後編 うちのお父さんは、二十八文字
二十八文字が、三文字になった。
ドアを開けて、ソファに沈んでいるお父さんの前に、封筒を置いた。
「これ」
お父さんは、封筒を手に取って、切り口のところを指でなぞった。
それから中のカードを出して、しばらく見ていた。
「あー、はい」
「ひまりちゃんが、泣きそうになった」
わたしは、それだけ言った。
うまく言えなかったので、それだけにした。
「なんとかなる」
お父さんは、カードを封筒に戻した。
「きのう、なんにもないって言ったのに」
「言いましたねー」
「怒らないの」
「怒りませんよ。怒ると、つかれるので」
お父さんは立ち上がって、上着を取った。
ソファの背にかけてあった、黒い上着だ。
それを着ると、お父さんは急に、知らない人みたいになる。
「行きましょうかー」
「どこ」
「その子の、家」
ひまりちゃんの家は、団地の四階だった。
お父さんは、玄関で名刺を一枚出した。
白い紙に、名前と、電話番号と、知らない言葉が入っている。
わたしはその言葉を読めなかった。
あとで聞いたら、きづかせや、と読むのだと言われた。
おうちの人のしごとの欄に書ける名前かどうかは、わからなかった。
ひまりちゃんのお父さんは、少し困った顔をしたけれど、通してくれた。
台所のテーブルで、お父さんは、紙を出してくださいと言った。
「紙、ですか」
「園田さんが、しごとのことを書いたやつ。全部です」
ひまりちゃんのお父さんは、押し入れから箱を出してきた。
テーブルの上に、紙がならんでいった。
手帳。
むかしの保育園の連絡帳。
学校からきたアンケート。
病院の紙。
銀行の紙。
それから、封筒に入ったままの、しごとをさがしていたときの紙。
わたしは、字が読めないところが多かった。
でも、同じところに同じ形の字があるのは、わかった。
どの紙にも、同じ三文字が書いてあった。
会社員。
わたしは、数えはじめた。
十七までいって、やめた。
まだ、箱の底に紙が残っていたからだ。
「長く書いたやつ、一枚もないんですよ」
お父さんが言った。
聞いているんじゃなくて、言っていた。
ひまりちゃんのお父さんは、それを、上から順番に見ていった。
それから、途中で手を止めた。
「……ないですね」
その人は、封筒を見た。
わたしが持ってきた、切り口のある封筒を。
「私が、夜に直してるんだと思ってました」
声が、少し小さくなった。
「ほんとうに、そう思ってたんです」
お父さんは、テーブルの上の紙を、一枚ずつ指の腹で押さえていった。
わたしは、そのとき、お父さんの目を見た。
いつもは糸みたいに細い目が、そこだけ、ひらいていた。
中は、黒かった。
底が見えなかった。
わたしは、こわいとは思わなかった。
ただ、いま、話しかけてはいけないのだ、ということが、なんとなくわかった。
目は、すぐにまた細くなった。
声が、少しだけ低くなっていた。
「これ、増えてるんじゃないですよ」
お父さんは、カードを一枚つまんで言った。
「減ってるんです」
「減る、ですか」
「紙は、いちばん短い答えをおぼえるんです。同じ欄に、何回も同じ短さで書かれると、つぎから、その短さを先に用意しちゃうんですよねー」
わたしは、さっき数えた紙のことを思い出した。
十七枚。
ぜんぶ、おなじ三文字。
「新しい紙にしても、たぶん同じですよ。やってみますか」
やってみた。
わたしがもう一回、二十八文字を書いて、ひまりちゃんの机の上に置いた。
つぎの朝、三文字になっていた。
「祓えないんですか」
ひまりちゃんのお父さんが、そう聞いた。
お父さんは、ポケットから小さい瓶を出した。
中で白いものが、しゃりっと鳴った。
少しだけ持ち上げて、それから、また戻した。
「祓うものが、ないんですよ」
「でも、げんに」
「祓うなら、園田さんが十五年かけて短くしてきたぶんを、まとめて祓うことになります。それ、いりますか」
ひまりちゃんのお父さんは、だまった。
長いあいだ、だまっていた。
それから、話しはじめた。
「四年まえに、あの子に聞かれたんです。おとうさんはなにを作ってるの、って」
「はい」
「答えられませんでした。長すぎて、子どもにはわからないと思って。……いや、ちがうな」
その人は、そこで一回、口を閉じた。
「めんどうだったんです。あのとき、疲れてて」
わたしは、その言葉を知っていた。
うちのお父さんが、いつも言う言葉に似ていた。
でも、言い方はぜんぜんちがった。
「それで、会社員だよ、って言いました」
テーブルの紙が、少しだけ動いた。
窓が開いていたからだと思う。
「その日から、あの子は、聞かなくなりました」
