表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やりがいの、燃えカス  作者: K3/KASANE
通行券

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/17

前編 ベッドの皺

半年前から売っていない部屋のベッドに、毎朝、皺が寄っている。


 四〇八号室は、半年前から売っていない。


 誰も泊まっていない。


 それなのに、毎朝、ベッドに皺が寄っていた。


 大人がひとりぶん。


 それと、その脇に、小さいのがひとつぶん。


 ユニットバスの給湯が不調で、蛇口をひねってから湯になるまでにずいぶんかかる。


 配管ごと換えなければ直らないと業者に言われ、その見積りが通らないまま半年が過ぎた。


 予約の在庫からは外してあるから、サイトにも出ない。


 帳簿の上では、あの部屋は無いのと同じだった。


 止めてある部屋も、放っておけば傷む。


 水を流さないと排水口の封水が切れて、下から臭いが上がってくる。


 だから週に一度は窓を開けて風を通し、蛇口とシャワーを出しておく。


 四〇八の風通しは、わたしの受け持ちだった。


 最初に気づいたのは、その風通しの日だった。


 ベッドカバーの真ん中が、人の重みのぶんだけ沈んで、そこから足元へ向かって皺が流れていた。


 わたしは手のひらで伸ばして、四隅を引いて、部屋を出た。


 次の週に開けたら、同じところに同じ皺があった。


 伸ばした跡の上に、新しく寄っていた。


 止めた部屋の鍵は、清掃の束から外してフロントの裏の箱へ移してある。


 四〇八のフックには鍵が二つ下がっていて、風通しを受け持ったときから、わたしはそのうちの一つを自分の束に入れたままにしていた。


 その週から、四階へ上がるたびに開けて見るようにしたのである。


 皺は、毎朝あった。


 皺の寄り方には癖があった。


 大人のほうは、いつも窓ぎわではなく壁ぎわに寄っている。


 横になって、体を丸めた形だ。


 小さいほうは、その壁と大人のあいだにある。


 壁と体に挟まれる、いちばん狭いところで寝ている。


 枕は二つ置いてあるが、へこんでいるのはいつも片方だけだった。


 わたしの仕事は二つある。


 ひとつは、使われた部屋を売れる状態に戻すこと。


 もうひとつは、清掃班の名簿を作ることだ。


 名簿というのは、誰を何時から何時まで入れるかを決めた紙のことである。


 月の終わりに印刷して、支配人の判をもらい、本部へ送る。


 人を増やすことも、減らすこともできる。


 名前を書き足すことも、線を引いて消すこともできる。


 十年やってきて、わたしが引いた線は数えきれない。


 書き足したほうは、数えるほどしかない。


 藤沢佳代、五十六歳。


 このホテルで客室清掃のチーフをしている。


 十年前まではパートだった。


 線を引く側に回って、十年になる。


 人は足りていない。


 一人で回す部屋の数は、去年より増えた。


 募集を出しても、来ない。


 だから名簿はここ何年か、同じ名前が並んだまま動かない。


 動くのは時間の欄だけで、それも増えるほうにしか動かなかった。


 今月の末には、本部の監査が来る。


 名簿と現場が合っているかを見にくる人たちだ。


 去年は、休憩の記録と実際の休憩が合っていないと言われた。


 合っていないと言われれば直す。


 直すというのは、たいてい紙のほうを直すことだった。


 班は、わたしを入れても数えるほどしかいない。


 いちばん長いのは大村さんで、六十を過ぎている。


 掛け持ちの宮下さんは、昼から別の店に入る。


 それに、春から来た子。


 班ではサトウさんと呼んでいる。


 朝は八時前に地下の休憩室へ集まって、受け持ちの階を割り、カートを押してエレベーターに乗る。


 二階から順に上がって、四階まで来ると、みんな四〇八の前を素通りする。


 売っていない部屋には、用が無い。


 備品の数が合わなくなったのは、そのころからだ。


 カートに積むものは、朝に数えて表に書く。


 歯ブラシ、剃刀、石鹸、櫛。


 夕方に戻して、また数える。


 その数が、日によって合わない。


 歯ブラシが一本足りない。


 次の日は櫛が一本。


 その次は石鹸が一個。


 減るものは日によって違うのに、減る数だけは、いつもひとつだった。


 二つ足りない日は、一度も無かった。


 リネンのほうもおかしかった。


 回収した使用済みのタオルを数えると、出した枚数より一枚多い日がある。


 多い日と、合う日があった。


 わたしはしばらく、春から来た子が数え違えているのだと思っていた。


