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やりがいの、燃えカス  作者: K3/KASANE
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13/19

後編 最後の一軒

久江が選ぶ答えまで。


 翌朝、わたしは二十七番地の門の前で慈恩さんを待った。


 坂の下から、黒いスーツのまま歩いてきた。


 手ぶらだった。


 門を入ると、まっすぐ土間の鉄の蓋の前へ行ってしゃがんだ。


 ポケットから小さな瓶を出しかけて、途中で手を止め、そのまま戻した。


 ガラスの中身は、白い粒に見えた。


 わたしは木崎さんから鍵を借りていた。


 宮田さんが留守のときのためにと預けたもので、三年、使われていない。


 錠は渋かったが、回った。


 中は暗かった。


 雨戸が閉まっていて、廊下の埃は誰にも踏まれずに平らだった。


 仏壇は扉が閉じられ、位牌も遺影も持ち出されていた。


 台所の蛇口をひねると、こつ、と音がしただけだった。


 畳の上に、新聞の束が紐でくくって置いてある。


 日付は三年前の九月だった。


 慈恩さんは部屋を一つずつ見て回り、押し入れも開けた。


 それから廊下の真ん中に立って、しばらく黙っていた。


 糸のような目が、少しだけ開いた。


 「あー、家のほうは、なんにもないですよー」


 彼は、玄関のほうへ顎をしゃくった。


 「あるのはー、この蓋の中だけですよ」


 わたしは、できることを順にやった。


 まず止水栓を締め直した。


 ボックスの奥の四角い頭に工具を掛けて、動かなくなるまで回した。


 それから会社を通して、市の水道部に立会いを頼んだ。


 十月の末に、作業服の職員が二人来た。


 器械を外し、道路側から来ている管の口に、青いバケツを当てて三十分置いた。


 底は乾いたままだった。


 若いほうが、念のため、ともう三十分置いた。


 乾いたままだった。


 「器具ですかね」


 年かさの職員はそう言って、取替の申請を出しておくよう勧めた。


 十一月の頭に、器械が新しくなった。


 青みのある金属で、ガラスの窓が澄んでいる。


 指針は〇〇〇〇だった。


 控えのノートに、新しい器械の番号と、〇〇〇〇、と書いた。


 十一月の検針日、わたしは二十七番地の蓋を開けた。


 澄んだガラスの窓の中に、黒い数字が四つ並んでいた。


 一一六四。


 わたしはしゃがんだまま、動けなかった。


 羽根は止まっている。


 止水栓は締めたままだ。


 器械は先週入れたばかりの新品で、先月まで一一六二を出していた器械は、もうここにない。


 その足で、ビルの十階へ上がった。


 慈恩さんはノートを覗きこんで、灰皿の蓋を開けた。


 「増えてるのは、物じゃないですよー。数字だけです」


 十二月の検針が終わった晩、わたしは事務所ではなく、十階へ行った。


 ノートを二十七冊、段ボールごと自転車の荷台に括りつけて運んだ。


 慈恩さんは、それを座卓に全部ひろげさせた。


 三年半前の春の一冊を、わたしは自分で開いた。


 「ここです」


 二十七番地の欄に、五、と書いてある。


 その横に、鉛筆で、※要確認。


 宮田さんは、ずっと三の人だった。


 三が五になった。


 二、増えた。


 一人暮らしの年寄りの家で、使う水が急に増えるのは、ふつうのことではない。


 管が漏れているか、体のほうが変わったかだ。


 どちらでも、報せる。


 「その日は、月末でした」


 残りが四十軒あった。


 報せれば、水道部の立会いになる。


 立会いは半日つぶれる。


 半日つぶれれば、その日は百軒も回れない。


 一軒いくらの仕事だった。


 だからわたしは、※要確認と書いて、次の家へ歩いた。


 翌月も五だった。


 わたしは、また書かなかった。


 三度目には、書き添えることも忘れた。


 五は、その家のふつうの数字になった。


 秋、宮田さんは家の中で見つかった。


 誰も、わたしを責めなかった。


 所長も、市の水道部も、木崎さんも。


 誰も、わたしがあの二を読んでいたことを知らない。


 「わたしは、読んだんです」


 声が、思ったより低く出た。


 「読んで、報せなかった」


 慈恩さんは、何も言わなかった。


 細い線香の先を灰皿の縁に当てて、灰を落とした。


 それだけだった。


 しばらく、部屋は線香のにおいだけだった。


 やがて、慈恩さんが言った。


 「メーターはですねー、読まれるためにあるんです」


 わたしは顔を上げた。


 「水を止める道具じゃないんですよー。人に読ませるために、数字を出す道具です。出しっぱなしにしておく器械じゃありませんー。誰かが月に一度、蓋を開けて、読んで、持って帰る。そこまで込みで、あれの仕事です」


 彼は座卓のノートを、指の背で軽く叩いた。


 「あー、三年半前、宮田さんは二を出した。なんで出たのかはー、ぼくには言えません。会ってませんからー。器械はそれを、ちゃんと数字にして出した。ここまでは、器械の仕事です」


