後編 お客様ではありません
翌朝、九時二分に代表番号の受電ランプが激しく明滅した。
窓口の開始は九時ちょうどだ。わずか二分。
着信番号がモニターに浮き上がる。
昨日と同じ番号だった。
わたしは迷わず、自席のヘッドセットを接続した。
「家電お客様窓口、責任者の吉岡でございます」
『矢野』
「お取り次ぎはいたしかねます」
『またお前か』
「今後、本件につきましてはすべてわたしが承ります」
『だから矢野を出せって言ってんだよ』
「できません」
『お前じゃ話にならない』
「それでは、ご用件をお聞かせ願えますでしょうか」
『矢野を出せ』
「ご用件をお願いいたします」
『矢野』
三度、同じ名前が繰り返された。
昨日までなら、相手が疲弊して諦めるまでこの無意味な押し問答を続けていただろう。
だが、今日のわたしのデスクの上には、一枚のプリントアウトが置かれていた。
昨夜のうちにまとめた、六日間の着信ログの分析シートだ。
一日目、四件。
二日目、八件。
三日目、十一件。
四日目、十五件。
五日目、十九件。
六日目、二十七件。
累計、八十四件。
そのうち、修理という正当な用件に関するやり取りは、最初の七件のみ。
残りの七十七件は、矢野への執拗な名指し要求、根拠のない謝罪強要、個人情報を聞き出そうとする嫌がらせ、録音公開を匂わせた脅迫、勤務地を特定しようとするストーキング行為。
事実を淡々と一枚に集約し、始業前に西本さんへ提出していた。
西本さんはシートを見つめ、
「これ、本社コンプライアンスに上げよう」
と呟いた。昨日までの煮え切らない態度とは違っていた。
だが、「今日またかかってきたらどうしますか」と尋ねたときの答えは、
「とりあえず、吉岡さんで受けて」
だった。そこだけは昨日と何も変わっていなかった。
『おい、聞いてんのか』
「伺っております」
『お前ら、客商売をなめてんのか』
「ご意見として記録いたします」
『矢野を出せ』
「いたしかねます」
『じゃあ、今日も一日中かけ続けてやるからな』
男の苛立った声を聞きながら、わたしは息を整えた。
昨日まではただの暴力的な脅迫に思えた言葉が、今は明確な「証拠」として耳に入ってきた。
「承知いたしました」
『……何がだよ』
「ただいまの発言も、業務妨害の記録として残させていただきます」
『はあ?』
「昨日までの全通話記録も確認いたしました」
『だから何だってんだよ!』
「冷蔵庫の修理に関するご用件は、すでに正常に完了しております」
『終わってねえよ!』
「具体的に、修理のどの部分が未完了なのでしょうか」
『だから、矢野の対応が――』
「修理内容に関するご用件でしょうか」
『人の話を聞けよ!』
「聞いております」
『あの女のふざけた態度の話をしてんだよ!』
「録音ログを確認した限り、矢野の応対に虚偽や重大な過失は一切確認されておりません」
『お前らが身内で勝手に決めただけだろ!』
「はい。弊社の応対基準に照らし合わせ、弊社として正式に確認した結果でございます」
『じゃあ何だ、俺が嘘つきだって言いたいのかよ!』
「そのような申し立てはしておりません」
『言ってんのと同じだろうが!』
受話器から怒声が炸裂した。
わたしは冷静に受話音量を一段階下げた。
『矢野を出せ!』
「いたしかねます」
『出せ!』
「できません」
『出せっつってんだろうが!』
「お断りいたします」
そのとき、エントランスの自動ドアが開き、矢野が出勤してきた。
フロアに入った矢野は、すぐにわたしの席と頭上の受電ランプを見た。
ぴたりと足が止まる。顔から血の気が引いていくのが見えた。
わたしは左手を小さく振って、「あっちに行っていて」とジェスチャーで伝えた。
矢野はその場に立ち尽くし、動けずにいた。
『おい!』
ヘッドセットの向こうから声が響く。わたしは正面を向き直した。
『客が出せって言ってんだぞ!』
「はい」
『なら出せよ!』
「できません」
『てめえらは客より社員を守るのかよ!』
鼓膜を叩いたその怒号は、驚くほど澄んで聞こえた。
わたしは迷うことなく答えた。
「はい」
受話器の向こうの空気が、凍りついたように止まった。
自分でも驚くほど、滑らかに喉から滑り出た言葉だった。
『……は?』
「従業員を守ります」
『お前、今なんつった……?』
「従業員を守ります」
『客を何だと思ってんだよ!』
わたしは手元の紙を見つめた。
八十四件の着信。
六日間の執着。
二十七回の罵声。
矢野が個室トイレから戻れなかった四十三分間。
すべてが、ここに記されている。
「正当なお問い合わせに対しては、今後も誠心誠意対応いたします」
『正当だと……?』
