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神宝町怪異相談 仕事のあとに残るもの ~仕事を失った人たちの、少し不思議な再出発~  作者: K3/KASANE
一位の店

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後編 左手


 うちは大晦日から三日まで休む。


 四日の朝、五日ぶりに店の鍵を開けた。


 空気が乾いて冷えていて、粉のにおいがうすくなっていた。


 明かりをつけて、いちばん上の段の前に、それはあった。


 同じ高さの、同じ左手。


 わたしは鍵を持っている人間を数えた。


 わたしだけだ。


 佐々木さんには渡していない。


 裏口はつっかい棒で、内側からしか外れない。


 念のために、息を吹きかけた。


 ガラスが白くなって、その形のところだけが、また残った。


 その日の夕方、内田さんの奥さんが妹のほうを連れて来たので、わたしはクッキーを一枚おまけにつけて、袋を渡した。


 妹は右手を出した。


 兄はどっちで字を書くのかと訊くと、奥さんは、二人とも右です、と言った。


 左で持つと箸がやりにくいから直したこともない、と笑った。


 わたしは笑い返して、袋の口を折った。


 筋が、一本抜けた。


 慈恩さんが来たのは、その次の日だった。


 この日も黒いスーツで、この日もコートはなかった。


 寒くないんですかと訊くと、慣れました、と言われて、わたしは何と返せばいいのか分からなかった。


 正月の三日も、どこかで誰かの話を聞いていたのだと思う。


 跡の話をした。


 休みのあいだも出たこと、鍵はわたししか持っていないこと、兄妹は右利きだったこと。


 慈恩さんはケースの前に立って、しゃがみもせずに、ひとつだけ訊いた。


 「その跡、どちらの面にありますか」


 どちら、と訊き返して、意味が分かるまでに間があった。


 外側か、内側か。


 わたしは毎晩、両面を拭いている。


 だから考えたこともなかった。


 ケースの背に回って、布をあてて、指でなぞって、確かめた。


 内側だった。


 商品を並べる側。


 客が触れない側。


 わたしは布を持ったまま、しばらくそこに立っていた。


 「外から手をついた子の話は、これで終わりです」


 慈恩さんの声が、少し低くなった。


 「この店の内側に、子どもで立った人がいます。誰ですか」


 いません、と答えかけて、わたしは口を閉じた。


 いた。


 父の店だったころ、わたしはそこに立っていた。


 学校から帰ると、割烹着の裾を引きずって、ケースの内側から背伸びをして、いちばん上の段を見上げていた。


 右手には、父に持たされた布巾があった。


 だから、ついていたのは左手だ。


 あのころの店は、夕方になると人が並んだ。


 並んでいる人の顔より、わたしはケースの中を見ていた。


 いちばん上の段には、父の作ったバタークリームのケーキが、いつも七つ乗っていた。


 売れると父が奥から出てきて、また七つにした。


 わたしは、左利きだった。


 菓子屋は右だ、と父は言った。


 絞りも、へらも、包丁も、右で覚えろと。


 だからわたしは右で覚えた。


 いまは字も右で書く。


 左手を使ったのは、あの布巾を持っていた何年かだけだ。


 「そこは触るな、と言われました」


 声が、思ったより低く出た。


 「生菓子は、父しか作らなかったんです。わたしが初めていちばん上を触ったのは、父が倒れて、朝の分が並ばなかった日でした。三十四になっていました」


 慈恩さんは、そうですか、とだけ言った。


 前のときと同じ言い方だった。


 それから、店の壁に貼った紙を見た。


 洋菓子製造補助。


 経験者優遇。


 包装、清掃、レジ。


 わたしが十年、書き替えていない紙だ。


 「四人の子は、この紙を読んで来たわけですね」


 違います、とわたしは言った。


 あの子たちは、ケーキが好きで来たんです。


 言ってしまってから、自分の紙をもう一度読んだ。


 包装、清掃、レジ。


 ケーキのことは、どこにも書いていなかった。


