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神宝町怪異相談 仕事のあとに残るもの ~仕事を失った人たちの、少し不思議な再出発~  作者: K3/KASANE
怒られなくなった人

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怒られなくなった人 第二話

 慈恩は、男の話を途中で遮らなかった。


 春に何があったのか。


 上司がどういう人間だったのか。


 会社がどう対応したのか。


 そして、上司がいなくなってから何が起きているのか。


 男は一つずつ話した。


「その人は、よく怒鳴ったんですか」


「……はい」


「どんなことで?」


「なんでも、ですね」


 男は苦笑した。


「分からないことがあって聞くと、『そんなことも自分で判断できないのか』って」


「はい」


「だから次から自分で判断したら、『なんで勝手なことしたんだ』って」


 慈恩は黙って聞いている。


「残業してると、仕事が遅いって言われて。早く帰ろうとすると、みんなが働いてるのが見えないのかって」


「それで、どうしました?」


「どうって……」


 男は考えた。


「確認するようになりました」


「何を?」


「全部です」


 メール。


 資料。


 報告。


 退勤時間。


 相手の表情。


 声の調子。


 句読点ひとつまで気になったこともある。


「間違えなければいいと思ってたんです」


「間違えなければ、怒られない?」


「はい」


 男は即答した。


 慈恩が少し黙った。


「今朝、会社を出る前にも確認しましたか」


「しました」


「何を?」


「今日の予定と、昨日送った資料と、メールと」


「何回?」


「……三回くらい」


「なぜ?」


「何か抜けていたら困るので」


「困る?」


「怒られますから」


 慈恩が男を見た。


「誰に?」


 男の口が開いた。


 声が出なかった。


「……え?」


「誰に怒られるんです?」


「それは」


 今の上司。


 そう答えようとした。


 違う。


 今の上司は怒鳴らない。


 失敗すれば注意はされる。


 だが、人格を否定されたことなど一度もない。


 では、誰に。


「……いないですね」


 男は笑った。


 笑ったはずだった。


 頬が引きつっていた。


「もう、いないんだ」


 その瞬間だった。


「そんなことも分からないのか」


 背後から声がした。


 男の身体が固まった。


「すみません」


 反射的に言っていた。


 部屋が静かになった。


 慈恩は男の背後を見ていた。


「……いるんですか」


 男が聞いた。


「後ろに」


 慈恩はすぐには答えなかった。


「先生」


「先生じゃありません」


「あ……すみません」


 まただ。


 男は口元を押さえた。


「今のも?」


「たぶん」


 慈恩は言った。


「あなた、ずっと謝っているんですね」


 男は俯いた。


     ◇


「元上司の霊じゃないんですか」


「その人は生きているんでしょう?」


「はい」


「でしたら、少なくとも亡くなった方の霊ではありません」


「じゃあ、あれは何なんです?」


 慈恩は少し考えた。


「僕には、病気の診断はできません」


 男が顔を上げた。


「あなたが聞いている声のすべてが怪異なのか、それとも強いストレスを受けた経験と関係しているのか。そこを僕が勝手に決めるべきではありません」


「じゃあ……」


「専門の方にも相談しましょう」


 男の表情が硬くなった。


「精神科、とかですか」


「ええ。こうした経験のあとに続く不調を診ているところを」


「俺、そんなにおかしいんですか」


「その言い方はやめませんか」


 静かな声だった。


 男は慈恩を見る。


「困っているから相談する。それだけです」


「でも」


「歯が痛ければ歯医者へ行くでしょう」


「それは……」


「眠れない。音に身体が反応する。仕事にも影響している。だったら、その分野を診ている人に相談していい」


 男は長く黙っていた。


「会社にも知られますか」


「そこも含めて、受診先で相談してください」


「……怖いですね」


「そうでしょうね」


 慈恩は否定しなかった。


「でも、一人で答えを出し続けなくていいんです」


 その言葉に、男は目を伏せた。


 しばらくして、


「紹介してもらえますか」


 と言った。


「もちろん」


     ◇


 話は終わった。


 男が帰ろうとしたときだった。


「一つだけ」


 慈恩が呼び止めた。


「あなたがさっき言ったこと、気になっています」


「何ですか」


「『間違えなければ怒られない』」


 男は黙った。


「たぶんあなたは、ずっと正解を探してきたんでしょうね」


「……はい」


「でも、聞けば怒られる。聞かなくても怒られる。残っても怒られる。帰っても怒られる」


 慈恩はそこで言葉を切った。


「それは、あなたが正解を見つけられなかったからでしょうか」


 男は答えられなかった。


「あなたに直すべきところがあったかもしれない。それと、誰かがあなたを傷つけていいかどうかは、別の話です」


 そのとき。


「言い訳するな」


 声がした。


 男が震えた。


「聞こえました」


 慈恩が言った。


「え?」


「今のは、僕にも」


 男は振り向いた。


 誰もいない。


「やっぱり……いるんじゃ」


「ええ」


 慈恩の視線は、男の背後にあった。


 ぼんやりとした黒い影。


 人の形をしている。


 だが。


 顔がない。


「ただ」


 慈恩は影を見ながら言った。


「あなたの元上司には、見えません」


 影が口のない顔で囁いた。


「使えないな」


「遅い」


「普通分かるだろ」


「何回言わせるんだ」


 同じ言葉。


 何度も。


 何度も。


 新しいことは、一つも言わない。


 男の顔が歪んだ。


「全部……言われたことがあります」


「でしょうね」


「じゃあ、これ」


 男は自分の背後を見ようとした。


「俺が作ったんですか」


「そこまで簡単に決めなくていいと思います」


 慈恩は答えた。


「ただ、その人がいなくなったあとも、言葉だけが残ってしまった」


 男は拳を握った。


「いつまで」


 掠れた声だった。


「いつまで残るんですか」


「分かりません」


 慈恩は誤魔化さなかった。


「だから、専門家の力も借りましょう」


 男の背後で声がした。


「そんなことも一人でできないのか」


 男の唇が動いた。


 いつもの言葉が出かかった。


 すみません。


 だが。


 出なかった。


 男は唇を噛んだ。


 慈恩は何も言わなかった。


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