後編 作業中の事故、ゼロ
返品保管庫の扉の下から、血のついた社員証が滑り出てくる。
俺は、積んである段ボールを、片っ端から床に下ろした。
箱はどれも、思ったより軽かった。
返品の伝票が貼られただけの、中身の少ない箱ばかりだった。
人ひとりを閉じ込めておくための、ただの重しだった。
俺は箱を放るように下ろしながら、手が震えているのに気づいた。
冷たい保管庫の空気が、積まれた段ボールの隙間から、細く漏れ出していた。
開き戸を引くと、保管庫の中は暗かった。
奥の棚が斜めに崩れて、壁との間に、細い隙間ができている。
その隙間に、人がいた。
最初、それが人だとは分からなかった。
作業着の色が、埃をかぶった段ボールと同じ色に見えて、影の塊のようだった。
俺が名前を呼ぶと、その塊が、ゆっくりこちらを向いた。
山岸さんだった。
崩れた棚と壁のあいだに、下半身を挟まれていた。
片方の脚が、棚の脚と床のあいだに入り込んで、動かせなくなっている。
顔は真っ白で、汗が滲んでいた。
唇は紫がかっていた。
半日ぶんの寒さと痛みが、その顔にぜんぶ刻まれている。
挟まれた脚の作業ズボンは黒く濡れ、もう乾きかけていた。
それでも、目は開いていた。
「……来ちゃったのか」
山岸さんは、俺を見て、そう言った。
助けが来た、という声ではなかった。
困ったな、というような声だった。
俺は、あの三回の音を思い出した。
コン、コン、コン。
山岸さんは、社員証の固いケースで、扉の内側を叩いていたのだ。
誰かが気づいてくれるように。
少しずつ、力が弱くなりながら。
「いつからですか、これ」
「……朝だよ」
朝。
もう夕方だった。
半日近く、この人はここにいた。
誰にも気づかれないふりをされて、暗い棚の隙間で、社員証を握って。
棚が崩れたのは、その日の朝いちばんの、荷受けのときだったという。
山岸さんが下敷きになって、悲鳴を聞いた責任者は、すぐに駆けつけた。
そして、救急車を呼ばなかった。
俺が箱をどけている物音に気づいて、責任者が走ってきた。
俺の腕をつかんで、保管庫から引き離そうとした。
「何やってんだ、お前」
「救急車、呼びます」
「待て」
責任者の顔は、汗で光っていた。
怒っている顔ではなかった。
追い詰められた顔だった。
この倉庫では、半年のあいだに、軽い事故が二度あったのだと、責任者は早口で言った。
指を挟んだのと、腰を痛めたのと。
責任者はその二件を、どちらも「自分で転んだ」「持病だ」ということにして、労災の届けを出さずに処理していた。
そのたびに当人を別室に呼んで、話をつけていたのだという。
労災の届けを一枚出すたびに、元請けの担当者の顔つきが変わる。
それを、この人は誰よりも知っていた。
事故を起こしたあの棚には、責任者自身が「検査済み」と点検票に判を押していた。
ほんとうは、検査などしていなかった。
「今、山岸さんが運ばれたら、全部ばれる。過去のも、点検票も、全部だ」
だから責任者は、山岸さんに言ったのだという。
昼休みに自分で足を滑らせて転んだことにしてくれ、と。
出荷が終わるまで、あと少しだけ我慢してくれ、と。
そして、扉の前に返品の箱を積んだ。
「今月、契約の更新なんだよ。ここで労災なんか出したら、元請けは次から仕事をよそに回す。そうしたら、この倉庫は来月から無い。お前も、あいつらも、全員だ」
責任者は、俺のほうに一歩踏み出した。
「ここで電話したら、全員の仕事がなくなるぞ」
俺は、ロッカーから取ってきた自分の携帯を、握りしめていた。
画面に指を置いた。
一、一、九。
三つの数字を押すだけだった。
押せなかった。
親指が、画面の上で止まっていた。
ガラスが、指の熱で少し曇る。
押せば戻れない。
押さなければ、この人は。
頭のなかで、二つの声が、同じ大きさで鳴っていた。
二回、切られた顔が浮かんだ。