 わたしは、あの子たちに触らせなかった理由をいくつも持っている。


 クリームは水物だ。


 失敗は、そのままお金になる。


 夏場は温度ひとつで角が立たなくなる。


 どれも嘘ではない。


 それでも、辞める日の顔を思い出した。


 四人とも、最初は笑っていた。


 好きです、と言って入ってきた。


 わたしは、その好きなものを、一度も持たせなかった。


 守っていたつもりだった。


 何を守っていたのかは、そのとき初めて分からなくなった。


 慈恩さんは、それについては何も言わなかった。


 しばらくしてから、こう言っただけだ。


 「四人めがどうだったかは、ぼくには分かりません。五人めをどうするかは、あなたが決められます」


 それから、ケースの下の引き出しを指した。


 開けると、父の口金と、わたしが仕舞い込んだ古い型が入っていた。


 十年ぶりに開けたと思う。


 口金は錆びていなかった。


 油紙にくるんであったからだ。


 くるんだのは父ではない。


 わたしだ。


 捨てなかった理由を、そのとき初めて考えた。


 慈恩さんは小瓶を出して、粗塩を少し手のひらに取って握ってください、と言った。


 冬の手でも、しばらく握っていると湿る。


 溶けかけたのを指の先につけて、ケースの内側の縁を、右から一周した。


 最後に、無地のカードを渡された。


 何か書くんですか。


 「あなたの言葉で、ひとつだけ」


 わたしはしばらく考えて、右手で書いた。


 ——いちばん上から、教えます。


 その晩、店の紙を書き替えた。


 いちばん上のケーキを作りたい人へ。


 最初の一台は、三か月目に焼いてもらいます。


 同じ紙をもう一枚書いて、次の休みに、駅前のスーパーへ持っていった。


 岸本ひかりちゃんは惣菜売り場にいた。


 二年前にうちを辞めた子で、面接のときに作文の話をしたのは、この子だ。


 小学校の、なりたいものを書く欄。


 一位の店って呼んでました、と笑った顔を、わたしは覚えている。


 休憩室で、紙を渡した。


 うまく言えなかったので、読んでちょうだい、とだけ言った。


 ひかりちゃんは読んで、しばらく黙っていた。


 それから、顔を上げずに訊いた。


 「柏木さん、覚えてますか。わたしが辞める日に、ケースの前に立ってたの」


 覚えている。


 わたしが奥で伝票をつけて、顔を上げなかった日だ。


 「あのとき、ひとつだけ訊こうと思ってたんです。いつになったら、上の段をやらせてもらえますかって」


 訊けばよかったのに、とわたしは言った。


 「訊いたら、まだ早いって言われるのが分かってたから」


 それから、すみません、と言った。


 「わたし、もうケーキ屋さんじゃなくていいんです」


 そうだよね、とわたしは言った。


 声が震えなかったのは、二十年ぶんの意地だと思う。


 ひかりちゃんは紙をたたんで、返そうとして、やめた。


 「これ、貼ってもいいですか。ここの壁に」


 うちの店から、歩いて十二分の壁だ。


 どうぞ、とわたしは言った。


 帰りは歩いた。


 十二分の道の先に、うちの紙が一枚だけ増えたことになる。


 翌朝、跡はあった。


 消えてはいなかった。


 ただ、いちばん上の段の前ではなかった。


 ガラスの端の、作業台のほうを向いた面に移っていて、大きさが、わたしの手のひらより少しだけ小さいくらいになっていた。


 佐々木さんが、あら、と言った。


 場所、変わりましたね。


 変わったわね、とわたしは答えた。


 慈恩さんは、それを見て何も言わなかった。


 帰りぎわに、いちばん上の段を指して、ひとつください、と言った。


 「売れてないんでしょう」


 箱に入れて、リボンを結んだ。


 結び目は、やっぱり固くなった。


 ガラスは、今夜も拭く。


 拭いても、朝には誰かが手をついている。


 それでいいと思えたのは、この冬が初めてだった。


 一位に書いてもらった店を、一位のままにしておく方法は、まだ分からない。


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