熊と狐と人のバスタブ
とっても美味しい夕ごはんをごちそうさまでした、おいとまします、……と言いつつ腰を上げたのだが、
「え? 帰んの? いまから? リーマジで言ってんの?」
心底からびっくりした、という声を白子さんが上げた。
「今から帰るとなると、大変だよ平入くん」
食後、全員のお茶を注いでくれたつむぎちゃんが、冬弥の隣にちょこんと座って見上げる。
「この家には君の眠るための部屋があり、布団もある。さっきお風呂を点けたところだ、もうちょっとしたら沸く。せっかく準備したのだから、泊まって行きなさい」
冬弥は慌てた。
「でも、でもですね、あの、……若い女性ばっかりの中で、僕みたいなのが泊まったらまずいですよやっぱり」
「やっぱり『よいこ』がじゃ。わしらを『若い女性』言ゆが、はぁ、ありがたいこっちのう」
笑った吊掛さん、冗談めかして冬弥に手を合わせる。
「平入くんは、礼儀の正しい子じゃなぁ……」
芋窪さんは斜向かいで少し首を傾げて、……そうすることでまっすぐ垂れる銀色の髪に、外から吹き込んだ風が絡みついた。
「遠慮することはない。この邸におるのは妾たちだけじゃ。そして、……ふふ、エツコも笑うたが、妾も笑いそうになった。確かになりは『若い』かもしれぬが、妾たちみな、つむぎも含めて、そなたからすれば見上げるようなばあさんぞ」
うっすらそうだろうなと思っていたけれど、はっきり言葉にされてみて、やっぱりちょっと信じがたい。
「妾が来年、五百十七歳になる」
「あたし三百八十六歳」
「わしは忘れた、たぶんエマと同じぐらいがじゃ」
小豆洗さんは答えない。無視したのではなく、テーブルの下で指を折って、時々「あれ……?」とか「違う……」とか小声でぶつぶつ言っているから、ご自身の年齢を計算しているのだろう。
「私は今年で八十二歳になる」
これは、つむぎちゃん。最もリアルな年齢で、それだけに、一番信じがたい。どう考えても十歳ぐらいなのに。
「というわけじゃ。ここは言うなれば、妖怪ばばあの老人ホームのようなものじゃな。いつもはばあさん同士で茶を飲んで飯を食うて、しんみりとしておるものよ。しかしのう、今宵は平入くんがおる。若い男子が来るなど滅多にあることではない……」
「なんかねーみんな怖がるんだよねあたしらのこと」
「スケバンが怖がらなんと思うがじゃ」
「いやそうなんだけどさ、ギャルになってからもなんかこう……、ね、リーもあれだよね遠くからじーって見てるだけだったよね」
だってギャル怖いですもん。
とは言えないけれど、彼女たちは彼女たちなりに、別に怖がられたくてギャルをやっているつもりではないらしいことは窺えた。
夕食前、夕食中、白子さんにいじられ、冬弥の返した言葉に、吊掛さんがツッコんだりツボに入って悶えたり、そこへ「あまり平入くんをいじるでない」と芋窪さんが嗜め、つむぎちゃんが「そうだぞ、いじって面白いところをいじれ。ここにいじられるところだらけの女がいるだろう」と芋窪さんを指してまぜっ返す、……小豆洗さんは黙々と箸を動かしながらも、喜怒哀楽の表情が浮かんでしまいそうなたびに顔を背けるということを繰り返していた。
妖怪ばばあ、なんて乱暴な言葉を芋窪さんは使った、妖怪、あるいは霊的なものなのだろう。それは冬弥のように直接言葉で教えてもらわずとも、島や村上、そして父だって知っていたはずである。知っていたけれど、特に違和感も持たずにいた。
つまりこれが、そうか、妖怪の力なのかなぁ、なんて想像を巡らせて、冬弥は「なるほどぉ」と思うばかり。
「平入くんがこれから家に帰るとなると、妾たちが付いていかねばならぬ。……ここは、妾たちの領域ゆえな」
あ、そうか、と冬弥は合点が行った。
「あの、危なっかしい橋のあたりが……」
「あれは単なる勝手橋じゃ」
「谷戸に入ってすぐの辺りで暗くなっただろう。あの辺りが境界線だよ。呼んでいない人間が入って来ないようにしているんだ」
つむぎちゃんが解説してくれる。
「そうでないと、どんどこ来てしゅうが」
「リーには、結界って言えば判るっしょ」
判る。ただ、原理は判らない。たぶん判らなくても困らないのだろう。
「本来ならば、人間は招かぬ。しかるに、……平入くんはその、妾の見せとうないところをもうたんと見てしもうたし……」
目撃して、嫌な気持ちになるようなものではなかった。むしろ、芋窪さんが機械にテンパっているところを見ると、なんだか癒されたり和んだりしてしまう人のほうが多そうである。芋窪さん自身はたまったもんではないのだろうけど。
