橋を渡る
まだ空がほんのりとした光を滲ませ、一日が無限に続くのではないかと錯覚しそうになる、午後七時過ぎ。
スーパーの入り口横のベンチに腰を下ろし、イヤフォンを耳に差して一休みしていた冬弥の視界に、おだやかに微笑む少女の姿が入った。慌ててイヤフォンを外した耳に、涼やかな声が届いた。
「やあ、お疲れさま平入くん」
つむぎちゃんである。
そして、芋窪さんである。制服ではなくなっていた。黄色のキャミソールにデニムのショートパンツを合わせて、それだけでは少々無防備すぎるところ、白の半袖シャツを羽織っている。同級生女子の私服姿を見て、冬弥は胸の奥にハイビスカスの花が咲いた。
ただ、彼女はいまシャツの肩を肘まで滑らせてしまっている。
「は、離せぇ、離さぬかぁ……!」
芋窪さんはつむぎちゃんにショートパンツのベルトをぎゅっと握られながらもじたばたとその場から逃げようとしている、そのせいでシャツが落ちてしまったのだ。
冬弥の脳裏に、さっきセルフレジでの芋窪さんの周章狼狽ぶりがありありと蘇った。
……そしたら、一個ずつ商品をスキャンしていってください。この赤い光にバーコードを当てて。
ヒッ……、ギャ……。
なんでいちいち叫ぶんですか。
楓果の中ではこの赤い光に当たると死ぬみたいなルールになっているんだ。タッチパネルも触ると魂を吸われると信じ込んでいる。
ええいうるさいつむぎは黙っておれ……、ピャッ……。
「ほら、きちんとお礼を言わなければダメだ」
つむぎちゃんにそう言われて、逃走を諦めた芋窪さん、ガックリと肩を落とし、そこへシャツを直す。学校のシャツでは気付かなかったが、芋窪さんの日向/日陰の境界線が上腕に見える。
芋窪さんは、左手に持っていたビニール袋を、おずおずと冬弥に差し出した。袋の中身は、幼いこどもが思い赴くままにクレヨンで描いたみたいに真っ赤なトマトと、冬弥の手首よりも太いナス。
「その、かたじけない……。碌に礼も言わず……」
芋窪さん、お会計済ますなり「えーん!」と、泣きながら走り去ってしまったのである。
「これらは、ウチの畑で採れたものゆえ、もし、あの、平入くんの迷惑でなければ」
「畑……、じゃあこのお野菜は、芋窪さんが育てて……」
鮮やかな夏色の肌は、農作業によって色付いたものだったのだ。
「自慢じゃないが、ウチの野菜は美味しいよ。この時間だから、親御さんもきっともう何か作ってしまっているだろうけど、明日の晩ごはんにでもなればこちらとしても嬉しいよ」
つむぎちゃんが誇らしげに言う。母と娘であるという言葉にもう疑いを挟むつもりもないが、「娘さん」のほうが「お母さん」よりもだいぶ堂々として見えた。
「ありがとうございます、とても助かります。晩ごはん何にしようかなって思ってたところだったので」
芋窪さんとつむぎちゃんに下げた頭を上げたとき、二人は顔を見合わせていた。
「自分で作る? 平入くんは」
「つむぎ」
娘の問い掛けを、お母さんのほうが慌てて止める。
「いえ、あの、全然。うちいま父親が入院してて、あと、母親は小五のときに出て行っちゃってていないので、僕一人なんですけど。でも、そんな大したことでは全然ないので、なので……」
冬弥は別に、不幸せだと思っていない。
確かに父には健康を取り戻してもらいたいなと思うけれど、経済面での負担とはなっていない。そもそもアルバイトの動機にしたって既記の通りである。冬弥自身も健康に不安を抱えて生きる身であるが、恨むところから始めたって仕方がない。
だから、そんなに気にしなくたっていい話。
「あの、……あの、芋窪さん、つむぎちゃん……、ちょっと」
右手を芋窪さん、左手をつむぎちゃんに握られて、冬弥は左右の肺をきゅっと掴まれたみたいな気になった。二人とも冬弥よりひんやりした手、細い指……、なんたる畏れ多さ! 心臓がまろびそうになる。
「いいから、ついて来なさい」
「悪いようにはせぬ!」
導かれるまま、店のすぐそばを流れ、市名の由来にもなっている「浅川」を渡って、さらにその先では支流を渡った。その橋はいい加減極まりない造りで、鉄パイプに板を渡しただけのもの。住民が勝手に架けたいわゆる「勝手橋」だろう。夜を掻き分けて歩いて、……どれぐらい経っただろうか。
「……すまぬ……、長いこと歩かせてしもうたな。疲れておるじゃろうに……」
芋窪さんにずっと握られていた手が解かれたとき、ちょっと残念な気持ちになった冬弥である。確かに結構な距離を歩いたが、芋窪さんに手を握ってもらえるなら一時間でも短く感じてしまうんではないか。
つむぎちゃんはまだ手を離さない。こんな小さな女の子と手を繋ぐことも初めてだ。つむぎちゃんは冬弥を見上げて、じーっと見詰めて、
「なんだか、兄が出来たようで嬉しいな」
と笑った。
「たわけたことを申すな。平入くんの迷惑を考えよ」
