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神宝町怪異相談 仕事のあとに残るもの ~仕事を失った人たちの、少し不思議な再出発~  作者: K3/KASANE
一位の店

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22/40

前編 曇らないところ


 わたしの一日は、ガラスを拭いて終わる。


 店を閉めたあと、ショーケースの中を空にして、外側と内側の両方を乾いた布で拭く。


 父から店を継いで二十年、この順番を変えたことがない。


 それなのに朝、明かりをつけると、いちばん上の段の前にだけ、手のひらの跡がある。


 曇りが、手の形に抜けているのだ。


 冬のガラスはよく曇る。


 うちのケースは古いから、なおさら曇る。


 その白い曇りの中に、五本の指をひらいた形だけが、はっきりと透けている。


 子どもの手だった。


 わたしの手のひらの、半分と少し。


 高さは、床から一メートルあるかないか。


 小さい子が背伸びをして、ケースに手をついて見上げる高さだ。


 そして、いつも左手だった。


 最初に見つけたのは、パートの佐々木さんだった。


 十二月に入ってすぐの朝で、開店前の拭き掃除をしていた手を止めて、店長これ、と言った。


 わたしは笑って、内田さんとこの子たちでしょう、と答えた。


 内田さんの家の兄と妹は、学校の帰りにうちの前を通る。


 八歳と五歳で、二人ともケースに手をついて、いちばん上の段を見上げていく。


 買うのは十日に一度、五十円のクッキーだ。


 それでもわたしは、いらっしゃいと言う。


 その日の夕方も来た。


 兄のほうがガラスに顔を寄せて、いちばん上の段のショートケーキを指さして、これ、と言った。


 「大きくなったら、これ作る人になる」


 妹が、わたしも、と言った。


 わたしは、そう、とだけ答えた。


 あとで思い返して、自分の声がずいぶん短かったことに気がついた。


 布で拭くと、跡は消えた。


 翌朝、また同じ場所に出ていた。


 同じ高さ、同じ左手。


 一度、試したことがある。


 閉店のあと、拭き上げたガラスに顔を近づけて、息を吹きかけた。


 白く曇る。


 その曇りの中に、手の跡は出なかった。


 ただの、まっさらな曇りだった。


 ところが翌朝、明かりをつけると、いつもの場所にいつもの左手がある。


 夜のうちに誰かが手をついたのなら、跡は曇りの上に残るはずだ。


 うちのケースは逆だった。


 曇りのほうが、手の形をよけていく。


 そこだけが、いつまでも曇らない。


 うちは「洋菓子 かしわぎ」という。


 商店街の外れで、父が昭和のうちに開いた店だ。


 主力は焼き菓子になる。


 型抜きのクッキー、パウンド、フィナンシェ。


 日持ちがして、箱に詰まって、贈り物になる。


 神宝町は法事と内祝いの町だから、この二十年、うちは焼き菓子で保ってきた。


 生菓子は、ケースのいちばん上の段だけだ。


 ショートケーキ、モンブラン、シュークリーム。


 数は少ない。


 作るのはわたし一人と決めている。


 朝は五時に窯に火を入れる。


 粉をふるって、バターを練って、天板を三段まわす。


 焼き上がりのにおいがしてくるころに佐々木さんが来て、包装台につく。


 うちのリボンは佐々木さんのほうが上手い。


 わたしは結び目が固くなる。


 その合間に、生菓子のスポンジへシロップを打ち、生クリームを立てる。


 八分立てで止めて、パレットナイフで天面をならす。


 いちごは軸のほうを下にして置く。


 父がそうしていたからだ。


 理由は聞いていない。


 三上さんが拝み屋を連れてきたのは、その週の水曜だった。


 三上さんは製菓材料の卸で、うちの粉も生クリームも三上さんから来る。


 段ボールを積み上げながら、店長、変な話でも笑わない人がいるんだけど、と言った。


 黒いスーツの男の人だった。


 若い。


 三十には見えなかった。


 目が細くて、開いているのか閉じているのか分からない。


 外は雪になりそうな寒さなのに、その人はコートを持っていなかった。


 「慈恩といいます。拝み屋です」


 拝み屋というのは、占い師のことですか。