「ええ。ただし、特定の従業員を執拗に名指しすること、個人情報を聞き出そうとすること、事実関係が確認されていない事柄について謝罪を強要し続ける行為に対しては、今後一切対応いたしません」
『誰が決めたんだよそんなこと!』
「窓口責任者である、わたしが決重いたしました」
振り返ると、西本主任が目を見開いてこちらを凝視していた。
わたしも主任の目をまっすぐに見つめ返した。西本さんは、何も言わなかった。
『お前、責任取れんのかよ!』
「取ります」
『名前を名乗れ!』
「吉岡です」
『フルネームを言えってんだよ!』
「お答えいたしません」
『会社にクレーム入れてやるからな!』
「承知いたしました」
『本社にも怒鳴り込んでやる!』
「承知いたしました」
『SNSで実名ごと晒してやるぞ!』
「その発言もすべて記録いたしました」
『てめえ――』
「なお、これ以上同様の言動が続くようであれば、こちらから通話を終了させていただきます」
ついに言った。
口にしてしまった。
研修室の壁にある、あの黄色い紙。
お客様が切るまで、こちらから切断しないこと。
十四年間、金科玉条のように守り続けてきた誓い。
『はあ!?』
「同様の要求が繰り返される場合、通話を切断いたします」
『客の電話を、お前ら側から切る気かよ!』
「はい」
『やれるもんならやってみろよ!』
「これ以上のご用件がないようでしたら、通話を終了させていただきます」
『矢野を出せ!』
「できません」
『出せよ!』
「できません」
『出せって言ってんだろが!』
「これ以上の不当な要求には、一切対応いたしかねます」
『ふざけんな!』
「失礼いたします」
『おい、待て――!』
「こちらから、切ります」
わたしはマウスを操作し、画面中央の赤い切断ボタンをクリックした。
プツン、と音が途絶えた。
耳元を支配していた怒号が、嘘のように掻き消える。
数十秒の間、誰も何も言葉を発しなかった。
フロアには三十人ほどのオペレーターがいる。別の受話器に向かって話す声も、キーボードを叩く音もあったはずなのに、わたしの周囲だけ、すっぽりと音を奪われたように静まり返っていた。
モニターの中央には、無機質な四文字が表示されている。
『通話終了』
わたしはヘッドセットを外し、デスクに置いた。
指先が、かすかに震えていた。
「吉岡さん」
背後から、低く抑えた西本さんの声がした。
「はい」
「今のは……」
「はい」
「独断で切ったね?」
「はい。切りました」
西本さんは、一度だけゆっくりと目を閉じた。
「……ログ、詳細に残しといて」
「残します」
「本社にも正式にエスカレーション上げる」
「お願いします」
「たぶん、始末書書かされるよ」
「書きます」
「俺も書くから」
わたしは思わず西本さんの顔を見た。
「主任も、ですか?」
「そりゃそうでしょ」
「わたしが勝手に切ったんです」
「ここ、俺のチームでもあるんだから」
西本さんはそうぼやいて、肩をすくめながら自席へと戻っていった。
その日の午後、案の定、本社コンプライアンス部から内線がかかってきた。
激しく叱責されることはなかった。
かといって、称賛されることもなかった。
どういった基準で切断の判断を下したのか。
何回のアラートを出したのか。
事前の警告は何段階踏んだのか。
製品の修理対応そのものは完了していたのか。
事務的な質問を淡々と投げかけられ、わたしはそのすべてに事実のみを答えた。
最後に、受話器の向こうの担当者が言った。
『現行のマニュアルには、オペレーター側からの強制切断に関する規定が存在しません』
「はい」
『今後、ガイドラインを早急に整備します』
「お願いいたします」
『ただ、吉岡さん』
「はい」
『手順が明文化されていない段階で独断専行したという事実は、人事記録に残ります』
「承知しております」
それは脅しではなく、本当に記録された。
翌月の評価面談のシートには、
『手順外対応:一件』
と印字されていた。
目立たない、小さな文字だった。
半期の個人評価ランクは一段階引き下げられた。基本給が減額されたわけではない。けれど、役職手当の昇給は見送られた。
少しだけ腹が立った。
いや、正直に言えば、かなり腹が立った。
それでも、その一文を取り消してくれとは頼まなかった。
あの日、あの電話を切ったのは、紛れもなくわたし自身だった。それは覆しようのない事実だったからだ。
*
一週間後。
センターの掲示板に、一枚の新しい文書が張り出された。
正式なマニュアルの改訂ではない。
『カスタマーハラスメント暫定対応フロー』
そうタイトルが打たれていた。
・特定の従業員に対する執拗な名指し、つきまとい行為
・人格を否定し、尊厳を傷つける言動
