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やりがいの、燃えカス  作者: K3/KASANE
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17/17

後編 名簿の、いちばん下

ドアの向こうにいたのは、毎朝いっしょに働いている人だった。


 結局、わたしは叩かなかった。


 手を下ろして、来たときと同じように非常階段を下りた。


 十年、そうやってきた。


 名簿にあの子の名前が無いことは、はじめから知っていた。


 わたしが作っている紙である。


 知らないはずがない。


 春に、支配人から言われた。


 しばらくヘルプで入ってもらう人がいる、名簿はそのままでいい、と。


 わたしは、はい、と言った。


 それだけだった。


 増えるぶんには誰も困らない。


 時間の欄をいじらずに済むなら、そのほうが楽だった。


 だから、数えなかった。


 名簿に並んだ名前と、八時前の休憩室にいる人間を、わたしはこの半年、一度も突き合わせていない。


 その夜、初めて突き合わせた。


 名簿は去年から一人も増えていない。


 朝の休憩室には、その名簿より一人多く、人がいる。


 班では、あの子をサトウさんと呼んでいた。


 朝の割り振りのときにはもう、サトウさん四階お願いします、という言い方になっていた。


 タイムカードは無い。


 ロッカーも無い。


 給料は茶封筒で、その日のぶんをその日に渡す。


 渡すのは支配人で、受け取りのサインは書かせない。


 名簿に名前の無い人は、この建物では、いないことになっていた。


 次の朝、わたしはいつもより早く出て、自分の束の鍵で四階へ上がった。


 ノックを二度した。


 返事は無かった。


 それでも、中に人がいるのは分かった。


 わたしは鍵を回した。


 あの子は部屋の奥に立っていた。


 窓のほうではなく、壁を背にしている。


 わたしと目が合うと、謝るより先に後ろへ手を回した。


 小さい体が、その手の内側へ隠れた。


 ベッドは、もう整えてあった。


 カバーは引き上げてあって、四隅も入っている。


 ただ、真ん中に人の形が残っていた。


 毎朝わたしが見ていたのは、伸ばしきれなかったぶんだった。


 八時前に下へ降りなければならない人間に、ベッドメイクをしている時間は無い。


 枕元に、上履きが片方あった。


 わたしが事務室に置いてきたもう片方と、同じ白いゴムだった。


 「捨てるって聞いたので」


 あの子はそれだけ言った。


 言い訳はしなかった。


 洗面台の隅に、カートに積んでいるのと同じ石鹸が、使いかけで一個あった。


 歯ブラシは二本、並べて伏せてある。


 一本は毛先がつぶれて短くなっていた。


 子ども用のものは、この建物のどこにも置いていない。


 洗面台の下の袋に、封を切っていないものが、いくつか溜めてあった。


 枕は二つあるのに、使っていたのは一つだった。


 壁ぎわに寄せた一つに、二人で頭を乗せていたらしい。


 床に落ちたものは、毎晩、あの子が手で拾っていた。


 湯は、蛇口をひねってずいぶん待てば来る。


 待てないときは水で洗ったのだと、あとになって聞いた。


 子どもを先に洗って、そのあとで自分が洗う。


 排水口に髪が残っていたのは、拭き残したぶんだ。


 ゴミは袋に入れて、朝、建物の外へ持って出ていた。


 使ったタオルは、どこの部屋から出たものか分からないように、ほかの部屋の回収袋へ混ぜていた。


 カートの備品のことを聞くと、あの子は目を伏せた。


 「一日にひとつなら、数え間違いだと思ってもらえるかと」


 廊下で、カートの角が壁に当たる音がした。


 子どもは動かなくなった。


 泣きもしないし、母親の脚にしがみつきもしない。


 ただ、そこで止まった。


 その日は、あの子をわたしの受け持ちの階に入れた。


 二人でシーツを張るあいだに、少しずつ聞いた。


 一度にたくさん喋る子ではない。


 シーツの角を引くたびに、一つだけ出てくる。


 部屋は借りられない。


 紙が出せないから。


 紙を出しに行くには、役所に行かなければならないのだという。


 「役所に行ったら、あの人に分かるので」


 あの人、というのが誰なのかは聞かなかった。


 子どもを預ける先が無いから、置いて働くこともできない。


 だから朝の割り振りのとき、あの子はいつも四階を欲しがった。


 四階なら、途中でカートを置きに戻っても、廊下で立ち止まっても、誰も不思議に思わない。


 「寝るところと、働くところが、同じじゃないと、無理なんです」


 シーツの端を、あの子は指先で三度なでて伸ばした。


 それだけは、教えたとおりにできるようになっていた。


 支配人のところへ行ったのは、その日の午後だ。


 鍵箱の話をした。


 四〇八の鍵が、もう一本足りない、と。


 支配人は稼働率の表を伏せて、ペンを置いた。


 「俺が渡した」


 ひと月ほど前のことだったという。


 夜、フロントに立っていたら、あの子が子どもを連れて入ってきた。


 行く先があるとは言わなかった。


 断ることもできた、と支配人は言った。


 「追い返さなかったのは、俺だよ」


 誇っているようにも、逃げているようにも聞こえた。


 たぶん、その両方だった。


