前編 ベッドの皺
半年前から売っていない部屋のベッドに、毎朝、皺が寄っている。
四〇八号室は、半年前から売っていない。
誰も泊まっていない。
それなのに、毎朝、ベッドに皺が寄っていた。
大人がひとりぶん。
それと、その脇に、小さいのがひとつぶん。
ユニットバスの給湯が不調で、蛇口をひねってから湯になるまでにずいぶんかかる。
配管ごと換えなければ直らないと業者に言われ、その見積りが通らないまま半年が過ぎた。
予約の在庫からは外してあるから、サイトにも出ない。
帳簿の上では、あの部屋は無いのと同じだった。
止めてある部屋も、放っておけば傷む。
水を流さないと排水口の封水が切れて、下から臭いが上がってくる。
だから週に一度は窓を開けて風を通し、蛇口とシャワーを出しておく。
四〇八の風通しは、わたしの受け持ちだった。
最初に気づいたのは、その風通しの日だった。
ベッドカバーの真ん中が、人の重みのぶんだけ沈んで、そこから足元へ向かって皺が流れていた。
わたしは手のひらで伸ばして、四隅を引いて、部屋を出た。
次の週に開けたら、同じところに同じ皺があった。
伸ばした跡の上に、新しく寄っていた。
止めた部屋の鍵は、清掃の束から外してフロントの裏の箱へ移してある。
四〇八のフックには鍵が二つ下がっていて、風通しを受け持ったときから、わたしはそのうちの一つを自分の束に入れたままにしていた。
その週から、四階へ上がるたびに開けて見るようにしたのである。
皺は、毎朝あった。
皺の寄り方には癖があった。
大人のほうは、いつも窓ぎわではなく壁ぎわに寄っている。
横になって、体を丸めた形だ。
小さいほうは、その壁と大人のあいだにある。
壁と体に挟まれる、いちばん狭いところで寝ている。
枕は二つ置いてあるが、へこんでいるのはいつも片方だけだった。
わたしの仕事は二つある。
ひとつは、使われた部屋を売れる状態に戻すこと。
もうひとつは、清掃班の名簿を作ることだ。
名簿というのは、誰を何時から何時まで入れるかを決めた紙のことである。
月の終わりに印刷して、支配人の判をもらい、本部へ送る。
人を増やすことも、減らすこともできる。
名前を書き足すことも、線を引いて消すこともできる。
十年やってきて、わたしが引いた線は数えきれない。
書き足したほうは、数えるほどしかない。
藤沢佳代、五十六歳。
このホテルで客室清掃のチーフをしている。
十年前まではパートだった。
線を引く側に回って、十年になる。
人は足りていない。
一人で回す部屋の数は、去年より増えた。
募集を出しても、来ない。
だから名簿はここ何年か、同じ名前が並んだまま動かない。
動くのは時間の欄だけで、それも増えるほうにしか動かなかった。
今月の末には、本部の監査が来る。
名簿と現場が合っているかを見にくる人たちだ。
去年は、休憩の記録と実際の休憩が合っていないと言われた。
合っていないと言われれば直す。
直すというのは、たいてい紙のほうを直すことだった。
班は、わたしを入れても数えるほどしかいない。
いちばん長いのは大村さんで、六十を過ぎている。
掛け持ちの宮下さんは、昼から別の店に入る。
それに、春から来た子。
班ではサトウさんと呼んでいる。
朝は八時前に地下の休憩室へ集まって、受け持ちの階を割り、カートを押してエレベーターに乗る。
二階から順に上がって、四階まで来ると、みんな四〇八の前を素通りする。
売っていない部屋には、用が無い。
備品の数が合わなくなったのは、そのころからだ。
カートに積むものは、朝に数えて表に書く。
歯ブラシ、剃刀、石鹸、櫛。
夕方に戻して、また数える。
その数が、日によって合わない。
歯ブラシが一本足りない。
次の日は櫛が一本。
その次は石鹸が一個。
減るものは日によって違うのに、減る数だけは、いつもひとつだった。
二つ足りない日は、一度も無かった。
リネンのほうもおかしかった。
回収した使用済みのタオルを数えると、出した枚数より一枚多い日がある。
多い日と、合う日があった。
わたしはしばらく、春から来た子が数え違えているのだと思っていた。
その子は、まだ手順に慣れていなかった。