「なんか……、すいません、畏れ多いっていうか、周りの反応が怖い気がします」
冬弥の言葉の通りが悪かったか、芋窪さんたちが顔を見合わせた。
「芋窪さんたちのこと、みんなすごい憧れてますよ、僕の父なんかも。伝説として語り継いじゃうぐらいには、人気者だと思います。だけどその、昔はスケバンをなさってて、いまはギャルをなさって……」
「くひっ……」
白子さんと吊掛さんはいちいち冬弥の言葉に受けてくれる。
「ギャルをぉ……、スケバンっ、……なさってるぅ……、ひっ、ひっひっ……、リーなんなの可愛い……」
「わ、わ、笑ゆったぁいけんが……、平入くんは、『よいこ』がぁ……」
「ふっざけんなエツコ……、ヒー……!」
好意的な反応であるということが素直に信じられるので、まあいいのだけど。
「俺たちが人気者なわけがないだろ」
小豆洗さんはぶすっとした顔で言う。こうして見ると、小豆洗さんは童顔だなと思う、同学年、高校一年生として浅川学園に籍を置いているが、中学生ぐらいにも見える。
「いえ、普通に人気者です。小豆洗さんも」
彼女は一瞬言葉と逸れて、それからぎーっと悔しそうに顔を歪めてぷいっと横を向く。それはしっかりとした自我を備え、素直になれない女の子の感じである。
「みなさん、人気者です。つむぎちゃんも学校行ったらすごい人気出ると思います」
「おやおや、こんな童女の姿で? もうちょっと育ってからのほうが美味かろうに」
つむぎちゃんは肩を竦めて危なっかしいことを口にした。しかるに、それがとても彼女らしい。確かに童女の姿ではあるが、おいそれと手を出そうものならば……。
「なので、畏れ多いっていうのは、そういう意味です。僕なんかがご一緒させていただいて……、って思っちゃうんです」
吊掛さんが、ふっふ……、と含み笑いをして手を伸ばした。冬弥の頭の上を、手のひらがふわふわ舞っている感じである。
「ばあさんたちが集まりゅうに、こんがなひ若ぁのかおゆうは、贅沢なことがじゃ。なぁエマ」
「あー」
白子さんが目尻の涙を指で拭ってひょこっと立ち上がり、冬弥の背後に回った。どうも、同じように冬弥の輪郭から数センチのところで手のひらが舞っている気配だ。
「そうねぇ、そうだねぇ。あたしら人気あるって……? まじで? ひひ、嬉しいこと言ってくれるじゃん、リー、あんたも可愛いよ、あんたもみんなも可愛い。あたしらからしたら、目に入れたって痛くないぐらい……。スイもそうだよねぇ」
「俺は何も」
「強がりを申すな」
芋窪さんが正面から身を乗り出す。細い腕が、指が、冬弥の頬をなぞる、……いや、二センチほど離れたところにある。実際には触れられていないのに、何とも言えぬ甘ったるさを感じて、冬弥は頬の熱くなる感覚に囚われた。
「のう……。妾は、つむぎのせいで、かかずともよい恥をかかされはしたが……、今宵は平入くんのおかげで久方ぶりに大いに笑うた。妾たちは、……つむぎを除けば人ではない」
「私もとうに人ではないさ」
「む……、まあ、それはそうじゃな。まあ、とうに時の流れからは出外れた身よ。なればこそ、こうしたささやかな喜びは、平入くんが思い描くよりも何倍も輝くように思われるし、それがもう少しでもあれば……、とも考えるのじゃ」
人ではない、すとんと気持ちよく冬弥は理解する。本人の口から聴かされるのが一番気持ちがいい。
「明快に言ってあげようか、平入くん。いまが賑やかで楽しくて、君に帰られると寂しくなってしまうから、今夜は泊まっていっておくれと言っているんだ。心配しないで、私たちは君の入浴を覗くような真似はしないから」
「して面白いと思うのならば、別にそこはご随意にどうぞなんですけど……」
「お、マジかリーじゃーあたしと一緒に入るか」
「恥知らずがじゃ」
迷惑になるのではないかという気兼ねはしなくていいらしい。むしろ、望まれてあるのならば、……素敵な時間を過ごさせてもらったのは冬弥も同じである。セルフレジの使いかたを教えただけにしては、大きなものを受け取りすぎている。
この感情はなんだろう……。
彼女たちがギャルであり、怖がられてはいるのだけれと、同時に憧憬の対象であるという事実を、冬弥なりに考察してみる……。
中身がおばあちゃんなのだとして、……いや、「おばあちゃん」の域をとうに超えた霊的高齢者の皆さんであるとして、よくよく考えると彼女たちはそういう個性を纏っているのではないかという気が、冬弥はしている。