 それから、と慈恩さんは言った。


 「読む役の人がー、読んで、届けなかった」


 わたしは、膝の上の自分の手を見ていた。


 「だから、まだ出してるんですよー。返ってきてるんじゃありませんよー。まだ、届いてる途中です」


 「……三年半、ですか」


 慈恩さんは、わたしの言葉には答えなかった。


 「数字を書いてるのは、あなたじゃないですよー。器械です」


 「あなたがやめたのはー、書くことじゃなくて、読むことです」


 祓えますか、とわたしは訊いた。


 「あー、祓えませんよー。祓うものが、ないですから」


 彼は灰皿の蓋を閉じた。


 「止まるのはー、読まれた分だけです」


 年が明けて、わたしは報告書を書いた。


 会社の様式に、三年前のことを書く欄はない。


 だから白い紙に、番地と、月と、数字を並べた。


 あの半年と、その前の三か月ぶんだけ。


 三、三、三、五、五、五、五、五、五。


 その下に、一行だけ書いた。


 当時、確認を要すると判断しながら、報告しませんでした。


 所長は老眼鏡をずらして、長いこと紙を見ていた。


 「岡部さん。三年前の話を、いま出されてもな」


 それは、そのとおりだった。


 わたしは黙っていた。


 所長はもう一度、上から下まで読み直してから、引き出しの朱肉を出した。


 判子を押して、上へ回す、と言った。


 湯呑みに手を伸ばして、やめた。


 「うちは三月までだ。回るところまでは、回しとく」


 二月の半ばに、返事が来た。


 市の水道部からで、二行だった。


 当時の記録は残っていない。


 当該箇所は現在閉栓中のため、対応の予定はない。


 控えの写しと一緒に綴じた。


 誰も助からなかった。


 記録には、残った。


 三月の検針日は、雨のあとの晴れだった。


 この区域の、最後の日だった。


 朝の八時に自転車を出して、一丁目から順に回った。


 二百軒ある。


 凍る蓋は、もうなかった。


 生垣の前で犬に吠えられ、いつものように、ごめんなさいね、と言った。


 最後に、二十七番地へ行った。


 門を入り、自転車を停めて、軍手をはめた。


 鉄の蓋のふちに指を掛けて、持ち上げる。


 十四年で何回開けたのかは、数えていない。


 澄んだガラスの窓を、親指の腹でこすった。


 一一七二。


 先月は一一七〇だった。


 控えを膝に載せて、鉛筆で一一七二と書いた。


 書き終えてから、もう一度、数字を見た。


 それから、上着の内ポケットから無地のカードを出した。


 慈恩さんが十階でくれたものだ。


 何を書けとは、言われなかった。


 わたしは鉛筆で、一行だけ書いた。


 読みました。


 蓋を裏返して、鉄の桟の隙間にカードを挟んだ。


 蓋を戻した。


 土間に落ちて、ごとん、と鳴った。


 門の外の電柱のところに、慈恩さんが立っていた。


 ずっとそこにいて、一度も入ってこなかった。


 「ぼくには、読めませんからー」


 彼は言った。


 「読むのはー、あなたの仕事です」


 引き継ぎ書には、番地ごとに気をつけることを書く。


 犬のいる家、蓋の上に鉢を置く家、判子を出したがる家。


 二百軒ぶんを、三日かけて書いた。


 二十七番地の欄に、わたしはこう書いた。


 二十七番地・宮田様方 閉栓中。


 毎月きっかり二。


 開けて、読んでください。


 引き継ぐのは富永さんという二十代の人で、会社は違うが、区域は同じになる。


 紙を渡すと、上から順に読んでいって、その行で指を止めた。


 「これは……何か、あるんですか」


 「あります」


 わたしは、それだけ言った。


 富永さんは分からない顔で、はい、と言って、紙を鞄にしまった。


 四月に、区域は無くなった。


 その月の半ばの晩に、電話が鳴った。


 「岡部さん。二十七番地、今月、一でした」


 富永さんの声だった。


 ちゃんと開けているのだ、と思った。


 そうですか、とわたしは言った。


 それ以上は、言えなかった。


 受話器を置いてから、しばらく、電話の前に座っていた。


 翌日、ビルの十階へ上がった。


 八階でふくらはぎが張るのは、前と同じだった。


 「あー、一に、なりましたかー」


 慈恩さんは、茶も出さずに言った。


 「読まれた分だけ、止まりますー。全部で何年かかるかは、ぼくにも分かりませんー。ずいぶん、めんどくさい引き継ぎをしましたねー」


 帰り道、わたしは自分の手を見た。


 中指の鉛筆だこと、十四年、蓋を押さえてきたせいで平たくなった親指の爪。


 信号が変わるまで、わたしはその爪を見ていた。


 開ける蓋は、もうなかった。


毎月、人の家の蓋を開けて数字を読む仕事の話

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