 「じゃあ、名簿に書けたのも支配人ですよね」


 支配人は答えなかった。


 答えの代わりに、伏せた表を裏返してこちらへ向けた。


 稼働率は去年より低い。


 人件費は本部が見ている。


 募集は出している。


 来ない。


 方針も人数も、自分で決めたわけではない。


 数字の話は、どこまで行っても数字の話だった。


 部屋を出るとき、支配人はこちらを見ずに言った。


 「あの部屋、まだ売れないからね」


 それが続けていいという意味なのか、見なかったことにしろという意味なのか、わたしには分からなかった。


 大村さんは、知っていた。


 わたしが四〇八の話を出しても、驚きもしなかった。


 モップの柄を持ち替えて、こう言っただけだ。


 「あの子がいるから、この人数で回ってんの」


 責めてもいないし、庇ってもいない。


 人数の話だった。


 あの子がいなくなって増えるのは、大村さんの受け持ちだ。


 宮下さんは、目を合わせなかった。


 上がる時間になるとカートを片づけて、下を向いたまま帰っていく。


 あの子と同じ年ごろだった。


 何も聞かないし、何も言わない。


 最後まで、そうだった。


 一度だけ、大村さんが言った。


 手は止めなかった。


 「そういうの、役所に言えば住所を隠してもらえるって、前にテレビで見たけどねえ」


 あの子は、バスタブの奥へ腕を伸ばしたままだった。


 「知りません」


 それから、


 「行けないんです」


 大村さんは、そう、とだけ言って次の部屋へ行った。


 話はそこで終わった。


 確かめに行く時間も、確かめて違っていたときにもう一度立ち上がる力も、あの子には無い。


 わたしのほうにも、代わりに確かめてやる手立ては思いつかなかった。


 監査は三日後だった。


 わたしは今月の名簿を印刷して、休憩室の長机へ広げ、あの子を呼んだ。


 「名前を書きます」


 あの子は紙を見た。


 すぐには何も言わなかった。


 「サトウさんでいいですか」


 「それ、前の名字なんです」


 班で名乗っていたのは、結婚する前の名字だった。


 役所の紙や、保険や、そういうものに載っている名前は、まだ違う。


 「どっちの名前で書きますか」


 わたしは聞いた。


 聞かずに書いてもよかったのかもしれない。


 けれど、聞かずに書けば、それはわたしが決めたことになる。


 あの子はしばらく黙っていた。


 指の腹で、机の木目を一度だけなぞった。


 「……働いてたっていう紙は、名簿の名前で出るんですよね」


 出ます、とわたしは言った。


 「じゃあ、そっちで」


 そっち、というのが戸籍のほうだった。


 あの人と同じ名字である。


 あの子はそれを、最後まで口に出して言わなかった。


 わたしが書くのを、机の向こうから見ていた。


 わたしは名簿のいちばん下に、その名前を書いた。


 線を引いたことは数えきれない。


 名簿に載っていない人を書き足したのは、これが初めてだった。


 手で書いた字は、上に並んだ印刷の名前より、少し大きくなった。


 判は、何も言われずに押された。


 監査は、名簿を通した。


 通してから、監査の人たちは、その一行だけ前が無いことに気づいた。


 いつから働いているのか。


 先月の紙にはなぜ無いのか。


 茶封筒はどこから出ていたのか。


 聞かれたことに、わたしは順番に答えた。


 嘘はつかなかった。


 つけば、あの子の一行まで嘘になる。


 そのあと本部と支配人のあいだで何がやり取りされたのかは、わたしのところまで降りてこなかった。


 ただ、次の更新のとき、わたしは呼ばれなかった。


 いなくなったのは、わたしとあの子だけだった。


 わたしが最後に作った名簿には、あの子の名前がある。


 四〇八は空いた。


 給湯の見積りは、まだ通っていないらしい。


 あの人のことは、何も片づいていない。


 部屋も、預け先も、そのままだ。


 ただ一つ、名簿に載っていた期間ぶんの、働いていたという紙は出た。


 あれがどこまで通るのか、それで子どもを預けられるのかどうかまでは、わたしには分からない。


 最後の日、ロッカーを空にしていたら、大村さんが入ってきた。


 自分のロッカーを開けながら、こちらを見ずに言った。


 「あんた、書いたんだってね」


 はい、とわたしは言った。


 「……ばかだねえ」


 それだけだった。


 大村さんはロッカーを閉めて、出ていった。


 事務室の箱に、上履きは無かった。


 いつ持っていったのかは分からない。


 帰りに、わたしはエレベーターに乗らず、非常階段を下りた。


 上履きを拾ったあの踊り場を、もう一度だけ見ておきたかった。


 四階と五階のあいだ。


 コンクリートの隅である。


 上履きが置いてあった。


 今度は、両方あった。


 つま先をそろえて、壁ぎわに寄せてある。


 甲の名前の欄には、黒く塗り潰した跡の上から、平仮名で三文字、書いてあった。


 みつき。


 上履きは、まだ、その子には大きかった。


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

あれっ?主人公は? キョロo(・ω・ = ・ω・)oキョロ

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