↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神宝町怪異相談 仕事のあとに残るもの ~仕事を失った人たちの、少し不思議な再出発~  作者: K3/KASANE
クレーマー処理

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/39

前編 電話は、切ってはいけない

電話は、こちらから切ってはいけない。


それが、わたしの職場でいちばん古いルールだった。

十四年前、わたしが新人だったころからずっとある。


研修室の壁にも貼ってあった。


お客様が電話をお切りになるまで、こちらから切断しないこと。

黄色く変色した紙が、アクリル板に挟まれている。


理由は単純だ。

最後まで話を聞くこと。

失礼な終わり方をしないこと。

お客様より先に切らないこと。

わたしも、新人たちにはそう教えてきた。

だから二十七回目の電話でも、切らなかった。

切れなかった。


*

「家電お客様窓口、吉岡でございます」

『お前じゃない』


男の声だった。

名乗りもしない。それでも、すぐに分かった。

画面の右端に、今日の着信回数が表示されていた。

二十七。


「恐れ入ります。どのようなご用件でしょうか」

『矢野を出せ』


わたしは隣の席を見た。

矢野真帆の姿はなかった。十分前に席を立ってトイレへ向かったきり、まだ戻ってこない。


「矢野へのお取り次ぎはいたしかねます」

『なんで』

「責任者の吉岡が承ります」

『だから、なんでだって聞いてんだよ』

「この件は、今後わたしが担当いたします」


男が鼻で笑った。


『逃げたんだろ』

「いいえ」

『泣いたか』

「そのようなことは――」

『泣いたんだろ、あの女』


机の下で、わたしは左手を強く握りしめた。爪が手のひらに深く食い込む。

十三時十二分。

二十七回目。

通話録音中。

すべて、画面に残っている。


『なあ。吉岡』


初めて名前を呼ばれた。


『お前、名字しか言わねえのな』

「お問い合わせ内容をお願いいたします」

『下の名前は』

「お問い合わせ内容をお願いいたします」

『何歳』

「お問い合わせ内容をお願いいたします」

『結婚してんの』

「お問い合わせ内容をお願いいたします」


同じ言葉を四回繰り返した。

男は嘲るように笑った。


『お前ら、そういう教育されてんの?』


その通りだった。

答えてはいけない質問には答えない。

ただし、電話はこちらから切らない。

それが、うちの鉄則だった。


男からの最初の電話は、六日前だった。

冷蔵庫の修理依頼だった。

買って四年。朝起きたら冷凍室の氷が溶けていたという。

修理受付をしたのが矢野だった。

二十四歳。入社一年半。

受け答えが丁寧で、説明する直前に小さく息を吸う癖がある。

最初の受電記録を聞く限り、矢野に落ち度はなかった。

訪問可能な日程。

保証の適用範囲。

出張料金が発生する可能性。

部品の在庫次第では即日修理ができない場合があること。

漏れなくすべて説明していた。

男も最後には、


『じゃあ頼むわ』


と納得して通話を終えていた。


問題は、その翌日だった。

訪問予定だった委託修理会社から、部品の手配に時間がかかると連絡が入った。

予定を一日ずらしてもらえないか。

矢野が男に電話をかけた。

そこからだった。


『話が違うだろ』


最初は、そうだった。

怒る理由は理解できる。

冷蔵庫が使えない。中には傷む食材が入っている。わざわざ予定を空けて待っていた。

矢野も誠心誠意謝った。


『申し訳ございません』


録音の中で、三度繰り返している。

四度目から、男の口調が変わった。


『お前、ほんとは昨日の時点で分かってたんじゃないの』

『いえ、その時点では――』

『嘘つくなよ』

『嘘ではございません』

『じゃあ、お前が責任取れよ』


六分。

十一分。

二十三分。

一度電話が切れた。

その三分後に、再び着信があった。矢野が受話器を取った。


『さっき切っただろ』

『お電話が途切れてしまったようで――』

『お前が切ったんだろ』


矢野は切っていなかった。録音のログにも残っている。男側の回線から切断されていた。

だが、事実を説明したところで、相手の耳には届かなかった。

五回目の電話から、


『矢野を出せ』


の一点張りになった。


修理は三日目に完了した。

冷蔵庫は直り、料金の請求についても決着がついた。

それでも、電話はやまなかった。


『矢野いる?』


ただそれだけを確認する電話が頻発するようになった。

用件を尋ねる。


『本人に言う』


わたしが代わる。


『お前じゃ意味ない』


切れる。

またかかってくる。

次の日は八回。

その次の日は十一回。

そして今日、二十七回目を数えていた。


「吉岡さん」


肩を叩かれた。

振り返ると、主任の西本さんが立っていた。

五十六歳。このセンターの立ち上げ時からいるベテランだ。

西本さんは、わたしのディスプレイを指さした。

通話時間は三十分を超えている。

わたしはミュートボタンを押した。


「矢野さん、まだ?」

「戻りません」

「そう」


西本さんは少し眉をひそめた。


「吉岡さんで持たせといて」

「いつまでですか」

「相手が切るまで」


わたしは壁を見つめた。

黄色い紙は、ここからでもはっきりと視界に入る。


「用件は、もうありません」

「でも、お客さんだからね」

「修理はとっくに終わっています」

「だからって、こっちから切るのはまずいよ」


その口調も、十四年前から何も変わっていなかった。


「来月から、あれも始まるでしょ」


西本さんがデスクの上を顎で指した。

配られたばかりの、新しい社内研修資料。

表紙には大きなフォントで、


『カスタマーハラスメント対応基準』


と印字されている。

