第一話 最後の一着
「これ、補修」
佐伯佳代が言うと、隣にいた森川が笑った。
「まだ見つけるのかよ」
「見つけたから」
「今日で終わりだぞ。最後の一着くらい、通してやれよ」
「最後だからですよ」
佳代は紺色のジャケットの右袖を持ち上げた。
袖口から、白い糸がほんの少し浮いている。
糸だけではない。
縫い目が一目ぶん、わずかに乱れていた。
着れば分からない。
店頭に並んでも、ほとんどの客は気づかないだろう。
それでも佳代には分かる。
三十二年間、そういうものを見てきた。
「はいはい」
森川がジャケットを受け取った。
「最後まで佐伯さんだな」
「悪かったですね」
「褒めてるんだよ」
森川は補修台へ戻っていった。
佳代は空になった検品台を見る。
もう次は来ない。
今のジャケットが最後だった。
工場の奥では、まだ数台のミシンが動いている。
乾いた機械音が重なり、床に細かな振動が伝わってくる。
いつもなら気にも留めない音だった。
今日は、一台止まるたびに分かった。
一つ。
また一つ。
長く聞いてきた音が減っていく。
「佐伯さん」
森川がジャケットを持って戻ってきた。
「これでどうだ」
佳代は受け取った。
袖口を見る。
指で縫い目をなぞる。
裏返す。
糸の始末を確認する。
「大丈夫」
「厳しいなあ」
「これでお金もらってたんですから」
検品台の端に、赤いシールの台紙が置いてある。
佳代は一枚剥がした。
白い文字で、
『検品済』
と印刷されている。
ジャケットの検品票に貼った。
「終わり」
コンベアへ置く。
ジャケットがゆっくり運ばれていった。
端まで行き、箱詰めを担当している社員の手に渡る。
その直後、コンベアが止まった。
少し遅れて、ミシンの音も消えた。
換気扇が止まる。
工場が急に広くなった気がした。
誰かが、
「静かだな」
と言った。
誰も返さなかった。
◆
午後三時。
社員全員が食堂へ集められた。
前に立った社長は六十八歳だった。
佳代が入社したころは、まだ社長ではなかった。
髪が黒かったことも覚えている。
「本日をもちまして、操業を終了します」
何度も聞かされた話だった。
受注が減った。
設備も古くなった。
新しい機械へ替えるには金がかかる。
人も集まらない。
社長の息子は会社を継がなかった。
一つだけなら、どうにかなったのかもしれない。
全部が重なった。
「長い間、本当にありがとうございました」
社長が頭を下げる。
佳代たちも頭を下げた。
泣いている人がいた。
怒っている人はいなかった。
少なくとも、声に出す人はいなかった。
佳代も怒れなかった。
社長に辞めるなと言ったところで、注文は増えない。
古い機械が新しくなるわけでもない。
頭を上げる。
見慣れた顔が並んでいる。
来週からは、この人たちもいない。
それが一番、不思議だった。
◆
ロッカーを空にした。
老眼鏡。
ボールペン。
十五センチの定規。
糸切り鋏。
冬場に使っていたハンドクリーム。
制服は会社へ返す。
作業靴も処分する。
最後に検品台へ戻った。
赤いシールの台紙が、まだ端に残っている。
一枚だけ余っていた。
『検品済』
佳代は台紙ごとつまんだ。
ゴミ箱へ入れようとして、手が止まる。
「一枚、余ったか」
誰に言うでもなく呟いた。
結局、財布へ入れた。
「佐伯さん、帰る?」
森川が声をかけてきた。
「帰ります」
「じゃあな」
「はい。また」
言ってから、二人とも少し黙った。
また。
どこで会うのかは分からない。
「まあ、どっかでな」
「そうですね」
工場を出た。
門の前で一度振り返った。
建物はいつもと同じだった。
明日から誰も来ないようには見えなかった。
◆
帰りにスーパーへ寄った。
夕飯の材料をかごへ入れる。
豆腐。
鯖。
小松菜。
売り場の店員とすれ違った。
紺色の制服の脇が少しつれている。
佳代の目が止まった。
縫うときに布を引っ張ったのだろう。
次に、衣料品売り場の前を通る。
ワゴンに積まれたシャツの袖から、糸が出ている。
一本。
その奥にも一本。
佳代は足を速めた。
今日はもう、見る必要はない。
家へ帰った。
手を洗い、買ってきた物を冷蔵庫へ入れる。
台所の手拭きを見た。
端がほつれている。
糸切り鋏を出した。
切った。
食事を終える。
ソファへ座る。
テレビをつける。
画面を見ながら、膝にかけたブランケットの縫い目を指でなぞっていることに気づいた。
少し曲がっている。
「……もういいでしょう」
自分に言った。
指を離す。
今度はカーテンの裾が気になった。
右側だけ、ほんの少し短い。
佳代はテレビを消した。
静かになった。
工場より静かだった。
◆
夜八時過ぎ、娘から電話が来た。
『お疲れさま。最後どうだった?』
「普通。最後まで仕事しただけ」
『お母さんらしいね。少しゆっくりしたら?』
「そうする」
『三十二年も働いたんだから』
「そうね」
電話を切った。
仕事が好きだったのかと聞かれれば、困る。
朝がつらい日もあった。
人間関係でもめたこともある。
目が疲れて、帰宅すると頭まで痛い日もあった。
それでも、朝になれば工場へ行った。
行けば仕事があった。
次の一着が来た。
見る。
直すところがあれば戻す。
なければ通す。
それを繰り返した。
明日は、次の一着が来ない。
◆
翌朝。
佳代は目を開けた。
枕元の時計を見る。
六時十分。
目覚ましは鳴っていない。
昨夜、切っておいた。
それでも身体が起こそうとしてくる。
布団を出た。
洗面所へ行く。
顔を洗う。
台所へ立つ。
そこで止まった。
弁当はいらない。
制服もない。
七時十五分に家を出る必要もない。
朝食を作り、食べる。
皿を洗う。
まだ七時だった。
テーブルの上に財布がある。
昨日のレシートを出そうとして、赤い台紙が目に入った。
『検品済』
佳代は取り出した。
小さなシールだった。
長いあいだ、何度も貼ってきた。
佳代はしばらく、その四文字を見ていた。
「私はもう、何を見ればいいんだろう」
誰もいない部屋で言った。
答える人はいなかった。





