怒られなくなった人 第三話
数日後。
男はもう一度、慈恩のところを訪れた。
「予約、取りました」
「そうですか」
「来週です」
紹介された医療機関へ電話をかけた。
それだけのことに、三十分かかったという。
「電話する前に、ホームページを何回も読んで」
「はい」
「電話で何を言うかメモして」
「はい」
「迷惑じゃない時間まで調べました」
慈恩は少し笑った。
「あなたらしいですね」
「褒めてませんよね」
「どうでしょう」
男も少し笑った。
以前より、ほんの少しだけ自然な笑い方だった。
「まだ聞こえます」
「声が?」
「はい」
「眠れていますか」
「前よりは。でも、通知音はまだ駄目です」
「そうですか」
「会社でも」
男は膝の上で手を組んだ。
「昨日、新しい上司に『ちょっといい?』って言われて」
心臓が跳ねた。
背中に汗が出た。
頭の中で、あの声がした。
何やったんだ。
またか。
使えないな。
「でも、ただの会議の日程変更でした」
「そうでしたか」
「分かってるんですよ」
男は胸に手を当てた。
「頭では」
慈恩は頷いた。
「身体の方が、まだ知らないのかもしれませんね」
男はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
「身体が?」
「もう怒鳴られない場所にいることを」
男は俯いた。
「……どうやって教えればいいんでしょうね」
「それも、これから専門の方と相談してください」
「ですよね」
「僕が治療の真似をするわけにはいきませんから」
「はっきり言いますね」
「大事なところなので」
男は笑った。
◇
帰り際。
「待ってください」
慈恩が呼び止めた。
男が振り返る。
慈恩は小さな袋を差し出した。
「これを」
「何です?」
「お守りです」
男は両手で受け取った。
掌に収まるほどの、小さなものだった。
「効くんですか」
「何にでしょう」
「いや、こう……声が消えるとか」
「消すためのものではありません」
男はお守りを見る。
「では?」
「また声が聞こえたとき、握ってください」
「それだけ?」
「それだけです」
男は怪訝そうな顔をした。
慈恩は続けた。
「今いる場所を思い出すためです」
「今いる場所」
「その声がいた場所は、もう過去です」
男の指がお守りを包んだ。
「でもあなたは、今もときどき、そこへ連れ戻される」
男は黙っている。
「そのときに触ってください」
「これを」
「ええ」
「ここはあの頃じゃないって?」
「そうです」
男はお守りを見つめた。
「……忘れなくてもいいんですか」
慈恩は少し考えてから答えた。
「忘れることを、次の仕事にしなくていいと思います」
男が顔を上げた。
「あなた、ずっと仕事を増やしてしまうでしょう」
一瞬の沈黙。
男が吹き出した。
「それは……そうかもしれません」
葵が近くから口を挟んだ。
「じゃ、今日はもう終わり」
「え?」
「帰っていいですよ」
男の笑顔が止まった。
葵も気づいた。
帰っていい。
その言葉。
男はしばらく動かなかった。
それからポケットのお守りを握った。
「……はい」
今度は、謝らなかった。
◇
翌日。
午後六時を少し回った。
「今日はもう上がってください」
新しい上司が言った。
「明日の資料はこっちで確認しておくから」
「あ」
男は時計を見た。
周りを見る。
まだ何人か働いている。
パソコンを見る。
メールが一件。
返信してから。
いや。
念のため資料をもう一度。
「みんな仕事してるの見えない?」
耳元で声がした。
男の手が止まった。
心臓が速くなる。
「自分だけ帰るの?」
違う。
「役に立たないな」
違う。
「普通分かるだろ」
男はポケットへ手を入れた。
指先がお守りに触れた。
硬い感触。
握る。
顔を上げた。
目の前にいるのは、あの上司ではなかった。
今の上司だった。
怒鳴っていない。
睨んでもいない。
ただ、自分の仕事をしている。
机も違う。
部署も違う。
季節も違う。
あれから半年が過ぎている。
男はパソコンを見た。
保存。
閉じる。
電源を落とした。
「お疲れさまでした」
同僚が顔を上げた。
「お疲れさまです」
男は鞄を持った。
上司にも頭を下げる。
「お先に失礼します」
「はい、お疲れさま」
それだけだった。
怒鳴られなかった。
嫌味もなかった。
誰も男を追いかけてこなかった。
会社を出る。
秋の夜風が頬に当たった。
男は駅へ向かって歩いた。
ピコン。
スマートフォンが鳴った。
足が止まる。
胸が強く打った。
ポケットの中で、お守りを握る。
それからスマートフォンを取り出した。
画面を見る。
『明日の会議資料、確認しました。問題ありません。お疲れさまでした』
今の上司からだった。
男はしばらく画面を見ていた。
『承知いたしました。ご確認いただきありがとうございます。明日もよろしくお願いいたします』
そこまで打った。
見つめる。
消した。
『ありがとうございます。お疲れさまでした』
送信。
スマートフォンをポケットにしまう。
「遅い」
遠くで声がしたような気がした。
男は立ち止まらなかった。
歩く。
駅前の明かりへ向かって。
ポケットの中には、小さなお守りがあった。
声がもう二度と聞こえないのかは、まだ分からない。
来週には、紹介されたところへ行く。
それで何が変わるのかも、まだ分からない。
ただ。
今日は、自分で会社を出た。
怒られなかった。
それだけのことだった。
それだけのことが、今日は少し嬉しかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。





