前編 六人目
出勤表には、六人。けれど倉庫には、五人しかいない。
初めて出勤した朝、俺は壁の出勤表を三回数えた。
磁石が六つ、横一列に並んでいる。
名前の欄はどれも「出勤」の側に寄っていた。
六人。
今日はこの六人で回すということだ。
責任者の名前は、この表には無い。
あの人は事務所の側の人間で、作業員の表には載らないのだと、朝礼のときに教わった。
通販会社の発送倉庫だった。
天井の高い建屋に、金属の棚が背の三倍も四倍も高く連なって、そのあいだを台車が行き交う。
段ボールと養生テープの匂いが、いつも鼻の奥にあった。
空調はあってないようなもので、冬のこの時期は、吐く息がうっすら白い。
俺はその日から、ここで働くことになっていた。
いい人ばかりの現場だから、と派遣会社の担当者に言われて。
ところが、フロアに出て人を数えると、五人しかいない。
俺を入れて五人だ。
台車を押している中年の男が二人、伝票を仕分けている女が一人、梱包台にいる若いのが一人、そして俺。
何度見回しても、六人目がいない。
初日なのだから、俺の数え間違いだと思った。
忙しい現場だ。
誰かがトイレか、二階の在庫を取りに行っているのだろうと。
仕事は単純だった。
棚から商品を集めて、伝票と数を合わせ、箱に詰めて送り状を貼る。
それを一日じゅう繰り返す。
単純なだけに、体は正直に疲れた。
夕方には指先の感覚が鈍くなり、送り状の細かい住所が二重に見えた。
そんな忙しさのなかでも、六人目のことは、ふとした拍子に頭の隅へ戻ってきた。
名前だけがある、まだ顔を見ていない同僚。
磁石の名前は、山岸、とあった。
「山岸さんって、どの人ですか」
昼前、台車の男に聞いた。
男は手を止めずに、奥のほうへ顎をしゃくった。
「山岸さんね。奥で、休憩中だよ」
休憩。
もう昼にもなっていない時間だった。
俺が黙っていると、男はそれ以上何も言わずに、台車を押して行ってしまった。
別の同僚にも聞いた。
仕分けの女は、少し困った顔をして、「体調が悪いらしくて」と答えた。
梱包台の若いのは、「ずっと奥にいる人だよ」と言った。
若いのは俺と目を合わせなかった。
三人が三人、違う言い方をした。
それでいて、誰も奥のほうを指で差そうとはしなかった。
まるで、そちらを見てはいけないと決めているみたいだった。
昼休み。
休憩室で、俺はもう一度おかしなものを見た。
長机の端に、山岸さんのものらしい弁当が置いてある。
コンビニの袋に入ったまま、まだ手がつけられていない。
畳まれた作業着の上着が、椅子の背にかけてある。
飲みかけの水筒が、蓋を半分ゆるめたまま立っていた。
昼休みが終わっても、山岸さんは来なかった。
弁当にも、誰も触れなかった。
物は、全部そこにあった。
人だけがいなかった。
その日の午後から、俺は奥のほうの音に気づくようになった。
コン、コン、コン。
三回。
少し間を置いて、また三回。
倉庫のいちばん奥、返品の保管庫があるあたりから聞こえてくる。
低くて、固い音だった。
配管の音にしては、間隔が規則正しすぎた。
三回鳴って、また三回。
まるで、誰かが数えて叩いているみたいだった。
けれど、俺のまわりの誰も、その音のほうを見なかった。
台車の車輪の音と、伝票を裂く音のなかに、三回はそのつど溶けて消えていった。
「あの音、なんですか」
通りかかった責任者に聞いた。
四十くらいの、いつも伝票の束を握っている人だった。
「配管の音だよ」
責任者は、俺の顔も見ずに言った。
「古い建屋だからな。水が通ると鳴るんだ。気にすんな」
そう言って、俺と奥の保管庫のあいだに、体を割り込ませるように立った。
保管庫の開き戸の前には、返品の段ボール箱がいくつも積み上げてある。
その手前に、「棚の点検中 立入禁止」と書いた紙が貼られていた。
「そっちは今、点検中だから。近づかなくていい」
点検中の札は、少し古びていた。
角が丸まって、上のほうのテープが乾いて浮いている。
今日貼ったものには見えなかった。
ずっと前から、そこは点検中だったみたいに。
その日の出荷目標は、一万二千個だった。
ホワイトボードに赤いマーカーで書いてある。
俺たち五人で、夕方までにそれを捌かなければならない。
手を止める余裕なんて、どこにもなかった。
同僚たちは、たぶん何かを知っていた。
昼の休憩のとき、山岸さんの弁当の話をしかけると、みんな急に手元の携帯を見るふりをした。
この倉庫では、作業中は携帯をロッカーに預ける決まりだった。
だから休憩の十五分だけが、みんなが外とつながれる時間だった。
その貴重な十五分に、誰も俺の話には乗ってこなかった。
「新しく入った子は、あんまり奥のことは聞かないほうがいいよ」
仕分けの女が、小さな声で言った。
責める口調ではなかった。
むしろ、俺を庇っているような声だった。
「今月、契約の更新だから。みんな、それがあるからさ」
俺も、それ以上は聞かなかった。
二回、派遣を切られている。
二回とも、更新の時期に、静かに切られた。
一度目は自動車部品の工場で、二度目は食品の工場だった。
どちらも、真面目にやっていたつもりだった。
遅刻もしなかったし、休みもしなかった。
それでも、更新の紙は来なかった。
理由は、いつも書いていなかった。
次は無いと言われたわけでもないのに、次から来なくていいと言われた。
だから、今度こそ、余計なことをして仕事を失いたくなかった。
奥のことは、俺には関係ない。
そう自分に言い聞かせて、俺は目標の数字だけを見て手を動かした。
終業のチャイムが鳴る少し前だった。
責任者が、タイムカードのラックの前に立っていた。
俺は自分のカードを押そうとして、その手が、俺のではないカードを抜き取るのを見た。
山岸、と印字されたカードだった。
責任者はそれを機械に差し込んで、退勤の時刻を打った。
「山岸さん、帰ったんですか」
思わず、聞いてしまった。
責任者は、こちらを見ずに答えた。
「ああ。休憩が終わったんだよ」
休憩が終わった。
だったら、あの上着は。
あの水筒は。
休憩室の椅子には、まだ山岸さんの作業着がかかったままだった。
帰った人の物が、帰っていない人の場所に、そのまま残っている。
それがどういうことなのか、そのときの俺は、まだ考えないようにしていた。
俺が突っ立っていると、奥のほうから、また音がした。
コン、コン、コン。
さっきより、弱かった。
三回叩いて、力尽きたように途切れた。
次を待ったけれど、もう鳴らなかった。
そのとき、積み上げた段ボールの、いちばん下の隙間から、何かが押し出されてきた。
床を、こちらへ滑ってくる。
社員証だった。
首から下げる、透明なケースに入ったやつだ。
顔写真の男は、五十過ぎの、疲れた顔をしていた。
山岸、と名前があった。
ケースの角に、赤黒いものがこすれていた。
乾きかけた、血だった。
俺はそれを裏返した。
裏側に、油性ペンで、一行だけ書いてあった。
救急車を呼んでください。
顔を上げると、倉庫では、四人が何も聞こえないふりをして働いていた。
山岸さんは、まだ休憩中だった。
返品保管庫の扉の下から、血のついた社員証が滑り出てくる。