まだ正式な研修は始まっていない。来月からの運用だった。


「だったら、今からでも適用すべきです」

「正式運用は来月だから」


西本さんは言った。

来月。

わたしは、その言葉を頭の中で静かに反芻した。


「今月は、どうするんですか」


西本さんは答えなかった。


ミュートを解除した。


『おい』

「大変お待たせいたしました」

『遅えよ』

「申し訳ございません」


反射的に謝罪が口をついた。

口にした瞬間、ひどい自己嫌悪が込み上げる。


『矢野、いるんだろ』

「お取り次ぎはいたしかねます」

『じゃあ、お前が謝れ』

「どの件についての謝罪でしょうか」

『全部だよ』

「冷蔵庫の修理につきましては、すでに完了しております」

『そういうことじゃねえんだよ』


知っていた。

もう、修理の話などではないのだ。


『客を怒らせたことを謝れって言ってんだよ』

「ご不快な思いをおかけした点については――」

『お前らさ』


声のトーンが低く沈んだ。


『俺がネットに全部晒したらどうなるか分かってんの?』


わたしは、キーボードの上に置いていた指を止めた。


『録音してあっからな』

「こちらでも、通話内容はすべて録音しております」


一秒。

受話器の向こうが静まり返った。


『……あ?』

「応対品質の向上および事実確認のため、通話を録音させていただいております」

『脅してんのかよ』

「いいえ」

『じゃあ矢野を出せよ!』

「いたしかねます」

『なんでだよ!』


ヘッドセットのイヤーパッドがビリビリと震えた。

周囲の席のオペレーターが数人、こちらを振り返る。


『あの女が嘘ついたんだろ! 出せよ!』

「事実と異なる応対は確認されておりません」

『お前が決めることじゃねえだろ!』

「録音データを確認のうえ、判断しております」

『本人に言わせろよ!』

「できません」

『じゃあ、お前が言え!』

「何をでしょうか」

『私どもが嘘をつきました、申し訳ございませんでしたって言えよ!』


わたしは口を閉ざした。

男も押し黙った。

十秒ほどの沈黙が流れた。

電話の向こうから、テレビの音声が微かに漏れ聞こえてくる。天気予報だった。明日は全国的に晴れる、と気象予報士が告げていた。


『言えよ』


わたしは、決して言わなかった。

その代わり、言葉を一つずつ置くように告げた。


「確認されていない事柄を、事実として認めることはできません」

『お前、名前なんだっけ』

「吉岡です」

『フルネームは』

「お答えできません」

『会社の人間だろ』

「はい」

『じゃあ言えるだろ』

「お答えできません」

『どこのセンターにいるんだよ』


背筋に冷たいものが走った。


「お答えできません」

『東京?』

「お答えできません」

『神宝町?』


指先が凍りついたように止まった。

男が低く嗤った。


『当たりか?』


わたしは答えなかった。


壁の掛け時計が十四時を回った。

通話時間は四十八分に達していた。

電話はこちらから切ってはいけない。

黄色い紙には、そう書いてある。

わたしは、その不文律を十四年間守り続けてきた。

今日この時まで、ただの一度も破ったことはなかった。


*

矢野は、十五時を過ぎてようやく戻ってきた。

瞼が赤く腫れていた。


「すみません」


戻るなり、消え入りそうな声で言った。


「何が?」

「長く席を外してしまって……」

「休憩扱いに処理しておいたから」

「でも」

「いいから」


席に着いてヘッドセットに手を伸ばそうとする彼女を、手で制した。


「今日はもう、電話を取らなくていい」


矢野が驚いたようにこちらを見た。


「後処理のデータ入力をやって」

「でも、件数が足りなくなります」


そんなことは百も承知だった。

一人が電話対応を外れれば、ほかの席の負担が増える。待ち呼が増え、応答率が下がる。

うちの現場は、すべてが数値化される。

応答率。

平均通話時間。

平均保留時間。

後処理時間。

顧客満足度アンケート。

そして、放棄呼数。

だが、現場の人間がどれだけ泣いたかという数だけは、どこの管理画面にも集計されない。


「吉岡さん」

「うん」

「わたし、何か間違った対応をしていましたか」

「何も間違っていない」

「でも、あそこまで怒らせてしまったってことは……」

「何も間違ってない」

「最初の日、もっとちゃんと謝っていれば……」

「三回、謝っている」


矢野が弾かれたように顔を上げた。


「聞いたんですか」

「全部聞いた」

「……全部?」

「六日分のログ、全部」


矢野は唇を噛み、押し黙った。


「気持ち悪くなかったですか」


一瞬、何に対しての言葉か分からなかった。


「自分の声、あんな男に何回も聞かれて……」


わたしは返す言葉を失った。

矢野は力なく笑ってみせた。まったく笑えてはいなかった。


「わたし、もう電話口で自分の名前を名乗りたくないです」


受電時のファーストトーク。

社名、窓口名、そして名字。

それが業務上の絶対の決まりだった。


「分かった」


わたしは頷いた。


「いいんですか」

「わたしが決める」


本来、現場の一SV(スーパーバイザー)の独断で許されることではなかった。

それでも、わたしはその日、決めた。


夕方、業務の合間を縫って研修室へ向かった。

壁に貼られた黄色い紙の前に立つ。

十四年前、右も左も分からなかったわたしも、この紙の前で研修を受けた。

お客様が切るまで待つこと。

最後まで傾聴すること。

こちらから通話を遮断すれば、二次クレームに発展する。

だが、クレームになるリスクと、働く人間が壊れる痛みを、同じ天秤に乗せて測る者はいなかった。

アクリル板の端に爪をかけた。

少しだけ板が浮いた。

けれど、まだ剥がし取れなかった。

少なくとも、その日は。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。