前編 電話は、切ってはいけない
電話は、こちらから切ってはいけない。
それが、わたしの職場でいちばん古いルールだった。
十四年前、わたしが新人だったころからずっとある。
研修室の壁にも貼ってあった。
お客様が電話をお切りになるまで、こちらから切断しないこと。
黄色く変色した紙が、アクリル板に挟まれている。
理由は単純だ。
最後まで話を聞くこと。
失礼な終わり方をしないこと。
お客様より先に切らないこと。
わたしも、新人たちにはそう教えてきた。
だから二十七回目の電話でも、切らなかった。
切れなかった。
*
「家電お客様窓口、吉岡でございます」
『お前じゃない』
男の声だった。
名乗りもしない。それでも、すぐに分かった。
画面の右端に、今日の着信回数が表示されていた。
二十七。
「恐れ入ります。どのようなご用件でしょうか」
『矢野を出せ』
わたしは隣の席を見た。
矢野真帆の姿はなかった。十分前に席を立ってトイレへ向かったきり、まだ戻ってこない。
「矢野へのお取り次ぎはいたしかねます」
『なんで』
「責任者の吉岡が承ります」
『だから、なんでだって聞いてんだよ』
「この件は、今後わたしが担当いたします」
男が鼻で笑った。
『逃げたんだろ』
「いいえ」
『泣いたか』
「そのようなことは――」
『泣いたんだろ、あの女』
机の下で、わたしは左手を強く握りしめた。爪が手のひらに深く食い込む。
十三時十二分。
二十七回目。
通話録音中。
すべて、画面に残っている。
『なあ。吉岡』
初めて名前を呼ばれた。
『お前、名字しか言わねえのな』
「お問い合わせ内容をお願いいたします」
『下の名前は』
「お問い合わせ内容をお願いいたします」
『何歳』
「お問い合わせ内容をお願いいたします」
『結婚してんの』
「お問い合わせ内容をお願いいたします」
同じ言葉を四回繰り返した。
男は嘲るように笑った。
『お前ら、そういう教育されてんの?』
その通りだった。
答えてはいけない質問には答えない。
ただし、電話はこちらから切らない。
それが、うちの鉄則だった。
男からの最初の電話は、六日前だった。
冷蔵庫の修理依頼だった。
買って四年。朝起きたら冷凍室の氷が溶けていたという。
修理受付をしたのが矢野だった。
二十四歳。入社一年半。
受け答えが丁寧で、説明する直前に小さく息を吸う癖がある。
最初の受電記録を聞く限り、矢野に落ち度はなかった。
訪問可能な日程。
保証の適用範囲。
出張料金が発生する可能性。
部品の在庫次第では即日修理ができない場合があること。
漏れなくすべて説明していた。
男も最後には、
『じゃあ頼むわ』
と納得して通話を終えていた。
問題は、その翌日だった。
訪問予定だった委託修理会社から、部品の手配に時間がかかると連絡が入った。
予定を一日ずらしてもらえないか。
矢野が男に電話をかけた。
そこからだった。
『話が違うだろ』
最初は、そうだった。
怒る理由は理解できる。
冷蔵庫が使えない。中には傷む食材が入っている。わざわざ予定を空けて待っていた。
矢野も誠心誠意謝った。
『申し訳ございません』
録音の中で、三度繰り返している。
四度目から、男の口調が変わった。
『お前、ほんとは昨日の時点で分かってたんじゃないの』
『いえ、その時点では――』
『嘘つくなよ』
『嘘ではございません』
『じゃあ、お前が責任取れよ』
六分。
十一分。
二十三分。
一度電話が切れた。
その三分後に、再び着信があった。矢野が受話器を取った。
『さっき切っただろ』
『お電話が途切れてしまったようで――』
『お前が切ったんだろ』
矢野は切っていなかった。録音のログにも残っている。男側の回線から切断されていた。
だが、事実を説明したところで、相手の耳には届かなかった。
五回目の電話から、
『矢野を出せ』
の一点張りになった。
修理は三日目に完了した。
冷蔵庫は直り、料金の請求についても決着がついた。
それでも、電話はやまなかった。
『矢野いる?』
ただそれだけを確認する電話が頻発するようになった。
用件を尋ねる。
『本人に言う』
わたしが代わる。
『お前じゃ意味ない』
切れる。
またかかってくる。
次の日は八回。
その次の日は十一回。
そして今日、二十七回目を数えていた。
「吉岡さん」
肩を叩かれた。
振り返ると、主任の西本さんが立っていた。
五十六歳。このセンターの立ち上げ時からいるベテランだ。
西本さんは、わたしのディスプレイを指さした。
通話時間は三十分を超えている。
わたしはミュートボタンを押した。
「矢野さん、まだ?」
「戻りません」
「そう」
西本さんは少し眉をひそめた。
「吉岡さんで持たせといて」
「いつまでですか」
「相手が切るまで」
わたしは壁を見つめた。
黄色い紙は、ここからでもはっきりと視界に入る。
「用件は、もうありません」
「でも、お客さんだからね」
「修理はとっくに終わっています」
「だからって、こっちから切るのはまずいよ」
その口調も、十四年前から何も変わっていなかった。
「来月から、あれも始まるでしょ」
西本さんがデスクの上を顎で指した。
配られたばかりの、新しい社内研修資料。
表紙には大きなフォントで、
『カスタマーハラスメント対応基準』
と印字されている。
まだ正式な研修は始まっていない。来月からの運用だった。
「だったら、今からでも適用すべきです」
「正式運用は来月だから」
西本さんは言った。