 その子は、まだ手順に慣れていなかった。


 バスタブを磨くときは、奥から手前へ体をひねって、入口に背中を向けたほうが早い。


 あの子はそれをしなかった。


 いつも入口のほうを向いたまま、遠いところへ腕を伸ばして磨いた。


 窓ぎわを拭くときもそうだ。


 ガラスに背中を向けないように横向きに立って、腕だけを動かす。


 二度目に教えたとき、あの子は、すみません、と息だけで言った。


 言い方だけは素直で、やり方は変わらなかった。


 三度目は言わなかった。


 不器用な子なのだと思っていた。


 数える者を替えても、袋を分けても、数は同じようにずれた。


 あの子のせいではなかった。


 支配人には、一度だけ話した。


 「点検の業者が横になったんじゃないの」


 支配人は、わたしの後ろの壁に貼ってある予約表のほうを見ながら言った。


 そういうことは、たしかにある。


 設備の人間が、長い作業のあいだにベッドの端で休むことはある。


 「新しい子が、間違えて掃除しちゃったとか」


 業者が入るのは月に一度だ。


 皺は毎朝ある。


 間違えて掃除したのなら部屋は整うはずで、皺が寄る道理がない。


 それに、どちらの説明でも、小さいほうの皺が余る。


 わたしは、小さいほうのことは言わなかった。


 言えば支配人が困るのは分かっていた。


 困らせると、話はそこで終わる。


 ――この十年、わたしはそうやってチーフの椅子に座ってきた。


 四〇八には、ゴミが無かった。


 半年売っていない部屋というのは、たいてい埃くさい。


 カーテンを開けると、光の中に粉が舞う。


 四〇八はそうではなかった。


 屑籠は空で、内袋の底に紙の一枚も貼りついていない。


 床に髪の毛が一本も落ちていなかった。


 人が寝起きすれば、必ず何かは落ちる。


 落ちていないというのは、落ちたものを拾った人がいるということだ。


 匂いも違った。


 閉め切った水回りの、湿って重い匂いに混ざって、石鹸の匂いがした。


 カートに積んでいるのと同じ石鹸だった。


 ユニットバスの排水口の目皿を外してみた。


 髪が一本だけ、金具に絡んでいた。


 短かった。


 大人の頭から抜けた長さではなかった。


 使った跡があるのに、使った証拠が無い。


 気味が悪かったのは、そこだった。


 誰かが勝手に泊まっているのなら、腹も立つし、報告もできる。


 分からないのは、その誰かが、自分のいた跡を一つ残らず消していくことだった。


 几帳面というのとは違う。


 念入りすぎて、こちらの息が浅くなる種類の丁寧さだった。


 小さい上履きを見つけたのは、非常階段の踊り場だった。


 四階と五階のあいだ。


 喫煙所にもなっていない、ふだんは誰も通らない階段だ。


 コンクリートの隅に、片方だけ落ちていた。


 白いゴムの先が灰色になって、踵の内側が踏み潰されている。


 ずいぶん履かれた靴だった。


 甲のところに、名前を書く欄がある。


 そこは黒いマジックで塗り潰してあった。


 塗り潰した上には、何も書かれていない。


 拾い上げて、わたしはしばらく手に持っていた。


 見覚えがあった。


 客室で出た忘れ物は、期限を決めて事務室の棚に置き、過ぎたものは処分の箱へ移す。


 先月、その箱へわたしが自分の手で入れたものの中に、これがあった。


 捨てるはずのものが箱から出て、この階段まで来ていた。


 わたしはそれを、事務室の箱へ戻した。


 その夜、わたしは上がらずに残って、フロントの裏の鍵箱を開けた。


 四〇八のフックは、空だった。


 二つのうち一つは、わたしの束の中にある。


 残りの一つが、どこにも無かった。


 タグの下がっていない金具だけが、いちばん端で光っていた。


 この箱から鍵を出して人に渡せるのは、フロントに立つ者と、支配人だけだ。


 わたしは箱を閉めて、非常階段から四階へ上がった。


 夜のあいだ、廊下の照明は半分に落としてある。


 売っていない部屋のドアの下からは、光の筋も出ていなかった。


 カーペットの上を、足の裏で探るようにして歩いた。


 ドアの前に立って、手を上げた。


 叩こうとして、止まった。


 中で、子どもが咳をこらえていた。


 喉の奥で潰した音が、二度、三度と続いた。


 息を止めて我慢して、それでもこぼれてしまう咳だった。


 そのあとに、小さく、しー、という声がした。


 ドア越しの、ほとんど息だけの声だった。


 毎朝、いっしょにカートを押して上がる人の声だった。

後編で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