ニュービギニング・ニューモーニング
借りものの浴衣に不慣れに帯。先ほどみんなで晩ごはんを食べた広間に吊られた蚊帳の中、冬弥は横たわった。
窓は開け放たれている。畳のにおい、うっすらと蚊取り線香のにおい。森が風に揺れて鳴く音が、この夜の静けさを際立たせた。
閉じた瞼の中はそれは瞼を閉じてもなお、にぎやかだった。いま二階のそれぞれの部屋で寝ているギャルたちと紬ちゃんの髪の色、冬弥の世界にはこれまで存在しなかった色彩が焼き付いて、夢の入り口に辿り着けない。
冬弥は密やかに溜め息を吐き、蚊帳の外、縁側に座った。熱帯夜ではあるはずだが、風のおかげで涼しい。
冬弥はいつもそうするように、中空に線を描き始めた。
指先で、す、す、す、と左から右へ、左から右へ、短いもの、長いもの、高さを変えながら。右手でそうしながら、左手ではまた別なところに線を引く。その線は冬弥にだけ見える光を帯び、音を鳴らす。誰かが見たら、VRゴーグルで電子書籍を読んでいるようにも見えるかもしれない。
これは音楽である。
冬弥にだけ見える、旋律である。
冬弥がアルバイトをして稼ぐ金、八月中旬に給料が出たら、それを注ぎ込んで新しいDAWや音源を買う。……小学校のときから始めた作曲、DTMの環境を改善し、より高品質な曲を配信できるようにするために。音楽は冬弥にとって、貴重な、そして至上の「遊び」なので、その環境を整えるための金稼ぎは、「遊ぶ金欲しさ」という説明に、どうしてもなってしまう。
さほど自慢できるほどの作品があるわけではない。評価してくれる人たちが口を揃えて「もうちょっと音がよければ」と言うので、このほど一念発起してアルバイトを始めたのだ。
これまで書き上げたのは、三十曲ほど。それは冬弥なりに、この世界に記した指紋……、のつもりである。
別に多くの人が口ずさむものにならなくてもいい。とはいえ、一度でも誰かに聴いてもらって、その人の耳へと注がれる数分という時間があれば、その人と対話をしたことになるという考えでいる。自分の手を離れ、自分の存在がこの世界から消えてなくなったあとにも、曲という形で、あるいはそれが失われることになっても誰かの中で、生き続けることになる、痕跡である。
一度、トイレに行って戻ってきて、なお線を引こうかというときに、
「眠れぬのか」
遠慮がちな声を掛けられた。思わず息を呑む……、寝間着姿の芋窪さんだ。
お風呂に入り、櫛を通した銀色の髪は、見惚れるような艶を帯びていた。お化粧も落とされている、つまり素顔の芋窪さんと初めて向き合ったわけだが、……冬弥は芋窪さんがお化粧をする理由がわからなかった。ノーメイクの芋窪さん、息を呑むような美しさがある。色合いとしては冷ややかだが、微笑みを浮かべるとたちまち優しさが滲んだ。
夜に現れた鮮やかな色彩、また眠れなくなってしまうかもしれない。
「枕が違うておるからのう、……すまぬ、妾が泊まっていけなどと勝手を申してしまったからじゃの……」
冬弥は芋窪さんの姿に見惚れてしまった自分に気付いて、慌てて首を振った。
「いえあの、大丈夫です。……いつも、もうちょっと遅くまで起きてて、でもって、これぐらいの時間にはその、パソコンの前に座って作業してることが多くって」
単語だけでも何らかのアレルギー反応を示してしまうのか、芋窪さんの細い肩がぴくっと震えるのを見た。だから冬弥は大急ぎで、
「あの、パソコンって言っても、その、音楽を、僕は、そう、音楽を作るのが趣味で……」
言うつもりもなかったことまで言ってしまう。音楽ならば芋窪さんも当然わかる。わかることと繋がれば、多少なりとも血の通うような感覚が生まれるのかもしれない。
「音楽……、ほう。その、妾も、えー、……その、キカイが音楽と関わることがあるというぐらいの知識は備えておるが、平入くんは創造力が豊かなのじゃな」
それは褒めすぎである。あくまで趣味の一つに過ぎず、創造性なんてものは誰しもが持っている。それを外に向けて表現するかどうかの違いでしかない。どうも、芋窪さんといると冬弥の血行はよくなるようで、頬がじんわり熱くなった。
「そ、それ言ったら芋窪さんだって、昔に絵で賞を獲ったことがあるって聞きましたよ」
「まあ、そんなこともあったのう……。絵はエツコが上手いのじゃが、あやつが描け描けとうるさく申すゆえ……。やり始めるとすぐムキになってしまうのが妾のよくないところじゃ。しかしいったい誰から、そのような昔のことを?」
「うちの父から。父も芋窪さんの同級生でした。父の母は父が大学のときに再婚してるので、当時は来宮って苗字でしたけど」
冬弥の隣までやってきて、とても優美な所作で正座した芋窪さんに、まじまじと顔をのぞき込まれた。
「……平入くんのお父上は、来宮啓一郎くん」
父を「くん」づけで呼ばれることには、奇妙な恥ずかしさがあった。
「ははぁ、なるほどのう……。長いこと高校生をやっておるゆえ、ときおりかつての同級生の子であるとわかる生徒が入学することはある。ほれ、平入くんと仲の良い、島くんも」