次から来なくていい、と言われたときの、あの静かな事務所の空気が。
ここで押せば、たぶん俺は三回目を経験する。
今度は、自分から選んで。
そのとき、保管庫のなかから、山岸さんの声がした。
「……もう、いいよ」
俺は振り返った。
「もう、いいから。あんたが怒られることないよ。俺が勝手に、昼に転んだんだ。それでいい」
山岸さんは、俺と責任者のやり取りを、扉の向こうで全部聞いていた。
あんなに固いケースで扉を叩いて、救急車を呼んでくれと書いた人が、今は、俺に迷惑をかけまいとしていた。
「娘が、迎えに来るから」
山岸さんは、笑おうとして、失敗したような顔で言った。
「もうすぐ、娘が来る。だから、大丈夫だ」
あとで知ったことだけれど、その日、娘さんが迎えに来る予定なんて、なかった。
娘さんは、父親が今日も、いつもと同じように働いて、いつもと同じように帰ってくるものだと思っていた。
山岸さんは、ただ、そう思いたかっただけだった。
救急車を呼んでくれと書いた人が、他人に迷惑をかけると思った途端、助からなくてもいいと言い始めた。
俺は、一一九番を押した。
責任者が何か叫んだ。
けれど、その声はもう、俺には遠かった。
電話の向こうの人に、住所と、人が挟まれていることを伝えた。
声が震えていた。
自分の声だと思えないくらい、上ずっていた。
それでも、相手はちゃんと聞き取ってくれた。
すぐ向かいます、動かさないでください、と言われた。
俺は、山岸さんの手を握った。
冷たかった。
そのあいだに、梱包台にいた若いのが、黙って俺の横に来た。
何も言わずに、崩れかけた段ボールの山を、脇へ寄せはじめた。
救急隊が入れるように、保管庫までの道を作っている。
ずっと下を向いて、俺と目を合わせなかった若いのが、そのときだけ、俺の隣にいた。
救急隊が来て、作業は止まった。
一万二千個は、その日、出荷されなかった。
山岸さんは、助かった。
ただ、挟まれていた脚には、たぶん、これからも障害が残るだろうと言われた。
半日、棚の重みに圧迫された脚は、元のようには動かないかもしれない、と。
元どおりには、ならなかった。
山岸さんは、もう前と同じようには、この倉庫で働けないだろう。
助かったけれど、助かる前の山岸さんは戻ってこなかった。
俺の派遣契約は、翌週で打ち切りになった。
理由は、業務縮小、とだけ書かれていた。
二回目までと、同じ紙だった。
同じ書き方の、理由の書かれていない紙。
ただ、三回目は、自分で選んで受け取ったぶん、前の二回より、少しだけ軽かった。
事情聴取のとき、他の同僚たちは、みんな「知りませんでした」と答えたそうだ。
あの日、俺の横で道を作った若いのも、たぶん、そう答えた。
それでいいと思った。
みんな、生活があった。
救急車を呼んだ俺だけが、あの倉庫からいなくなった。
黙っていた人たちは、そこに残った。
数か月して、俺のところに、短い手紙が届いた。
山岸さんからだった。
感謝の言葉は、書いていなかった。
かわりに、こう書いてあった。
あの日、あなたに電話をかけさせてしまって、すみませんでした。
山岸さんは、まだ、自分が誰かに迷惑をかけた側だと思っていた。
閉じ込められて、脚を潰されて、それでもまだ、謝るのは自分のほうだと思っていた。
俺は、返事を書いた。
長いことを書こうとして、結局、一行だけになった。
休憩していた人を、起こしただけです。
それからしばらくして、差出人のない封筒が届いた。
中には、あの倉庫がその月に元請けへ出した作業日報のコピーが、一枚だけ入っていた。
誰が送ったのかは分からない。
ただ、梱包台にいた若いのの、伏せた顔を思い出した。
救急車のことは、どこにも書かれていなかった。
備考欄に、一行だけあった。
作業中の事故――ゼロ。
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