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神宝町怪異相談 仕事のあとに残るもの ~仕事を失った人たちの、少し不思議な再出発~  作者: K3/KASANE
返却期限

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第2話 最後の借主


 紙の貸出カードは、一枚ではなかった。


 正確には、一枚の紙の下に、もう一つの筆跡が残っていた。


 上から強く文字を書けば、下の紙に跡が残る。


 それと同じことが、古いカードの上で起きていた。


 慈恩さんがカードを傾けると、蛍光灯の光が浅い溝を拾った。


 山岸 修一。


 その下に、消された名前があった。


 山岸 美和。


 「先に書いたのは、こちらですね。消して、書き直した」


 慈恩さんは言った。


 驚かせるような言い方ではなく、ただ見えたものを伝えるだけの声だった。


 「どうして……」


 「それは、夫婦のことなので。ぼくには分かりません」


 慈恩さんはカードを返し、少し間を置いて続けた。


 「でも、この本が覚えているのは、名前じゃありません。最後に、この本を必要としていた人です」


 わたしはその言葉を何度も考えた。


 借りた人ではなく、返さなかった人でもなく、本当にこの本を待たせていた人。


 山岸修一の住所は、貸出者台帳に残っていた。


 同じ町内で、住所変更もされていない。


 市の窓口で確認できたのは、その人が二十一年前に亡くなっていることだけだった。


 わたしは電話をかけなかった。


 図書館から連絡をする理由を考えた。


 返却依頼ではない。


 延滞確認でもない。


 では、何のために連絡するのか。


 考えているうちに、休みの日になった。


 わたしは本を風呂敷に包んで、山岸家へ向かった。


 仕事ではなかった。


 でも、仕事の続きをしている気がした。


 玄関前には、小さな鉢植えが並んでいた。


 呼び鈴を押すと、少し時間が経ってから戸が開いた。


 「山岸さん、でしょうか。神宝町立図書館の者です」


 顔を出したのは七十代後半の女性で、背筋は伸びていた。


 図書館、と言った瞬間、その表情が少し変わった。


 わたしは本を取り出した。


 山岸美和さんは本を見たが、手を伸ばさなかった。


 ただ、小さく息を吐いた。


 「……まだ返してなかったんですね」


 その言葉を聞いて、わたしは分かった。


 この人は、この本を知らなかったのではない。


 ずっと覚えていたのだ。


 居間へ通された。


 テーブルには湯呑みが二つ並んだ。


 一つは美和さんの前、もう一つは向かい側。


 わたしは少し迷ってから、その席に座った。


 「その本を借りたのは、わたしなんです」


 美和さんは静かに話し始めた。


 二人で暮らし始めて、まだ何年も経っていない頃。


 夫の修一さんは工場勤務で、三交代制のため生活時間も合わなかった。


 そんな時、修一さんが珍しく言った。


 「星を見たい」


 理由は分からなかった。


 テレビで見たのかもしれないし、誰かに聞いたのかもしれない。


 美和さんは図書館で『星を見る人』を借りた。


 星の本を読みながら、夜空を見るためだった。


 貸出カードには、自分の名前を書いた。


 すると修一さんが言った。


 「俺の名前にしておいて」


 「どうして?」


 「返しに行く理由ができるから」


 美和さんは笑った。


 意味は分からなかったが、修一さんらしいと思った。


 だから名前を書き直した。


 二人はその春に何度か星を見た。


 堤防まで自転車を押していって、懐中電灯で本を照らし、書かれている星と空の星を比べた。


 修一さんは毎回、違う星を指して「これだ」と言った。


 美和さんは、間違いを指摘しなかった。


 「言ったら、次から誘ってくれなくなる気がしたんです」


 そう言って、美和さんは笑った。


 返却期限は五月十二日だった。


 その頃、修一さんは夜勤が続いていた。


 「休みの日に、一緒に返そう」


 そう約束した三日後、修一さんは工場で倒れた。


 四十一歳だった。


 美和さんはしばらく黙った。


 「本なんて、ただの本でしょう」


 小さな声だった。


 「でも……返してしまったら、この本と一緒にいた時間まで、終わってしまう気がしたんです」


 わたしは何も言えなかった。


 返却期限を過ぎていたのは、本ではなかった。


 あの日から続いていた時間だった。


 美和さんは、本へ手を伸ばした。


 「返したいです。今なら、ちゃんと返せる気がします」


 その言葉を聞いた時、わたしは初めて、この本が何を待っていたのか分かった気がした。


 返却ではない。


 終わらせるための手続きでもない。


 誰かが、自分の時間を次へ進めるための区切り。


 わたしは本を抱えて立ち上がった。


 「図書館で、お待ちしています」


 美和さんは、小さくうなずいた。


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