


 みんな、生活があった。


 救急車を呼んだ俺だけが、あの倉庫からいなくなった。


 黙っていた人たちは、そこに残った。


 数か月して、俺のところに、短い手紙が届いた。


 山岸さんからだった。


 感謝の言葉は、書いていなかった。


 かわりに、こう書いてあった。


 あの日、あなたに電話をかけさせてしまって、すみませんでした。


 山岸さんは、まだ、自分が誰かに迷惑をかけた側だと思っていた。


 閉じ込められて、脚を潰されて、それでもまだ、謝るのは自分のほうだと思っていた。


 俺は、返事を書いた。


 長いことを書こうとして、結局、一行だけになった。


 休憩していた人を、起こしただけです。


 それからしばらくして、差出人のない封筒が届いた。


 中には、あの倉庫がその月に元請けへ出した作業日報のコピーが、一枚だけ入っていた。


 誰が送ったのかは分からない。


 ただ、梱包台にいた若いのの、伏せた顔を思い出した。


 救急車のことは、どこにも書かれていなかった。


 備考欄に、一行だけあった。


 作業中の事故――ゼロ。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


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