バスタブを磨くときは、奥から手前へ体をひねって、入口に背中を向けたほうが早い。
あの子はそれをしなかった。
いつも入口のほうを向いたまま、遠いところへ腕を伸ばして磨いた。
窓ぎわを拭くときもそうだ。
ガラスに背中を向けないように横向きに立って、腕だけを動かす。
二度目に教えたとき、あの子は、すみません、と息だけで言った。
言い方だけは素直で、やり方は変わらなかった。
三度目は言わなかった。
不器用な子なのだと思っていた。
数える者を替えても、袋を分けても、数は同じようにずれた。
あの子のせいではなかった。
支配人には、一度だけ話した。
「点検の業者が横になったんじゃないの」
支配人は、わたしの後ろの壁に貼ってある予約表のほうを見ながら言った。
そういうことは、たしかにある。
設備の人間が、長い作業のあいだにベッドの端で休むことはある。
「新しい子が、間違えて掃除しちゃったとか」
業者が入るのは月に一度だ。
皺は毎朝ある。
間違えて掃除したのなら部屋は整うはずで、皺が寄る道理がない。
それに、どちらの説明でも、小さいほうの皺が余る。
わたしは、小さいほうのことは言わなかった。
言えば支配人が困るのは分かっていた。
困らせると、話はそこで終わる。
――この十年、わたしはそうやってチーフの椅子に座ってきた。
四〇八には、ゴミが無かった。
半年売っていない部屋というのは、たいてい埃くさい。
カーテンを開けると、光の中に粉が舞う。
四〇八はそうではなかった。
屑籠は空で、内袋の底に紙の一枚も貼りついていない。
床に髪の毛が一本も落ちていなかった。
人が寝起きすれば、必ず何かは落ちる。
落ちていないというのは、落ちたものを拾った人がいるということだ。
匂いも違った。
閉め切った水回りの、湿って重い匂いに混ざって、石鹸の匂いがした。
カートに積んでいるのと同じ石鹸だった。
ユニットバスの排水口の目皿を外してみた。
髪が一本だけ、金具に絡んでいた。
短かった。
大人の頭から抜けた長さではなかった。
使った跡があるのに、使った証拠が無い。
気味が悪かったのは、そこだった。
誰かが勝手に泊まっているのなら、腹も立つし、報告もできる。
分からないのは、その誰かが、自分のいた跡を一つ残らず消していくことだった。
几帳面というのとは違う。
念入りすぎて、こちらの息が浅くなる種類の丁寧さだった。
小さい上履きを見つけたのは、非常階段の踊り場だった。
四階と五階のあいだ。
喫煙所にもなっていない、ふだんは誰も通らない階段だ。
コンクリートの隅に、片方だけ落ちていた。
白いゴムの先が灰色になって、踵の内側が踏み潰されている。
ずいぶん履かれた靴だった。
甲のところに、名前を書く欄がある。
そこは黒いマジックで塗り潰してあった。
塗り潰した上には、何も書かれていない。
拾い上げて、わたしはしばらく手に持っていた。
見覚えがあった。
客室で出た忘れ物は、期限を決めて事務室の棚に置き、過ぎたものは処分の箱へ移す。
先月、その箱へわたしが自分の手で入れたものの中に、これがあった。
捨てるはずのものが箱から出て、この階段まで来ていた。
わたしはそれを、事務室の箱へ戻した。
その夜、わたしは上がらずに残って、フロントの裏の鍵箱を開けた。
四〇八のフックは、空だった。
二つのうち一つは、わたしの束の中にある。
残りの一つが、どこにも無かった。
タグの下がっていない金具だけが、いちばん端で光っていた。
この箱から鍵を出して人に渡せるのは、フロントに立つ者と、支配人だけだ。
わたしは箱を閉めて、非常階段から四階へ上がった。
夜のあいだ、廊下の照明は半分に落としてある。
売っていない部屋のドアの下からは、光の筋も出ていなかった。
カーペットの上を、足の裏で探るようにして歩いた。
ドアの前に立って、手を上げた。
叩こうとして、止まった。
中で、子どもが咳をこらえていた。
喉の奥で潰した音が、二度、三度と続いた。
息を止めて我慢して、それでもこぼれてしまう咳だった。
そのあとに、小さく、しー、という声がした。
ドア越しの、ほとんど息だけの声だった。
毎朝、いっしょにカートを押して上がる人の声だった。
後編で。