「楓果は男の手を握ったことがないから羨ましいんだろう」
「てっ、手を握ったことぐらいならあるわい!」
冬弥も女子に手を握られたことはあると胸を張る。小学校二年生のときの遠足で、五年生のおねえさんに握ってもらったのである。
「もう少しだよ、足元に気を付けて」
右手をまだつむぎちゃんに握られている。空の左手では、ずっとカエルが大合唱。地表は真っ暗、だけど視線を上げると夜空は明るくて、月なんて眩しいほど。水と木々と湿った土や石のにおいが鼻に届く。暗闇特有の浮遊感、夢の中にいるみたいな薄らとした興奮。
それらに一区切り付いたのは、前を行き、ずっと暗闇に溶けていた芋窪さんが、振り返り、その顔を髪を姿を、冬弥がはっきり視認できたときだ。
家がある。いや、「家」なんて端的な言いかたをしてはいけない。立派なお屋敷だ。黒い木塀と門扉を設け、その向こうに二階建ての、重厚な日本家屋、暗色の瓦が月の光を浴びて波を光の描いている。なるほどあれが「いらかの波」というやつか。
芋窪さんが言った。
「……あれほどの恩を受けておきながら、畑で採れた野菜だけで済ませてしまおうとしたことを、今では恥じておる。受けた恩には、それ以上のものを返さねばならぬ……」
「翻訳が必要かな、平入くん。楓果は、『うちでごはんを食べて行きなさい』と言っている」
「ごはん……、えっ」
「素材のよさは君も見た通りだし、楓果の料理の腕に
ついては私が保証するとも。楓果はポンコツだけど料理の腕は折り紙付きだ」
「誰がポンコツじゃあ!」
僕は、芋窪さんの作ったごはんを食べました、なんてことをうっかり学校で言おうものなら……、島から、村上から、そしてその他たくさんの男子たちから、いやひょっとしたら女子たちからも、相当な量の怨嗟を向けられることになるのではないか。
第一印象は「畏れ多い」であった。
すっ、はぁ、と気を落ち着けるように短い呼吸を芋窪さんは挟んだ。
「食事というもの……、とりわけ、夕餉というものを、独りで食べてはならぬ」
暗いけれど、芋窪さんの顔はよく見えた。とても真剣な顔をしている。形はずっとギャルなのだけど、今日、いろいろな表情を芋窪さんは冬弥に見せてくれて、そのどれもが、とても美しい。
「孤食という言葉もある。また、平入くんはまだ小学生の時分に、あの恐ろしい流行病のせいで黙食という言葉も出来たのう。確かに、必要以上にべちゃべちゃとがなり喋る必要はない、ないが、誰かと共に、同じ味のものを食べるということには、いつの世にも変え難い価値があると妾は考えておる」
そもそも芋窪さんが美人であるということも手伝っているけれど、それ以上に、形作る表情にとても気が行き届いているからであろうと冬弥は推測する。つむぎちゃんの声の出しかたが大人のそれであったように、芋窪さんも(ところどころ感情がはみ出してしまう傾向はあるようだが)大人なのだ。そうだよな長いことギャルやってるんだもんな……、向き合ってみて納得である。
「ゆえに、……ゆえにじゃ。今日、つむぎに、そして妾に、とても親切にしてくれた平入くんが、毎日独りで食事を摂っていると聴けば、妾としても放っておくことは出来ぬ。……どのみち、作らねばならぬ、そこで平入くんが一緒に食べていてくれれば、妾としても安心しようというもの……。付き合うてはくれぬか」
芋窪さんは真剣な目ではある、そして硬質な声でもある、けれど、最後にはその目に、少しばかりの哀しみが加わった。メイクをばっちりしている人だけれど、自睫毛がある程度長くなければそこまで目元が映えることにはならないはずで、まっすぐ見つめられていると、心にチクチク刺さるみたいだ。
冬弥に、断る勇気などあるはずもなかった。
門扉を潜り、飛び石を渡り、引き戸へと導かれる。冬弥は強い緊張を催していた。きっと、この家には芋窪さんのお父さんお母さん、すなわちつむぎちゃんのおじいちゃんおばあちゃんに当たる人たちがいるのだろうと思ったから。芋窪さん母娘に引っ張られるまま来てしまったけれど、こんな時間に、どこの馬の骨かも判らないような男が「ごはんをご馳走になります」なんて言ったら怒られてしまうのではないか。
だが、三和土にあるのはスニーカーが三足だけ。男物の靴はなかった。傘立ても、はっきり女性ものと判る傘が二本あるだけだ。
古くて薄暗い廊下、芋窪さんの足が踏んでも軋まないのに、冬弥が踏むとぎいぎい鳴るのは、この邸に異物として取り扱われているだろうか。
「すぐには出来ぬ。他の連中と待っておれ」
「ほかの……?」
「つむぎは妾の手伝いじゃ。よいな」
「心得ているさ、いつもの通りだ」
廊下の奥、左手から灯りが漏れ、大きいものではないが、人の話し声が聴こえて来る。それは冬弥に耳馴染みのあるもの、日常生活の中で自然と耳に入って来る声。
激しい訛りと、尖った笑い。




