前編 十四分の欠け
その台のセーフティは、毎朝、一段下がっていた。
下がっているのに気づいた日から数えて、三十七日目だった。
数えているのは僕だけだと思う。
事務室の壁に貼った清掃当番表の裏に、正の字で書いてある。
八つ目の正の字が、まだ二画で止まっていた。
朝の点検は九時二十分に始める。
裏口の鍵を開け、事務室のブレーカーを上げ、照明を半分から全部にする。
給水機の水量。
ゴミ袋の残り。
それからフロアを一周して、ランニングマシンのベルトの上に落ちているものを拾う。
落ちているのはたいてい、外れたイヤーピースか、髪の毛か、汗の乾いた白い粒だった。
フリーウェイトエリアは、フロアのいちばん奥にある。
床のゴムマットが他より厚くて、歩くと足音が消える。
ラックが三つと、ベンチ台が二つ。
奥の一台が、あの台だった。
セーフティは、支柱に開いた穴にピンを差して高さを決める。
穴は上から順に八つ並んでいる。
僕は帰る前に必ず、上から二つ目の穴にピンを入れて帰る。
バーが胸に触れる手前で止まる高さだ。
事故のあとから、そうするようにした。
あの夜どの高さだったかを、僕は見ていない。
朝、ピンは一つ下の穴に移っている。
抜いて、差し直す。
ピンは鉄で、握ると指の腹に穴の縁の跡が残る。
三十七回、同じことをした。
事務室に戻って、入退館のログを開く。
前日ぶんを朝いちばんに印刷して綴じるのが決まりだった。
夜の時間帯の行は、たいてい十行に満たない。
二時二分。
会員番号。
佐伯修。
その下に、退館の行が無い。
前の日も、その前の日も無い。
入館だけがあって、出た記録が一度も無かった。
佐伯修という会員は、二か月前に亡くなっている。
うちは二十四時間営業だ。
スタッフが在館するのは十時から十九時まで。
それ以外の時間は無人で、会員は自分のカードを読み取り機にかざして入る。
ドアが開き、番号と時刻がサーバーに残る。
それが入館記録だった。
夜のあいだ、この建物の中で起きたことを知っているのは、その行と、事務室のレコーダーだけだ。
僕はこの店で唯一の正社員で、肩書きは店長だった。
三年目になる。
ほかは全員、時間で働く人たちだ。
死亡による退会の書類は、事故の五日後に受け付けている。
佐伯さんの奥さんが持ってきて、僕が受け取り、本部へ送った。
控えはファイルの後ろから三枚目にある。
日付も、僕の判子も入っている。
番号は止まっているはずだった。
事故のことは、手順としてなら、いくらでも思い出せる。
発見したのは、その夜、次に入ってきた会員だった。
二時十三分に入って、更衣室を抜けて、フロアの奥まで行った人だ。
その人は外へ出て、駐車場から救急に電話をかけた。
僕の携帯が鳴ったのは二時半すぎで、店に着いたのは三時前だった。
駐車場に救急車と、パトカーが一台。
ドアは開け放してあって、フロアの照明は全部ついていた。
僕が中に入ったとき、バーはもうラックに戻されていた。
プレートは左右に付いたままだった。
片側に二十キロが二枚。
左右で同じ数だった。
バーと合わせて、ちょうど百キロだ。
第一発見者の人は、バーが胸の上にあった、と言った。
僕はそれを、その人の口から一度聞いただけだ。
検死の結果は、僕のところには来ていない。
今も来ていない。
本部には事故報告書を出した。
様式の番号が振ってある紙を三枚。
再発防止の欄に、僕は「夜間の巡回体制について本部へ上申」と書いた。
上申の中身までは書かなかった。
佐伯さんと話したのは、一度だけだ。
深夜のスタッフがまだいたころで、十九時の引き継ぎの少し前だった。
市内の工場の三交代だと聞いた。
夜勤明けか、出勤前の深夜に来る人で、日中に顔を合わせることはほとんど無かった。
その日はたまたま早い時間に来て、ラックの前でプレートを数えていた。
「百キロ、一回だけ挙げたいんですよ」
佐伯さんはそう言って、僕のほうを見ないまま笑った。
ベルトが腹に食い込んでいて、手のひらの、指の付け根のところが厚く白くなっていた。
「補助、つきましょうか」
「一人でやります」
断り方に、含みは無かった。
一人でやりたい人だった。
それだけのことだと、そのときは思った。
消毒液のボトルは、フロアに四つ置いてある。
入口、マシンの列、ストレッチの区画、フリーウェイトエリア。
減り方がおかしいことに気づいて、僕は油性ペンで、ボトルの側面に線を引いた。
朝の点検のとき、液面の位置を見る。
奥の一本だけが、毎朝、線ひとつ分下がっていた。
