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やりがいの、燃えカス  作者: K3/KASANE
通行券

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14/16

前編 二時十分の車

朝になると、コーンは拳ひとつぶん、内側にずれている。


 深夜二時十分、閉めたはずの三番レーンに、車が一台入ってきた。


 私はブースの窓越しにそれを見ていた。


 その夜、開けていたのは一番レーンだけで、そこには一台も来ていなかった。


 三番は電源を落として真っ暗で、手前にはコーンを並べてある。


 夕方に、私と尾形とで並べたものだ。


 それなのに車は当たり前の顔で速度を落とし、コーンの列の端をよけるようにして寄っていき、誰もいないブースの前で一度、たしかに停まった。


 それからまた動きだして、闇の中へ出ていった。


 テールランプが見えなくなるまで、私は動かなかった。


 動く理由が思いつかなかった。


 高速道路の出口の料金所である。


 屋根の下だけが昼のように白くて、その外側は一月の夜だった。


 手袋をしていても指の先から冷えていく。


 足元に小さな電気ストーブが一つあるが、脛の前を焼くだけで、背中はいつまでも寒い。


 深夜は要員が絞られる。


 この時間に開けている窓は一つで、私はそこに一人で立っていた。


 閉めたレーンをどうやって通るのか。


 通れるのだ、としか言いようがない。


 電源を落としたレーンの棒は、上がったままになる。


 規則の話ではない。


 ここに何年も立っている人間なら、みんな知っていることだ。


 私は深津和典という。


 五十五歳。


 道路の会社の子会社に雇われている契約社員で、この料金所で通行券と料金を受け取っている。


 隔日勤務だ。


 朝に出て、途中に長い休憩をはさんで、翌朝に上がる。


 前は運送をやっていた。


 三十年近く荷台と一緒に走って、腰をやって、しばらく粘って、それから降りた。


 ここの募集を見つけたとき、妻は、座って働けるならいいじゃない、と言った。


 実際には座りっぱなしではない。


 窓の外へ体をひねる動きを一晩に何百回とやる。


 腰には腰の分だけ来る。


 仕事そのものは単純である。


 車が停まる。


 窓が開く。


 手が伸びてきて、通行券を渡される。


 券を通し、金額を告げ、金を受け取り、釣りを渡す。


 それから頭を下げる。


 「ありがとうございました」


 それだけだ。


 一晩に何百回。


 一年で何万回。


 私はもう十何年、この言葉ばかりを言っている。


 夜中に来る車は、たいてい何も言わない。


 券と金だけを寄越して、こちらの顔は見ない。


 同じ車が同じ時刻に週に何度も通ることがあって、こちらは車の形と手つきで勝手に覚えてしまうのだが、向こうが私を覚えていたことは、たぶん一度もない。


 恨むような筋合いの仕事ではない。


 ただ、何万回も手を出して、何万回も引っこめて、そのたびに一人ずつ通り過ぎていくというのは、続けているとだんだん妙な感じになってくる。


 私は毎晩、何百人と会っている。


 そして誰とも会っていない。


 来年度から、この一般レーンは無くなる。


 もうほとんどの車が、止まりもしないでETCの側を抜けていく。


 うちの会社はここを専用にすると決めた。


 決めた人がどこにいるのかは知らない。


 とにかく三月の末で、私が立っている窓は閉じる。


 カレンダーを見れば、残りの日数はすぐに数えられた。


 数えたくないので、事務所のカレンダーはあまり見ないようにしていた。


 コーンのことに気づいたのは、尾形だった。


 尾形涼太は二十七で、ここではいちばん若い。


 几帳面な男で、コーンを並べるときは路面の白線にきっちり合わせて立てる。


 朝、明るくなってから、その尾形が三番の手前で首をかしげていた。


 「深津さん、これ」


 行ってみると、コーンは立っていた。


 倒れてもいないし、散らばってもいない。


 ただ、列が内側へずれていた。


 拳ひとつぶん、というところだ。


 言われなければ気づかない。


 白線を目で追うと、たしかにコーンの底が線から外れていた。


 「僕、線に合わせて置いたんですよ」


 尾形は自分の並べた列を端から端まで見て、それから私を見た。


 風でずれたのなら、倒れるか、転がるか、少なくとも向きが乱れる。


 そうはなっていない。


 誰かが持ち上げて、どけて、また立てた。


 急いで立てたので、少しだけ内側になった。


 ――そう考えるのがいちばん自然だという言い方を、私はそのときまだしなかった。


 券を見つけたのは、その次の朝である。


 誰もいない三番のブース。


 その窓の桟のところに、通行券が一枚、置いてあった。


 北の入口で取った券で、日付は前の晩、時刻は二時の少し前だった。


 券の上に、小銭が重ねてある。