小豆洗さんみたいな、ちょっとへそまがりで、あんまり笑わない、でも本当は素直になれないだけのおばあちゃんっているだろう。
とっても柔軟で、若者文化を自身のファッションに存分に取り入れているのが芋窪さんと白子さん。芋窪さんには年長者としての威厳があり、だけれど相応にちょっと抜けたところもあって、そこがなんとも愛らしい。
一方で白子さんは言葉遣い含めて若者そのもののように見えて冬弥の一個一個に本当に楽しそうに笑ってくれる。それというのは、孫(どころの騒ぎではないが)の言動の一つひとつを愛しんでくれる柔らかな感受性そのものではあるまいか。
吊掛さん、東京の言葉に慣れてしまった冬弥には分かり難い言葉遣いであるが、いまさらそれを直すこともなく、でも豊富な人生経験に裏打ちされた真心、温もり、包容力は、まぎれもなく……。
この中で一番年齢が「リアルおばあちゃん」であるのがつむぎちゃんだが、幼女の見た目でありながら品があり、風格があり、そして知的である。
おばあちゃんを嫌いな人なんていないはずだ。
おばあちゃんには、いつでも幸せでいて欲しい。いつまでも元気でいて欲しい。誰もが、どうか、どうかと切なく願っている。
きっとみんなの心には大切なおばあちゃんがいて、何か辛いことがあったとき、そのおばあちゃんを思い出して、甘えるように泣く時間が、人間には必要なのかもしれない。
「じゃあ……、あの、よろしくお願いします、お邪魔します」
と頭を下げるしかないではないか。
そう、冬弥は考えたのだが、どうも、謝罪の土下座みたいに見えてしまったようだ。考えてみると冬弥がそういう形のお辞儀をするのは生まれて初めてのことだった。
また白子さんが破裂するように笑い転げる。しみじみとした声で、
「平入くんは、ほんにえーぇ子がじゃ……」
なんて言うから、小豆洗さんまで噴き出した。
普段、家の浴槽に湯を溜めるということはしない。
理由は三つある。一、水道代ガス代がもったいない。二、時間がもったいない。三、わびしい。
家にいるときは一貫して一人であって、他のあらゆる時間、……食事をしているときも、寝ているときも、それこそ用を足しているときだって咳をしているときだって、「わびしい……」と思うことはないのだけれど、どういうわけか、風呂に浸かっているとき、普段は全く意識していない漠とした空虚さに突如として襲い掛かられて、それがとても堪え難いのである。
だから、いつもシャワーで済ませてしまう。
こんなふうに、……ぼけーっと口を開けて長々浸かることなんてない。ひとんちのお風呂で長湯なんてしてはいけないが、あんまり烏の行水で出ていくと却って居心地悪かったみたいに受け取られかねない気もして、結果的に出るタイミングを逸してしまった冬弥である。
芋窪さんのおうちのお風呂は、とても広くて、洗い場と浴槽合わせて十畳ほどはある。一般家庭のお風呂の域を逸脱したもの、まるで旅館である。
源泉掛け流しというやつであろうか……、吐水口からはずっと清澄な湯が注がれ、こころみにそれを舐めてみると少ししょっぱい。ほんのりとしたとろみがあるような気もする、浸かって間もなく、冬弥の変哲のない肌もすべすべになり始めた。独りで浸からせてもらうにしては贅沢すぎだと思った、ちょうどそのとき。
「リー、湯加減はどうだ」
からからと引き戸が開いて、白子さんの声が飛び込んできた。いや、飛び込んできたのは声だけではないし、白子さんでもなかったし、しかしそこにいるのが白子さんと吊掛さんであるかどうかも、冬弥には判然としなかったのだ。
「わ……、わあ! わあびっくりした!」
という言葉を発しはしたけれど、そんな程度の言葉で自分の驚きを表現したつもりになるのは、少々呑気に見られるような事態。心臓が止まりそうになった。
熊がいた。
体長二メートル近くの巨躯、身体の幅なんて冬弥の倍以上ある。首に月輪の紋様がある、ヒグマでなくてよかった、いや、よいはずがない、熊とマンツーは無理である。
のみならず、熊の足元には犬、……いや、犬ではない、狐である。黄金色から白へとグラデーションのかかった毛皮は文字通りキツネ色、なんとも優雅なふさふさ尻尾。
その狐が、
「あっはははめっちゃビビってんの」
白子さんの声で喋った。
その声に呼応するように、隣の熊が溜め息を吐く。
「性格の悪がしかやつ。お前だけならいざ知らず、わしでビビらん人の子がおろがっか」
