第3話 返却日
翌週、山岸美和さんは神宝町立図書館へ来た。
手には小さな布袋を提げていて、その中に『星を見る人』が入っていた。
カウンターの内側から、わたしはその姿を見つけた。
すぐに分かった。
この人は、本を返しに来たのではない。
あの日から止まっていた時間を、自分の手で動かしに来たのだ。
「水野さん。これを」
わたしは本を受け取り、図書館員としていつもの言葉を口にした。
「返却ありがとうございます」
美和さんは少し笑った。
「遅すぎましたね」
わたしは首を振った。
「図書館では」
「戻ってきた日が、返却日です」
美和さんは本を見た。
その目には寂しさがあったが、以前のような苦しさはなかった。
わたしは返却処理をするため、古い貸出カードを開いた。
山岸修一。
二十一年前の名前。
その横に、今日の日付を記入する。
ペン先が紙に触れた瞬間、わたしは少しだけ違和感を覚えた。
最後のページを、いつものように確認する。
そこには、あの文字があった。
『まだ返せていません』
わたしは息を止めて、美和さんにも見せた。
しかし、その文字は少しずつ薄くなっていった。
鉛筆の線が、紙へ吸い込まれるように消えていく。
そして、その下に、新しい文字が浮かんだ。
『ありがとう』
美和さんは、しばらく動かなかった。
「……修一さんらしいです」
小さく笑う。
「最後まで、返事を待たせる人でしたから」
わたしは何も言わなかった。
図書館では、本は言葉を残さない。
残るのは記録だけだ。
誰が借りたか、いつ返されたか。
それだけの場所だと思っていた。
でも、その記録の向こうには、必ず誰かがいる。
誰かが読んだ時間。
誰かが大切にした時間。
誰かが、戻れなかった時間。
それもまた、本が残すものなのかもしれない。
閉館後、わたしは慈恩さんへ報告した。
「終わりました」
慈恩さんは十階の事務所で湯呑みを置いた。
「返却できたんですね」
「はい」
「怪異は?」
わたしは少し考える。
「分かりません。最初から、怪異だったのかも。ただの記録だったのかもしれません」
慈恩さんは笑った。
「それでいいと思いますよ。人が大事にしたものって、時々、人がいなくなった後も残りますから。それを怪異と呼ぶかどうかは、残った人が決めることです」
数週間後、『星を見る人』は元の棚へ戻った。
今度は、普通の本として。
貸出カードには、新しい記録が増えていた。
貸出 一九九八年四月十二日。
返却 二〇一九年四月。
最後の欄、備考。
「返却済」
わたしはその文字を見て、少しだけ安心した。
図書館には、今日も本が出ていく。
そして、いつか誰かのところから、帰ってくる。
返却期限を過ぎても。
帰る場所さえ、なくならなければ。





