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神宝町怪異相談 仕事のあとに残るもの  作者: K3/KASANE
二合の炊飯器

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2/26

後編 向かいの席

コンセントを抜き、米びつを空にした夜。悠斗が朝に見たものから。


 うとうとしたのは、明け方だった。


 夜通し、炊飯器を見張っていた。


 抜けたコード、空の米びつ、消えたランプ。


 何も起きなかった。


 安心したら、急に眠くなって、座ったまま目を閉じた。


 次に目を開けたとき、部屋は白かった。


 カーテンの隙間から、朝の光が入っていた。


 炊飯器の、保温のランプが、灯っていた。


 おれは、動けなかった。


 コードは、ちゃぶ台の上に載ったままだ。


 差し込み口には、何も刺さっていない。


 米びつは、ひっくり返して空にした。


 それなのに、ランプが灯って、ふたの縁から、細い湯気が上がっている。


 手が震えた。


 ふたを、開けた。


 白い飯が、釜の半分まで、あった。


 二合。


 温かい。


 怖い、と思うより先に、なぜか、泣きそうになった。


 しゃもじで、すくってみた。


 まだ、ほかほかと湯気が立つ。


 炊き加減も、いつもと同じだ。


 おれが、いつも炊くとおりの、少しやわらかめ。


 誰かが、おれの炊き方を知っている。


 いや、ちがう。


 知っているのは、おれの手だ。


 おれの手が、この飯を炊いている。


 コンセントも、米も、関係なく。


 慈恩は、昼前に来た。


 湯気の話を聞いても、驚かなかった。


 畳に上がると、押し入れを指さした。


 「あれ、開けてもらえますか」


 押し入れには、段ボールがひとつだけ入っていた。


 若葉園から持ってきた、おれの荷物の全部だ。


 ほとんど広げないまま、越してきた。


 開けると、古いアルバムと、当番表のコピーが出た。


 それから、木のしゃもじが一本。


 柄のところが、握るかたちに、黒くすり減っていた。


 「六年、当番だったんですよね」


 慈恩は、当番表を見ながら言った。


 「毎朝、大きい釜で炊いて。何人ぶんも、といで」


 「……はい」


 「そのしゃもじ、園から持ってきたんですか」


 覚えていなかった。


 荷造りしたときの記憶が、ない。


 気づいたら、段ボールに入っていた。


 捨てられなかったんだろう。


 慈恩は、窓を開けた。


 冷たい二月の風と、光が入った。


 「悪いものは、いないって言いましたね。ほんとです」


 彼は、炊飯器のほうへ顎をしゃくった。


 「これは、付喪神でもない。誰かの幽霊でもない」


 「じゃあ、なんなんですか」


 慈恩は、少しだけ黙って、それから言った。


 「あなたの身体が、いちばん人と近かった時間を、まだ繰り返してるんですよ」


 おれには、意味が、すぐには入ってこなかった。


 「若葉園で、あなたは一人で飯を食ったことがない。六年、向かいに誰かがいた。当番のあなたは、その誰かのぶんも、といできた。手が、覚えてる。心じゃなくて、手が」


 だから、と慈恩は言った。


 「必ず、ひとりぶん、多い。この部屋が覚えてるのは、寂しさじゃない。あなたの、いちばん温かかった食卓です」


 炊飯器じゃありません、と慈恩は言った。


 「食卓です」


 その一言で、おれは、喉の奥が詰まった。


 二合が、怖くなくなった。


 かわりに、ひどく、かなしくなった。


 一人になれた、と思っていた。


 誰にも迷惑をかけないことを、自立だと思っていた。


 連絡を絶って、頼らないで、それで大人になったつもりでいた。


 でも、この部屋は、おれよりずっと正直だった。


 おれの身体は、ずっと、向かいの席をさがしていた。


 「祓えますよ」


 慈恩は、あっさりと言った。


 「でも祓えば、あなたのいちばん温かかった時間ごと、消えます。もったいない」


 じゃあ、どうすれば。


 そう訊いたおれに、慈恩は、はじめて笑ったように見えた。


 糸目のまま。