来月。
わたしは、その言葉を頭の中で静かに反芻した。
「今月は、どうするんですか」
西本さんは答えなかった。
ミュートを解除した。
『おい』
「大変お待たせいたしました」
『遅えよ』
「申し訳ございません」
反射的に謝罪が口をついた。
口にした瞬間、ひどい自己嫌悪が込み上げる。
『矢野、いるんだろ』
「お取り次ぎはいたしかねます」
『じゃあ、お前が謝れ』
「どの件についての謝罪でしょうか」
『全部だよ』
「冷蔵庫の修理につきましては、すでに完了しております」
『そういうことじゃねえんだよ』
知っていた。
もう、修理の話などではないのだ。
『客を怒らせたことを謝れって言ってんだよ』
「ご不快な思いをおかけした点については――」
『お前らさ』
声のトーンが低く沈んだ。
『俺がネットに全部晒したらどうなるか分かってんの?』
わたしは、キーボードの上に置いていた指を止めた。
『録音してあっからな』
「こちらでも、通話内容はすべて録音しております」
一秒。
受話器の向こうが静まり返った。
『……あ?』
「応対品質の向上および事実確認のため、通話を録音させていただいております」
『脅してんのかよ』
「いいえ」
『じゃあ矢野を出せよ!』
「いたしかねます」
『なんでだよ!』
ヘッドセットのイヤーパッドがビリビリと震えた。
周囲の席のオペレーターが数人、こちらを振り返る。
『あの女が嘘ついたんだろ! 出せよ!』
「事実と異なる応対は確認されておりません」
『お前が決めることじゃねえだろ!』
「録音データを確認のうえ、判断しております」
『本人に言わせろよ!』
「できません」
『じゃあ、お前が言え!』
「何をでしょうか」
『私どもが嘘をつきました、申し訳ございませんでしたって言えよ!』
わたしは口を閉ざした。
男も押し黙った。
十秒ほどの沈黙が流れた。
電話の向こうから、テレビの音声が微かに漏れ聞こえてくる。天気予報だった。明日は全国的に晴れる、と気象予報士が告げていた。
『言えよ』
わたしは、決して言わなかった。
その代わり、言葉を一つずつ置くように告げた。
「確認されていない事柄を、事実として認めることはできません」
『お前、名前なんだっけ』
「吉岡です」
『フルネームは』
「お答えできません」
『会社の人間だろ』
「はい」
『じゃあ言えるだろ』
「お答えできません」
『どこのセンターにいるんだよ』
背筋に冷たいものが走った。
「お答えできません」
『東京?』
「お答えできません」
『神宝町?』
指先が凍りついたように止まった。
男が低く嗤った。
『当たりか?』
わたしは答えなかった。
壁の掛け時計が十四時を回った。
通話時間は四十八分に達していた。
電話はこちらから切ってはいけない。
黄色い紙には、そう書いてある。
わたしは、その不文律を十四年間守り続けてきた。
今日この時まで、ただの一度も破ったことはなかった。
*
矢野は、十五時を過ぎてようやく戻ってきた。
瞼が赤く腫れていた。
「すみません」
戻るなり、消え入りそうな声で言った。
「何が?」
「長く席を外してしまって……」
「休憩扱いに処理しておいたから」
「でも」
「いいから」
席に着いてヘッドセットに手を伸ばそうとする彼女を、手で制した。
「今日はもう、電話を取らなくていい」
矢野が驚いたようにこちらを見た。
「後処理のデータ入力をやって」
「でも、件数が足りなくなります」
そんなことは百も承知だった。
一人が電話対応を外れれば、ほかの席の負担が増える。待ち呼が増え、応答率が下がる。
うちの現場は、すべてが数値化される。
応答率。
平均通話時間。
平均保留時間。
後処理時間。
顧客満足度アンケート。
そして、放棄呼数。
だが、現場の人間がどれだけ泣いたかという数だけは、どこの管理画面にも集計されない。
「吉岡さん」
「うん」
「わたし、何か間違った対応をしていましたか」
「何も間違っていない」
「でも、あそこまで怒らせてしまったってことは……」
「何も間違ってない」
「最初の日、もっとちゃんと謝っていれば……」
「三回、謝っている」
矢野が弾かれたように顔を上げた。
「聞いたんですか」
「全部聞いた」
「……全部?」
「六日分のログ、全部」
矢野は唇を噛み、押し黙った。
「気持ち悪くなかったですか」
一瞬、何に対しての言葉か分からなかった。
「自分の声、あんな男に何回も聞かれて……」
わたしは返す言葉を失った。
矢野は力なく笑ってみせた。まったく笑えてはいなかった。
「わたし、もう電話口で自分の名前を名乗りたくないです」
受電時のファーストトーク。
社名、窓口名、そして名字。
それが業務上の絶対の決まりだった。
「分かった」
わたしは頷いた。
「いいんですか」
「わたしが決める」
本来、現場の一SVの独断で許されることではなかった。
それでも、わたしはその日、決めた。
夕方、業務の合間を縫って研修室へ向かった。
壁に貼られた黄色い紙の前に立つ。
十四年前、右も左も分からなかったわたしも、この紙の前で研修を受けた。
お客様が切るまで待つこと。
最後まで傾聴すること。
こちらから通話を遮断すれば、二次クレームに発展する。
だが、クレームになるリスクと、働く人間が壊れる痛みを、同じ天秤に乗せて測る者はいなかった。
アクリル板の端に爪をかけた。
少しだけ板が浮いた。
けれど、まだ剥がし取れなかった。
少なくとも、その日は。





