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神宝町怪異相談 仕事のあとに残るもの ~仕事を失った人たちの、少し不思議な再出発~  作者: K3/KASANE
なくなるんでしょ、それ

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後編 どこまで乗るの


 部品を替えて、十日もった。


 雨の火曜に傘が二本残って、水曜に、二列目の常連がまた降車ボタンを二度押した。


 木曜の終便のあと、車庫の無人の車内で、携帯電話を運賃箱の上に置いて、録音してみた。


 「お忘れ物、ございませんように」


 再生すると、入っていた。


 少しかすれた、五十六歳の声。


 出てはいる。


 届かないだけだ。


 機械は正常、喉も正常、録音には残る。


 それが、客にだけ届かない。


 ここから先は、どこの窓口に持っていく話なのか、分からなかった。


 教えてくれたのは、この三月に定年で上がった河田さんだった。


 近況の電話のついでに、笑いもせずに言った。


 「神宝町の、町はずれの古いビルの十階。変なことを、変なままで聞いてくれる人がいる」


 どういう知り合いなのかは、言わなかった。


 河田さんは在職中、変なことを言わない人だった。


 その人が真顔で言うのだから、行ってみるしかなかった。


 ビルのエレベーターは、途中で一度、がくんと沈んだ。


 十階の廊下は静かで、線香の細いにおいがした。


 「開いてますー」


 ノックの途中で、中から声がした。


 事務机がひとつ。


 応接の椅子がふたつ。


 黒いスーツの男が、糸のように細い目のまま、こちらへ首だけ向けた。


 四十九だと、あとで聞いた。


 私より若い。


 疲れ方は、私より年上に見えた。


 「よろず相談みたいなもんです。じおん、といいます」


 私は最初から話した。


 六月の見学。


 帽子の子。


 七月の傘。


 二度押される降車ボタン。


 飛ばされた点呼。


 緑青のコネクタ。


 十日で戻ったこと。


 録音には入っていたこと。


 慈恩さんは、途中で一度も口を挟まなかった。


 麦茶を二杯出して、自分は一口も飲まなかった。


 「録音に入ってて、ご家族には届いて、お客さんにだけ届かない、と」


 「はい」


 「会社の健康診断は」


 「五月に受けました。引っかかったのは血圧だけです」


 「マイクは新品。耳鼻科は年相応。……順番は、ちゃんとしてますよ。調べ方が」


 褒められたのだと気づくまで、少しかかった。


 机の端に古い腕時計が置いてあって、秒針だけがよく動いていた。


 「六月の、見学の子ねぇ」


 慈恩さんは、天井のほうへ顔を向けた。


 目は開かなかった。


 「その子、そんなに強いですかねぇ。人ひとりの声を消せるほど」


 「でも、あの日からで」


 「あの日からだと、思いたいでしょうけども」


 声に意地悪の色はなかった。


 重い荷物をいっしょに持ち上げる前に、先に重さだけ見ておくような言い方だった。


 「三好さん。六月より前に、もう要らないなって思った声、ありませんか」


 やめた覚えは、なかった。


 「自動放送があるから、二重に言わなくていい。そんなふうに省いた一言は」


 あった。


 去年の十月だ。


 営業所の掲示板に、新しい告知が貼られた。


 グループ会社が、隣の市で、運転席に誰も座らないバスの実証実験を始める。


 再来年の春から、区間を決めて。


 読んで、へえ、とだけ思った。


 思ったつもりだった。


 その日の点呼の列で、隣にいた若いのに、私のほうから言った。


 「まあ、おれたちの代で終わりだな」


 誰も笑わなかった。


 若いのは目を伏せて、検知器に息を吹いた。


 その週からだ。


 「お忘れ物、ございませんように」を、言わない日が出た。


 自動放送が言ってくれる。


 二重に言うこともない。


 そう思うことにした。


 ひとつ省くと、ふたつ目は簡単だった。


 雨の日の「足元に」も、言ったり言わなかったりになった。


 誰にも叱られなかった。


 案内は録音で足りているから、運行記録の上では、何も減っていない。


 減っていたのは、記録に載らないほうだった。