 「消すんじゃなくて、答えてやればいいんですよ。その席に、ほんとに一人、座ってもらう。あなたが、呼べる人を」


 誰か、と言われて、頭に浮かんだのは、たった一人だった。


 立花圭太。


 若葉園で、六年、向かいに座っていた男だ。


 おれの一つ上で、当番のときはいつも、黙って大鍋いっぱいの米をといでいた。


 ぶっきらぼうで、口が悪くて、それでも夜、眠れないおれの布団の端に、なんとなく座っていてくれた。


 二年前に先に退所して、溶接工になったと聞いた。


 番号は知っている。


 でも、一度も、かけていない。


 あいつも、頼られるのが嫌いだった。


 おれも、頼るのが負けだと思っていた。


 だから、どっちからも、かけなかった。


 慈恩は、小瓶を出した。


 粗塩だった。


 「手のひらに、少し」


 言われるまま、おれは塩を受けた。


 汗で溶かして、炊飯器の縁を、自分の手で、ひと回り撫でた。


 冷たい金属が、手のぬくもりで、少しだけ湿った。


 それから、慈恩は無地のカードと、鉛筆を、ちゃぶ台に置いた。


 「なんでもいい。あなたの言葉で、一言」


 おれは、しばらく書けなかった。


 書いて、ちゃぶ台の、向かいの位置に置いた。


 たまに、飯、食おう。


 慈恩は、それを読まなかった。


 読まずに、立ち上がった。


 「ぼくは、その席には座りませんよ」


 彼は、引き戸のほうへ歩きながら、言った。


 「そこは、あなたが呼ぶ人の席だ」


 携帯を開いて、番号を出すまでに、ずいぶんかかった。


 押しては、消した。


 何度も。


 指が、勝手に止まる。


 夜になって、工場から帰って、また出して、また消した。


 結局、電話はかけられなかった。


 かわりに、短いメールを打った。


 長い文は、書けなかった。


 『今日、来れる?』


 送信して、携帯を伏せた。


 返事なんか、来ないかもしれない。


 あいつも、忙しい。


 二年、放っておいたんだ。


 当然だ。


 十分も、たたなかった。


 携帯が、震えた。


 『腹減ってる』


 それだけだった。


 おれは、笑った。


 声を出して、笑った。


 その晩、おれは二合、といだ。


 圭太は、作業着のまま来た。


 相変わらず口が悪くて、部屋の狭さを笑って、それでも、ちゃぶ台の向かいに、当たり前みたいに座った。


 炊きたての飯を、二人で食った。


 おかずは、みなと食堂でタエさんに持たせてもらった煮物と、卵を焼いただけだ。


 狭い部屋に、湯気と、煮物のにおいが満ちた。


 テレビもない部屋に、箸の音と、圭太が飯を掻き込む音だけが響いた。


 若葉園の食堂も、いつも、こんなふうにうるさかった。


 にぎやかで、うるさくて、あたたかかった。


 「おまえ、まだ卵焼くの下手だな」


 「うるせえ」


 圭太は、飯を二杯食って、それから、ぼそっと言った。


 「おれもさ。一人だと、つい、多く炊くんだよ」


 おれは、何も言えなかった。


 ただ、湯気のむこうの、そいつの顔を見ていた。


 二人とも、何も持っていなかった。


 持っていないまま、大人になった。


 それでも、こうして、向かいに座れる。


 帰り際、圭太は玄関で振り返って、いつものぶっきらぼうな声で言った。


 「また、呼べよ」


 翌朝、炊飯器は、一合だった。


 その次の朝も、一合。


 数日、一合が続いた。


 おれは、ちゃんと自分ひとりぶんを、といで、食った。


 それでいい、と思った。


 毎日、誰かがいるわけじゃない。


 圭太も忙しい。


 おれも忙しい。


 それでいい。


 二週間ほどたった朝だった。


 炊飯器が、短い電子音で、炊きあがりを告げた。


 おれは、ふたを開けた。


 二合。


 湯気が、まっすぐ立っていた。


 おれは、笑った。


 携帯を開いて、メールを打った。


 『今日、来れる?』


 十分も、たたないうちに、返事が来た。


 『腹減ってる』


 おれは、もう一度だけ、笑った。


読んでくださって、ありがとうございます。

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