「言ってました、お父さんが同級生だったって」
「うむ、笑った顔がそっくりじゃ。……平入くんもそうであったとはのう……、しかし、目元など、うむ、来宮くんに瓜二つじゃ……。しかし、……むう、あれがもう三十年も前のことになるか」
そこまで言って、芋窪さんは少し、表情を曇らせた。
「お父上は、病院にいると」
「はい。うちは元々心臓があんまり丈夫ではないんですが、去年脳梗塞をやりまして」
「左様か……。小説を書かれておるそうじゃな?」
「あんまり売れてませんけど」
「立派なことじゃ。妾と同じ教室におったころ、読書感想文で賞を獲っておったのう……」
無表情でほとんど言葉を発さず、周りに興味なんて何もないという顔をしていながら、芋窪さんはそうしたことを極めて精緻に覚えているらしかった。
冬弥には、それがずいぶん嬉しいことのように思われる。芋窪さんたちは、これからもきっと、ずっとずっと長い時間を生きていくのだろう。彼女たちの中でどうやら、記憶は頑強に積み重なっていくらしい。冬弥の作った音楽が誰かの中に染み入るように、指紋が、痕跡が、芋窪さんの中に残る未来を思うと、誇らしいような気持ちにもなる。
「いつか、……冬弥くんの音楽を、聴いてみたいのう」
反射的に「嬉しい」と思ってしまったものだから、……社交辞令だろうという想像が働かなかった。
「いま聴けますけど、スマートフォンで」
「えっ、すっ、すまっふぉ……」
あ、そうか。この人はセルフレジのタッチパネルにだって触れないのだった。スマートフォンから流れ出る音楽なんて耳に入れるのは恐ろしがるに決まっている。
「い、いや、その、聴く、聴ける、妾は別にキカイを恐れてなどおらぬゆえ、なんということはない」
無理なんてしなくてもいいのに、芋窪さんは目を泳がせながら強がる。
「かまわにゅ。いや構わぬ。妾は、平入くんの音楽を聴いてみせよう。別に何も一つとして恐れることなどありはせぬ」
芋窪さんは噛んだ。噛んだことを認めない顔で、むしろ勢いづいて、蛮勇という言葉で表現してもいいようなことを、言ってしまった。彼女の上げた拳の下ろしどころを、冬弥も用意できない。
「い、いいんですよそんな無理に聴かなきゃいけないようなもんでもないんですし」
「べっ、別にぃ、無理などではなく、普通のことゆえぇ、何の遠慮も要らぬゆえぇ」
声を震わせ跳ねさせ裏返して芋窪さんももう後に引けなくなっている。
「じゃ、じゃあ、あの……、再生しますよ」
冬弥は震えている。なぜってがたがた震える芋窪さんにひっつかれているからだ。
「ううううむ何の遠慮も要らぬ」
今日一日で、冬弥は随分大人っぽい体験をしている。妖怪や獣が本性であろうと、女の子と手を繋いだり、その肌の大部分を見てしまったり、……いまはこうして、浴衣二枚向こうに素肌がある。柔らかくて、ほのあたたかくて、同じ石鹸を使ったはずなのに甘くて優しい香りがする。
冬弥の指先が、再生ボタンを押した瞬間、「ひョ」みたいな音を、芋窪さんが発した。
それから四分半……。
「い、いかがでしたでしょ」
やっぱりあんまりよくなかったかなぁ、と思って、でもそう訊かずにはいられない。
「……ふぃまのを」
んんっ、と咳払いをして、
「今のを、平入くんが作ったのか。その、一人で、キカイに向かって……、一人でこれだけのものを作ることが出来るのか……」
「まあ、大半がその、機械のおかげっていうか……」
「ははぁ……、いやはや……、たいしたものじゃのう……。いや、キカイがすごいのではないぞ、キカイを操って、これほどのものを作ってしまえる平入くんがすごいのじゃ」
手放しに……、いや、まだ芋窪さんは手を離してはいないけれど、芋窪さんは称賛の言葉を送ってくれた。
「そう……、そうなんでしょうか」
「うむ。妾とて、日々学校の行き帰り、今日のようなスーパーの店内でも、音楽を聴くことはある。雑多な中に、心に残る曲というものはあるし、覚えて口遊むことある。妾は平入くんの曲を聴いて、良きものを感じた。何じゃろうな、曲の調子とも違う、……胸の聴いていて奥のほうから、じんわりと温かくなるような気持ちになる。きっと良きものを、平入くんがとても丁寧に曲に籠めたのじゃろうなぁ……」
冬弥は、しばし呆然としてしまった。頬がじいんと熱い、たぶん、紅くなってしまっている。
「ああすまぬ、いつまでもくっついておっては暑いのう……」
今更取り繕うように芋窪さんは身を剥がした。芋窪さんは「良いものを聴かせてくれた礼をせねばならぬ」と立ち上がってどこかへ行き、戻ってきたときには団扇を手にしていた。持ち手など骨格はどうやら竹で、朝顔の描かれた地紙は和紙のようだ。もしかしたら手作りかもしれない。
芋窪さんに促されて、布団に収まった冬弥のかたわら、芋窪さんが一緒に蚊帳の中に入ってきたのには、さすがに驚いた。
芋窪さんは悠然と笑う。
「案ずるでない。ばあさんながら、自分の顔と身体の形についてはわかっておる。平入くんがゆるりと眠れるようにと思うての」
女性と二人きりで一つ蚊帳の中!