 思い出せば、あの週から、車内は静かだった。


 静かなのは、いいことのはずだった。


 苦情も減る。


 放送も二重にならない。


 ただ、終点で客を降ろしきったあとの車内が、前より一段、がらんとした。


 機械の声は、誰もいないところでは鳴らない。


 空の車内で口を開くのは、いつだって肉声だった。


 黙っていると、慈恩さんが湯呑みをことりと置いた。


 「六月の子は、何も始めてませんよ」


 私は顔を上げた。


 「あなたが始めてたものに、名前をつけただけです。……子どもは、そういうのがうまいんですよ。めんどくせぇことに」


 「祓って、もらえますか」


 「塩なら、そこの棚にありますけどねぇ」


 慈恩さんは、棚のほうを見もしなかった。


 「置く場所がないんですよ、あなたのは」


 それだけ言って、手つかずの湯呑みを指先で回した。


 「減らしたのは、三好さんでしょう」


 返せなかった。


 「なら、ひとつだけ戻してみますか。明日」


 「ひとつ」


 「いちばん短いやつでいいですよ」


 宿題は、ふたつになった。


 ふたつめは、私が鞄から出したものだ。


 茶の間の引き出しに入れたままだった、あの質問カード。


 家を出るとき、なぜか、それだけ鞄に移してきた。


 「うんてんしゅさんの しごとは なくなりますか」


 慈恩さんは、にじんだ名前の欄を長いこと見てから、机の引き出しから無地のカードを一枚出した。


 「下書きにどうぞ。……その前に、一行だけ。あなたの仕事を、会社の言い方じゃなく、あなたの言い方で」


 運転士、と書きかけて、やめた。


 考えて、書いた。


 ——無事に、降ろすまで。


 「肩書きより長いですねぇ」


 慈恩さんは、カードを私の胸ポケットのほうへ、指先で軽く押し返した。


 金曜の始発から、戻した。


 マイクのスイッチは親指の先ほどの大きさで、入れるのに力は要らない。


 要らないはずが、その朝はひと呼吸あった。


 二十七年で、いちばん重いスイッチだった。


 「お忘れ物、ございませんように」


 届いたかどうかは、分からない。


 返事は、日曜の夜に、台所で書いた。


 女房は理由を聞かずに、お茶だけ淹れて向かいに座っていた。


 「おてがみ、ありがとう。うんてんは、いつか、きかいが やるように なるかもしれません。ほんとうです。でも、わたしの しごとには、なまえの ついていない ぶんが、たくさん あります。あめの ひに、いちだんめを ふいて まつこと。おりた ひとが、みちを わたりおわるまで、みていること。きかいが うんてんを おぼえても、そっちは、だれかが やります。それまでは、わたしが やります。こんどは、けんがくじゃなくて、いちばん まえの せきに のってください。うんてんしゅより」


 書き上がるまでに、消しゴムを四回使った。


 月曜の朝、学校宛の封筒に切手を貼って、出がけに営業所の前のポストへ入れた。


 点呼で、名前は飛ばされなかった。


 その日は雨で、一段目を拭いて、「足元、濡れてますので」を戻した。


 二列目の常連は、降りぎわに、ちいさく会釈をした。


 傘は、一本だけ残った。


 ゼロにはならない。


 二十七年やって、ゼロの日のほうが少ないのだ。


 それでいい。


 始発から戻ってポストの前を通るとき、背筋が伸びた。


 営業所の掲示板には、新しい紙が貼られていた。


 実証実験は、予定どおり来春に始まるらしい。


 私はもう、読み飛ばさない。


 読んでから、乗務に出る。


 盆の前に、菓子折りを持って十階へ寄った。


 慈恩さんは「律儀だなぁ」と言って、包みだけはすんなり受け取った。


 相談料は、拍子抜けするほど安かった。


 かわりに今度、うちの路線に乗りに来るらしい。


 どこまで乗るのかは、聞きそびれた。


 帰りぎわ、思い出したように言われた。


 「今度、なくなるんでしょって訊かれたらですねぇ」


 「はい」


 「訊き返してやってください。——きみは、どこまで乗るの、って」


 慈恩さんは、糸目のまま、少しだけ笑った。


 「行き先を訊くのは、あなたの仕事でしょう」


 駅前行きの始発は、明日も六時十分に出る。


 行き先を訊く声は、まだ、なくなっていない。


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