ちょっとばかり前屈みになって、狐の襟首をむんずと掴んで持ち上げる。
熊の巨大な口から発されるのは、吊掛さんの声だった。
「わー顔を寄せるな顔をっ、怖い! 食われる!」
吊掛さんの声の熊が、ジタバタする狐をぽいと冬弥に向けて放る。宙をくるくる舞った末に冬弥の両腕へ、狐は上手に収まった。
「……あの……、えっ、……白子さん……?」
「やべー、リーに抱っこされちゃった!」
はしゃいだ声を上げる彼女を、そっと湯船の外へ降ろす。狐の姿をしてはいるけれど、声は、言葉は、完全に白子さんである。
であるならば、のっしのっしと歩いて湯船の傍らによっこらせと腰を下ろしたのが吊掛さん。
さっき、人ではない、と言っていた。
「改めまして、がじゃ。……生まれは赤州が津森山、天保年間に江戸へ来たツキノワグマじゃ。吊掛は好きなもんから取った姓、エツコは、もともとエツという名前がじゃ、コぉ付いたほうが女子らしゆ聴こゆなが」
天保年間、……天保って、江戸時代の年号であるはずだ。
「あたしはねぇ、岩代国大洞の、ちょっとした稲荷のお狐さまやってたけど飽きちゃってさ。江戸来て遊んでたら、エツコと知り合った。そんで、最近、えーと八十一年前か、楓果たちと一緒に暮らすようになった感じ」
最近、の括りが大雑把すぎる。歳を重ねると細かなことに頓着しなくなるということだろうか。
だから男である冬弥が浸かっているお風呂に動物の姿で入って来てしまうのだ。冬弥は今更のように股間を隠して湯の中に顎まで浸かった。
「あの……、はい、わかりました、わざわざありがとうございます」
「すまんが。こいつが『リーがいいって言った!』と聴かやんが、一人で入らしがら、何しゆがか。わしがおりゆが悪がしゅうことがはさせんじゃ」
吊掛さんの言葉は、出身地を言われてみれば確かに赤州弁なのだった。難解でありながら、他地方の人間も長期出張などで数週間赤州で暮らすとすっかりイントネーションが染まってしまうと評判の。
そして、白子さんは、稲荷のお狐さま。
「このフッサフサの尻尾が、人間たちには稲穂に見えたわけ。稲穂って、リー判るよね、お米のね。でもってあたしら狐は狸と違ってあんま人里のほうには降りない。たまーに姿を見られるぐらい。そういう生きものが、このしっぽをふわっと見せて山に帰ってくもんだから、人間たちには神秘的に見えただろうね」
一番「当世ギャル」を理解している雰囲気の白子さんが、そんな神秘的な存在であったとは思わなかった。
「どんな生きものも、情念が籠るとどうしてもね、長生きしちゃうものなんよね」
「……じゃあ、芋窪さんも、小豆洗さんも……?」
不意に、熊が吊掛さんになった。「あっ」という声を上げる間もなくて、冬弥に出来たのは弾き飛ばされるようにもんどりうって湯の中に頭まで収めることぐらいだった。もちろん頭は、浸かる前に洗っている。
熊の時点で服を着ていなかった、当然のように、人の姿になった吊掛さんはすっぽんぽんなのである。
「そがい驚かなしが」
「いやいやいやちょっと待って待って待ってください!」
ぎゅーと目を閉じた上で左腕で覆って、「見てませんからね見ませんから大丈夫です」などと声を上げる。ケラケラ笑う白子さんも、どうやら人間の姿になってしまった様子である。
「いいよぉ、リー、あたしのことさっきみたいに抱っこしてみるかぁ?」
「む、り、で、すっ」
「すっげー耳真っ赤! 鼻血噴くんじゃねーのかこいつあはははは」
当人たちの自覚は、どうやら「おばあちゃん」なのだ。確かに心の形はおばあちゃんである、しかるに、身体はどうしたって同級生なのだ。吊掛さんの、冬弥より長身で大きな身体、……つまり、いろいろなところがとても大きくて、肉感的で……。
「許しゆな、人の形でなかが、身体洗うゆがに」
「こーんなのの何にそんな照れるかねぇ」
冬弥は膝を抱えて湯の中でじりじりとしているばかり。それにしたって、あんまり長い時間そうやっていられるわけではなくて、最終的に冬弥はのぼせてしまうこととなり、白子さんと、彼女を制止しきれなかった吊掛さんは芋窪さんに叱られることとなった。
これもまた、きっと、谷戸の奥に住まう老婆たちにとって、賑やかでのどかな記憶になるのだろうか?
全員がお風呂から上がったあと、浴衣姿で髪をまとめた芋窪さんがよく冷えた桃を剥いてくれた。冬弥が桃を食べるのは、六年ぶりのことである。だって、桃の形も香りも、みずみずしい甘さも、一人暮らしには似合わない。