尊崇の念という蓋で押し留めたつもりの感情が、頭をぐいぐいと押し付けて蓋を外そうとする。
冬弥の内心のざわめきを聴き取ったわけでもないだろうけれど、
「目を閉じよ」
芋窪さんの手のひら、長くて形のいい指が冬弥の前髪から鼻にかけて、触れるか触れないかという距離を、静かに通り過ぎる。
魔法にかけられたように、冬弥の瞼は閉じて、もう開かなくなってしまった。
優しい……、とても優しい風が、肌掛けの向こうから届く。心地よいが、芋窪さんが団扇を動かしてくれているのだと思えば、悠長に寝ていてはいけない気がする。
のであるが、
「……睡れ、睡れ、愛しき子」
声。
「腕の中、胸の中、睡れ」
声。
芋窪さんの声。
唄の要諦を抑えている……、と言えばいいのか。
文武両道、種目を問わず歴代のタイトルのあちこちに名前を連ねる芋窪さんであることを思えば、唄だって上手くて当然なのだが、それにしても、声。
元々とても美しい響きをしていると思ってはいたが、今日、これまでにないほど芋窪さんの、たくさんの声を聴いて、……その中には「ギャ」とか「えーん!」とかみたいなものも含まれていたけれど、すべてを含めた中で最も清らかで、透明で、なんだか愛撫か抱擁のようで。
「あ……」
信じがたいことであるが、その響きの中に身を委ねたと思った次に気付いたときには、外に朝の光が舞い降りているところだったのだ。
光は森に染み込んで、青い空気を馨しく染め、少しばかりひんやりとした風を蚊帳の中にまで届ける。
鳥の声が縁側の向こうから聴こえた。こんな爽やかな夏の朝がこの世に存在していることを、今日初めて冬弥は知った。芋窪さんの子守唄のおかげで……。
問題は、芋窪さんが冬弥と同じ蚊帳の中に、べたぁ、とほっぺたを畳に押し付けて眠っていることである。昨夜冬弥のために奏でてくれた子守唄、……心拍すらも優しく撫でて寝かし付けるような魔性の音色ではあったが、まさか唄った本人のことまでをも眠らせてしまうものほどのものだったとは……。
どうしよう、起こしてあげたほうがいいんだろうか。
「えっと……、あの、芋窪さん……?」
冬弥がそう、遠慮がちに向けた声を、遥かにでかい声で、
「あーッ、夜這いだ! 楓果がリーに夜這いをかけている!」
と叫ぶ声が響いた。
「ウワーこのじだらくもん幾ら何でもそれは幾ら何でもがじゃ!」
白子さんと吊掛さんが起きてきたのだ。ピンク色のパジャマの白子さん、タンクトップにショートパンツの吊掛さん、二人の薄着にどぎまぎする余裕もない。「ふごっ」みたいな声を発して飛び起きた芋窪さんは、美しい顔にくっきりと畳の目地の跡を記していた。
「んなっ、そ、そのようなはしたないことを、この妾がするものかぁ!」
もっと言えば、よだれの跡がついている。
「寝ている男の蚊帳に忍び込むのは『夜這い』以外のなにものでもないや。夜這いだと思う人、多数決、挙手!」
「はいっ」
「はい! 有効投票数二で楓果がリーに夜這いをしていたことにしまーす!」
「ちちち違うっ、断じてっ、妾は断じてそのような真似はせぬ!」
朝っぱらからおもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎに、つむぎちゃんも小豆洗さんも起きてきてしまった。
「朝っぱらからうるさいなぁ……」
「小学生かお前らは」
つむぎちゃんは淡いピンク色のネグリジェで、金色の髪と相俟って、絵本の中から出てきたお姫さまのよう、そして小豆洗さんは黒いTシャツ。どこかのバンドのプロデュースしたものであるようだ。
冬弥の世界にはこれまで存在しなかった色彩と音声が、夢から醒めてもまだ目の前にある。ほっぺたをつねっても、それは消えない。
これまでに一度も体験したことのない夏の、新しい朝が来た。