「あと、来年の春で、あの部品、なくなるんです」
ひまりちゃんのお父さんは、そう続けた。
「まるごと一体で作れるようになったので、留める必要がなくなって。十五年、折れないか、鳴らないか、熱でのびないか、測ってきたんですけど」
「なるほどー」
うちのお父さんは、ぜんぜん、なるほど、という顔をしていなかった。
「じゃあ、いま言うしかないですねー」
「言う、というのは」
「しゃべるんです。紙にじゃなくて」
お父さんは、上着のポケットから、なにも書いていない白いカードを一枚出して、テーブルに置いた。
「これ、なんですか」
「なんにも書いてないカードです」
「……はい」
「書かないでください。持っていくだけで、いいので」
それだけ言って、お父さんは立ち上がった。
帰り道で、わたしは聞いた。
「あれで、いいの」
「ぼくは、なんにもしませんよ」
お父さんは、上着の襟に顎をうずめて言った。
「めんどくせぇ」
発表の日、教室のうしろに、おうちの人がならんだ。
ひまりちゃんのお父さんは、いちばんうしろにいた。
じゅんばんが来て、その人は前に出て、上着のポケットから白いカードを出した。
テーブルに置いていったやつだ。
わたしのところからも見えた。
なにも書いていなかった。
その人は、それを持ったまま、少しのあいだ、なにも言わなかった。
それから、しゃべった。
「車の、内側のパネルと、パネルのあいだに、留め具というものが入っています。ふだんは見えません。見えないところで、板と板が、はなれないようにしています。それが、折れないか、鳴らないか、熱でのびないか、測るのが、私の仕事です」
みじかくなかった。
でも、そんなに長くもなかった。
教室は、しんとしていた。
ひまりちゃんが手を挙げた。
「なんこ、つくったの」
その人は、少し考えてから言った。
「わかりません。私が判子を押したぶんだけなら、たぶん、四千万こくらいです」
ひまりちゃんは、口を開けたまま、しばらくそのままだった。
それから、また手を挙げた。
「それ、どこにあるの」
「ここから見えるところにも、たぶん、あります」
ひまりちゃんは、うしろをふりかえって、窓のそとの駐車場をずっと見ていた。
わたしのじゅんばんも来た。
カードの三つめは、空いたままだった。
なにも書けなかったから、そのまま持っていった。
前に立って、わたしは言った。
「うちのお父さんは、聞かれるまで、なにもしない人です」
教室が、少し笑った。
「でも、聞かれたら、来ます」
西尾先生が、そっと聞いた。
「それは、なんという、おしごとですか」
「わかりません」
先生は、少しのあいだ、カードとわたしを見くらべていた。
それから、書くのをやめた。
わたしのカードの三つめは、空いたまま、壁に貼られた。
帰るとき、廊下でひまりちゃんのお父さんとすれちがった。
その人は、わたしを見て、ありがとう、と言った。
「あの子が、質問しました」
「うん」
「四年、聞かれませんでしたから」
わたしは、四年がどのくらいなのか、うまく考えられなかった。
わたしが四さいのときから、ということだ。
四さいのころのことは、ほとんどおぼえていない。
おぼえていないくらい長いあいだ、あの人は待っていたのだと思う。
その日の夕方、道場に行った。
壁の木の札は、そのままだった。
たけるくんの札は、まだわたしの一つ上にある。
わたしは、それを直そうとはしなかった。
直しかたを知らないし、たぶん、直すものでもない。
列にならんだ。
その日も、たけるくんに一本もとれなかった。
二本目のとき、足が出るのが遅れた。
遅れた、ということだけは、自分でわかった。
前は、それもわからなかった。
帰り道、お母さんが言った。
「葵」
「なに」
「今日、いちばん最後まで並んでたね」
ほめられたのか、そうじゃないのか、わたしにはわからなかった。
わからなかったけれど、そのことを、いまでもおぼえている。
つぎの朝、教室のうしろの壁を見た。
三十二枚になっていた。
ひまりちゃんのカードに、顔を寄せて、数えた。
くるまのみえないところでいたといたをとめるぶひんをつくる。
二十八文字。
ちゃんと、二十八文字あった。
わたしの字だった。
その二つとなりに、わたしのカードが貼ってある。
三つめは、まだ空いている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
見えないところで、板と板をとめている人の話でした。
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