 数えると、一区間ぶんの料金がちょうどあった。


 多くも少なくもない。


 釣りの出ようがない額だった。


 誰もいない料金所で、誰かが、律儀に金を払っていく。


 うまく説明のできない気味の悪さだった。


 窓を割られたのなら腹が立つ。


 料金を踏み倒されたのなら報告書を書く。


 そのどちらでもない。


 桟の上の小銭は冷たく、きちんと積んであって、朝の光の中で、ただ礼儀正しかった。


 幽霊みたいだ、と私は思った。


 思ってから、口には出さなかった。


 所長は取り合わなかった。


 「風だろう」


 コーンは倒れていませんでした、と私が言うと、所長は書類から目を上げずに、じゃあETCの車が間違えて入ったんだ、と言った。


 棒の上がったレーンに入ってしまって、慌てて出ていった。


 酔ってUターンする奴だっている。


 「金はどうします」


 「拾得物にでもしておけばいいだろう。落とし物だよ」


 落とし物にしては、額が正確すぎた。


 券には、入った入口と時刻が印字されている。


 次の朝も、その次の朝も、券は置かれていた。


 どれも同じ入口だった。


 時刻も、二時の前後で揃っていた。


 風は入口を選ばない。


 酔った人間は、二晩続けて同じ時刻には来ない。


 所長の言うことは全部もっともで、全部、その一点だけが余った。


 もう一つ、私が口に出さないでいたことがある。


 私が夜勤に入る夜は、必ず来るのだ。


 録画も見た。


 閉めたレーンの側を映しているカメラは、角度が悪い。


 車の形と色までは分かる。


 白っぽい、小さな古い車のようだった。


 だがナンバーのあたりがちょうど柱の陰に入っていて、数字はどうやっても読めなかった。


 記録は一週間ほどで上から消えていく。


 先週の分を見ようとしたときには、もう無かった。


 尾形は、置かれていた券を捨てないでいた。


 自分の机の、いちばん下の引き出しを開けて見せられた。


 券が何枚も溜まっていた。


 小銭のほうは、言われたとおり袋へ入れて事務所に預けてある。


 券だけが、そこに残っていた。


 「気味が悪いんで、取ってあるんです」


 尾形は言った。


 「これ、どこの誰か分かる方法って、ないんですかね」


 無い。


 私は一枚つまみ上げて、裏返した。


 入口と、日付と、時刻。


 それだけだ。


 通行券には、渡した人の名前も、受け取った人の名前も残らない。


 当たり前のことだが、そう思ったのは初めてだった。


 私が何万回受け取って、何万回、穴の開いた箱へ落としてきた紙である。


 そこには誰の名前も無い。


 私の名前も、無い。


 その週の休憩の前に、所長に呼ばれた。


 来年度の話だった。


 一般レーンが無くなること。


 人が要らなくなること。


 私については、系列の別のところに枠を一つ用意してもらえそうだということ。


 所長は書類をこちらへ滑らせながら言った。


 「深津さんの年で、まだ拾ってもらえるだけましだよ」


 ましだ、というのは本当だろうと思った。


 所長も、ものを決められる側の人間ではない。


 私は書類を折って作業着の内側へ入れ、礼を言って部屋を出た。


 休憩室には誰もいなかった。


 自販機の低い音だけがしていた。


 私は携帯を出して、家の番号を呼び出して、親指を止めた。


 この時間なら妻は起きている。


 三分もかからない話だ。


 来年から私のレーンは無くなる、別のところへ行くことになりそうだ、それだけのことだ。


 私は携帯を閉じて、上着のポケットに戻した。


 まだ言っていない。


 話が出たのは十月で、もう三か月になる。


 その夜、私は三番のレーンにコーンだけ並べて、ブースの中に入った。


 明かりは点けなかった。


 電源を落としたままのブースは、外の光がガラスに映るだけで、思っていたよりも暗かった。


 冷える。


 ストーブは持ち込まなかった。


 持ち込めば、光る。


 私は手袋の上から手をこすり合わせて、椅子には座らずに立っていた。


 窓の桟に指をかけると、金属が氷のようだった。


 一番レーンには尾形がいる。


 今夜は三番も自分が見ておく、とだけ伝えてある。


 一時を過ぎ、車の音がまばらになった。


 本線を走る音が遠くで途切れ、また流れる。


 二時になった。


 息が白くなるのが、暗いなかでも分かった。


 二時十分、ヘッドライトが来た。


 車は本線から出口へ流れ、速度を落とし、迷いもせずにこちらへ寄ってきた。


 コーンの列の端が、静かによけられていた。


 窓の高さが合う位置で、車は停まった。


 運転席の窓が下りた。


 一年前にここを辞めた、田端さんだった。


 「……深津さん」


 田端さんは、通行券を差し出した。


 手つきは、十年前とまったく同じだった。

後編で。

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