・業務と無関係な個人情報の執拗な追及
・同一内容による長時間の拘束、理不尽な謝罪強要
上記の事象が認められ、通常の応対継続が困難と判断される場合、速やかにSVへ交代すること。
交代後も改善が見られない場合、通話終了を予告すること。
警告後も態度が改まらない場合は、管理者判断において通話を切断して差し支えない。
A4用紙一枚の、簡素な規定だった。
十四年前から壁に貼られていた紙よりも、新しく刷られた分だけ白さが際立っていた。
男からの着信は、その後も三度あった。
だが、そのすべてが管理者窓口へ直接転送され、矢野に回ることは二度となかった。
四度目の着信は、もう来なかった。
矢野は仕事を辞めなかった。
だからといって、何事もなかったかのようにすべてが元通りになったわけではない。
着信ランプが点滅するたび、彼女が一瞬だけ息を呑んでモニターを凝視する癖。
自分の名字を名乗る直前に、ほんのわずかだけ声が震えること。
そうした傷跡は、確かに残った。
十月の第一月曜日。
研修室で、秋採用の新人研修が行われた。
講師を担当したのは、わたしだった。
十名の新人が、緊張した面持ちでパイプ椅子に座っている。
基本の名乗り。
保留の操作手順。
復唱と確認の作法。
個人情報の取り扱い。
一通りのカリキュラムを終えたあと、わたしは受講生たちを連れて壁の前に立った。
色褪せた黄色い紙がそこにある。
『お客様が電話をお切りになるまで、こちらから切断しないこと』
「この規定ですが」
新人たちが一斉に壁を見上げる。
「今日をもって破棄します」
わたしはアクリル板のネジを緩め、前面の板を持ち上げた。
十四年間壁に留め置かれていた紙は、指先に伝わる感触が驚くほど頼りなく薄かった。
引き抜いて裏返すと、裏側だけが白く、貼られた当時のままの姿を残していた。
「もちろん、通常の問い合わせについては、これまで通りです」
わたしは新人たちに向き直った。
「お客様のお話は最後まで傾聴してください。感情的になっているからといって、こちらの都合で安易に切断していいわけではありません。お客様の怒りの中に、正当なご指摘が含まれていることもたくさんあります」
十人が真剣な眼差しで小さく頷いた。
「ですが」
わたしは言葉を区切り、全員の目を一人ずつ見つめた。
「電話の向こうにいる相手なら、何を言っても許されるという場所ではありません」
最前列に座る新人の一人が、わずかに視線を上げた。
「理不尽な暴力に晒されたら、一人で耐えずに、必ず責任者を呼んでください」
わたしは用意していた新しい白い紙を、アクリル板の隙間に滑り込ませた。
「理不尽に耐え続けることは、皆さんの仕事ではありません」
研修を終えて片付けをしていると、矢野がドアをノックして入ってきた。
「お疲れさまでした。終わりましたか?」
「終わったよ」
矢野の視線が、壁の掲示板へと向いた。
「あ」
「うん」
「外したんですね」
「外した」
矢野は、新しく挟み込まれた白い紙の文字を、じっと目で追っていた。
「吉岡さん」
「ん?」
「あの日」
「うん」
「吉岡さんが、電話を切ったとき」
「切ったね」
「わたし、本当に心臓が止まるかと思いました」
「わたしもだよ」
矢野が笑った。
今度はぎこちなさのない、ごく自然な笑顔だった。
「でも、電話が切れて音が消えた瞬間」
「うん」
「世界が、すごく静かになった気がしたんです」
「……そうだね」
わたしも小さく笑って頷いた。
フロアに戻ると、電話の呼び出し音が鳴り響いていた。
矢野が自席へ小走りに向かい、ヘッドセットのスイッチを入れた。
「お電話ありがとうございます。家電お客様窓口、矢野でございます」
電子レンジの時刻設定に関する、ごくありふれた問い合わせだった。
矢野が手順をゆっくりと説明する。
電話の向こうの相手が照れたように笑い、矢野もつられて柔らかく微笑む。
「はい。そちらのボタンを長押ししていただければ大丈夫です」
しばらくして、矢野が丁寧に頭を下げた。
「お問い合わせいただき、誠にありがとうございました」
それから、受話器の向こうの反応を静かに待った。
『ありがとう、助かったよ』
スピーカー越しに、温かみのある声が届いた。
相手が先に電話を切り、ピッと短い電子音が落ちた。
矢野は何事もなかったかのようにキーボードを叩き、次の受電ランプへと視線を移す。
わたしは壁の時計を見上げた。
特別なことは何一つ起きない。
ただ一件の仕事が、当たり前に、穏やかに終わった。
それだけで、十分だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。