 わたしが訊くと、その人は、占いみたいなもんです、と言った。


 まじめな顔だった。


 慈恩さんはケースの前にしゃがんだ。


 しゃがんだまま、しばらく動かなかった。


 ガラスを見ているのか、その向こうの菓子を見ているのか、わたしには分からなかった。


 上着の内側から細い線香を一本出しかけて、店の中を見まわし、そのまましまった。


 かわりに、古い腕時計に目を落とした。


 「毎晩、拭きますか」


 拭きます。


 「両面」


 両面です。


 「拭いたあと、何時に帰ります」


 八時には出ます。


 慈恩さんはうなずいて、あっさりと言った。


 「結露ですね」


 うちのケースは十八年目でしょう、と言われて、わたしは驚いた。


 そのとおりだった。


 「古いケースは冷えむらが出ます。そこへ手の脂が残れば、曇ったときに形だけ抜ける。毎日おなじ子が、おなじ高さへ手をつけば、同じ場所に出ます」


 言われてみれば、そのとおりだった。


 不思議でも何でもない。


 慈恩さんは立ち上がって、こんどはいちばん上の段を指した。


 「ここだけ、売れてないでしょう」


 わたしは黙った。


 売上の話をした。


 駅前に大きな店が入ったのが三年前で、生菓子はそのころから動かなくなった。


 生クリームは水物だから、売れ残れば捨てるしかない。


 うちは焼き菓子で保っている。


 だからいちばん上の段は、数を絞る。


 それだけの話だ。


 慈恩さんは、そうですか、とだけ言った。


 否定もしなかった。


 「跡が気になるようでしたら、拭く布を分けてください。上の段用と、下の段用に」


 それで一度、跡は減った。


 三日ほど、出なかった。


 十二月は、うちみたいな店でも忙しい。


 クリスマスの予約が三十七台。


 数だけならたいしたことはないが、生菓子を作るのはわたしだけだから、二十三日から二十五日の朝までは、ほとんど台所から出られない。


 スポンジを焼いて、冷まして、二枚に切って、シロップを打つ。


 クリームを立てる。


 立てすぎるとぼそつくから、途中で泡立て器を持ち替えて、最後は手で回す。


 いちごは前の日に洗って、水気を切って、冷蔵庫でひと晩眠らせておく。


 二十四日の夜、佐々木さんが帰ったあと、洗い場に一人で立っていて、ふと数えた。


 この八年で、うちを辞めた子が四人いる。


 四人とも、面接のときに同じことを言った。


 ここのケーキが好きです、と。


 一人は、小学校のときに書いた作文の話までした。


 将来なりたいものを書く欄に、この店の名前を書いたのだという。


 一位の店です、と笑っていた。


 わたしはその子たちに、包装から教えた。


 次に焼き菓子。


 粉のふるい方、天板の入れ方、リボンの結び方。


 順番はまちがっていないと思う。


 一人だけ、辞める日にケースの前でしばらく立っていた子がいた。


 何か言いたそうだったけれど、わたしは奥で伝票をつけていて、顔を上げなかった。


 いちばん上の段は、触らせなかった。


 クリームは水物ですからね、と、わたしは何度も言った。


 生菓子は失敗が全部お金になる。


 まだ早い。


 もう少ししたら。


 そのうちに。


 四人とも、いちばん上の段に触らないまま辞めていった。


 二十五日の夕方、ケースに三つ残った。


 予約でない、当日売りのぶんだ。


 六時をまわって、わたしはそれを箱に入れ、裏の流しへ持っていった。


 生クリームは翌日には持たない。


 捨てるところは佐々木さんに見せないようにしている。


 二十年やっても、この五分だけは慣れない。


 二十六日、店の中が急に静かになった日に、慈恩さんがまた来た。


 棚の焼き菓子を眺めて、これ、日持ちしますね、と言った。


 それから、跡はまだ出ますか、と訊いた。


 出ます、とわたしは答えた。


 「でも、もう大丈夫です。内田さんとこの子たちが手をつくのは、この目で見ましたし、拭き残しならわたしの手落ちです。ケースも古い。筋は通ってます」


 慈恩さんは、コートのない肩を少しすくめて、じゃあそうしましょう、と言った。


 帰りぎわ、引き戸に手をかけたまま、こちらを見ずに言った。


 「その子、左利きですか」


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