第二話 縫えません
工場が閉まって二週間後、佳代は職業相談窓口にいた。
「三十二年ですか」
担当者の男性が履歴書を見て言った。
「はい」
「ずっと同じ会社で?」
「はい」
「すごいですね」
佳代は曖昧に頭を下げた。
すごいのかどうか、自分では分からない。
辞めなかっただけだ。
正確には、辞める理由がなかった。
「縫製工場ということですが、どんなミシンを使っていました?」
「使ってません」
担当者が顔を上げた。
「ミシンは使われていない?」
「検品でした」
「ああ」
男は履歴書へ目を戻した。
「最終検品ですか」
「はい。仕上げと検品です」
「補修も?」
「簡単な手直しなら。でも商品を縫うのは別の担当でした」
「工業用ミシンは?」
「仕事では使ったことがありません」
「そうですか」
それだけだった。
責められたわけではない。
なのに、佳代は少し小さくなった気がした。
男がパソコンを操作する。
「縫製経験者……これは違いますね」
「はい」
「洋服のお直し」
「できません」
「こちらは工業用ミシン経験必須」
「無理です」
「検品だけだと……」
画面を見ながら、男の声が少し遅くなる。
「近いところには今、ないですね」
佳代は膝の上で指を組んだ。
三十二年。
履歴書では長い。
求人票の前では、ずいぶん細かった。
「少し範囲を広げて探しましょうか」
「お願いします」
◆
一週間後、一件だけ連絡が来た。
小さな衣料品会社だった。
求人には、
『衣料品検品・仕上げ』
『検品経験者歓迎』
と書いてある。
佳代は何度も読んだ。
できる。
これはできる。
面接の日、久しぶりにジャケットを着た。
鏡の前で襟を直す。
袖口を見る。
糸は出ていない。
◆
会社は雑居ビルの三階にあった。
奥に小さな作業場がある。
面接担当の女性は、佳代の履歴書を見るなり驚いた。
「検品三十二年ですか」
「はい」
「それは長いですね」
「長いだけです」
「いやいや。目が違うでしょう」
その言葉が少し嬉しかった。
作業台へ案内された。
「これ、ちょっと見てもらってもいいですか」
ブラウスが一枚置かれた。
佳代は手に取った。
最初に全体。
次に襟。
前身頃。
袖。
裾。
裏側。
「右袖、糸が飛んでます」
「はい」
「脇のところ、一目ずれてます」
「あ、本当だ」
「あと、ここ」
指を置く。
「汚れですか?」
「たぶんチャコです。薄いですけど」
担当者が笑った。
「さすがですね」
胸の奥が少し軽くなった。
まだできる。
自分の目は、なくなっていない。
「うちは人数が少ないので」
担当者が奥を指した。
「簡単な補修も検品の人にお願いしてるんです」
「補修」
「裾上げとか、縫い直しですね」
工業用ミシンが二台並んでいた。
佳代は見た。
知っている機械だった。
長いあいだ、何度も横を通った。
音も知っている。
縫い上がったものも知っている。
でも、その椅子に座ったことはない。
「工業用ミシンは使えますか?」
「……いいえ」
「家庭用は?」
「家で少しなら」
「裾上げは?」
「手縫いなら」
「商品として、です」
佳代はミシンを見たまま答えた。
「仕事では、一度も縫ったことがありません」
担当者の顔から笑みが少し薄くなった。
「三十二年、ですよね」
「はい」
「ずっと検品?」
「はい」
「そうですか」
悪い言い方ではなかった。
ただ、さっきまでとは空気が変わった。
佳代にも分かった。
◆
三日後。
封筒が届いた。
『慎重に選考した結果――』
最後まで読まなくても分かった。
不採用。
紙をテーブルへ置いた。
検品なら、まだ通用すると思った。
さっきのブラウスだって、三つとも見つけた。
それでも会社が欲しかったのは、見つける人だけではなかった。
見つけて、直せる人。
自分には半分しかない。
長く働いた人間。
そう思っていた。
でも、できないことはいくらでもあった。
◆
土曜日。
娘が孫を連れてきた。
「ごめん、お母さん。二時間だけお願い」
「いいよ」
「ほんと助かる」
小学五年生の結衣は、手提げ袋を持っていた。
生成りの布。
青い持ち手。
「それ、学校で作ったの?」
「うん」
「見せて」
結衣が渡す。
佳代は受け取った。
すぐに分かった。
持ち手の位置が左右で違う。
縫い目も曲がっている。
角の処理も甘い。
裏返す。
糸が長く残っている。
「ここ、曲がってるね」
「うん」
「持ち手も、こっちのほうが高い」
「そう?」
「ほら」
「あ、ほんとだ」
佳代は糸切り鋏を持ってきた。
「ちょっと貸して」
「何するの?」
「直す」
縫い目へ鋏の先を入れる。
一本切る。
糸を引く。
するするとほどけた。
「ここからやり直したら、きれいになるから」
二センチ。
三センチ。
五センチほどいたところで、
「おばあちゃん」
「なに?」
「全部直すの?」
「全部じゃないよ。曲がってるところだけ」
「でも」
結衣は袋を見ていた。
「それ、わたしが縫ったやつだよ」
佳代の手が止まった。
「分かってるよ」
「初めてミシン使ったんだよ」
「うん」
「先生にも、最後まで自分でやったって言った」
佳代は、ほどいた五センチを見る。
残っている部分は曲がっている。
均一でもない。
商品なら、通さない。
間違いなく補修へ戻す。
でも、この袋は店へ並ばない。
誰かが金を払って買うものでもない。
「……そうだね」
「変?」
「変じゃないよ」
「さっき曲がってるって言ったじゃん」
「曲がってはいる」
「どっち?」
佳代は返事に困った。
糸切り鋏をテーブルへ置いた。
五センチだけ、縫い目がなくなっている。
残りは結衣が縫ったままだ。
佳代は、残った曲がった縫い目をもう一度見た。
今度は鋏を入れなかった。