ほかの三本は、日によって減ったり、まるで減らなかったりする。
録画は事務室のレコーダーに残る。
カメラは四台。
入口、マシン列、更衣室の前、フリーウェイトエリア。
フリーウェイトのカメラは柱の陰になって、奥のベンチ台のあたりが映らない。
死角がある、と僕は本部へ二度上げた。
二度とも、次期改修で、と返ってきた。
それを会員に知らせたことは、一度もない。
二時台を早送りで見た。
入口の自動ドアは動かない。
誰も入ってこない。
マシン列にも、更衣室の前にも、人の影は無かった。
十六倍で流して、二時台は一分もかからずに終わった。
本部のスーパーバイザーが巡回に来たのは、その週の木曜だった。
月に一度、午後にやってくる。
その人はカウンターの中に入ってこない。
受付の外側に立って、鞄を足元に置いて、そのまま話す。
書類を出さない。
タブレットも開かない。
数字は全部、口から出てくる。
在籍数、月内の入会と退会、時間帯別の稼働、機器の故障の件数。
話しているあいだ、僕の目から視線を外さない。
四十代の、背の高い人だった。
「退会は九件で、処理は翌月です」
「九件、ですか」
「先月末までに出たものは、翌月の締めで落とします。そういう決まりです」
僕は、佐伯さんの番号のことを言おうとして、言わなかった。
言えば、書類の不備の話になる。
不備ではない。
決まりのとおりに動いた結果、番号が二か月生きていた。
それだけのことだ。
帰り際、その人は鞄を持ち上げてから、もう一度こちらを向いた。
「宮下さん、寝られていますか」
僕は、はい、と答えた。
その人はうなずいて、自動ドアを出ていった。
四十分いて、一度も座らなかった。
意見箱を開けるのは月に一度だ。
受付の脇に置いてある小さな箱で、鍵は僕が持っている。
中身はたいてい、湯が出ない、マシンが空かない、といった紙だった。
備え付けの用紙に書いてもらうことになっている。
その月は、一枚だけ違う紙が入っていた。
備え付けのものではなく、大学ノートを切ったような紙だった。
折り目が四つ。
あの台を、使わないでください。
名前は無い。
日付も無い。
青いボールペンで、力を入れて書いてある。
「い」の縦の線が、紙を裏まで押していた。
僕は入会申込書のファイルを出して、筆跡を順に見た。
三百と少しある。
同じ字は、見たかぎり無かった。
その週の金曜、僕は帰らなかった。
十九時に最後のスタッフを帰し、事務室の照明を落として、椅子に座った。
フロアの明かりは、無人の時間帯だけ半分に落ちる。
入口の解錠音は事務室まで届く。
ログの画面は開いたままにしておいた。
二十三時までに、四人が入った。
二十三時四十分に、最後の一人が出ていった。
それからは誰も来なかった。
僕は眠った。
待つつもりで座って、眠った。
目が覚めたのは二時五十分だった。
首が横に落ちていて、事務椅子の背に頬の跡がついていた。
画面には、行が一つ増えていた。
二時二分。
会員番号。
佐伯修。
フロアに出た。
照明は半分のまま。
マシンの列のあいだを歩いて、いちばん奥まで行った。
誰もいない。
更衣室も、トイレも、シャワーの個室も見た。
誰もいない。
ベンチ台のセーフティは、一つ下の穴に移っていた。
座面に、湿った跡が四角く残っていた。
手のひらを置いた。
まだ、冷たくなりきっていなかった。
事務室に戻って、録画を出した。
早送りではなく、はじめから流した。
一時五十分。
誰もいない入口。
一時五十六分、一時五十七分、一時五十八分。
画面の右上の時刻が、一時五十九分から、二時十三分に飛んだ。
巻き戻して、もう一度見た。
同じところで飛ぶ。
前の日を出した。
同じだった。
その前の日も、その前も。
毎日、同じ長さだけ無い。
十四分。
カメラの死角ではない。
死角なら、映像はある。
無いのは映像そのものだった。
上書きでもなかった。
上書きなら、古い日から順に消える。
消えているのは、どの日も、二時台の十四分だけだ。
レコーダーの操作には暗証番号がいる。
設定を変えるのも、録画を消すのも、同じ番号だ。
番号を知っているのは、僕と、深夜シフトの二人だけだった。
二人のうちの一人は、一年のあいだ、二時にフロアを一周していた人だ。
深夜シフトは、三か月前に無くなった。
二人とも、もうこの店にはいない。
その稟議の起案者の欄には、僕の名前が入っている。
それでも、明日の二時二分にも、あの行は立つ。





