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ライフリッカーズラッフィング/Life Lickers’ Laughing  作者: 村岸健太
ニュービギニング・ニューモーニング
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2/27

ひみつの芋窪さん

 通知表を見るときには淡白な表情だった父なのに、芋窪さんの話となるとこけた頬を綻ばせた。

「そう、表彰をね。……相変わらずすごいな、芋窪さんは」

 北西を向いた三階にある病室の外を、秩父まで繋がる山並みが夏の濃い緑が満たしている。もちろんぴったりと閉め切られたいる窓の向こうから、蝉の合唱は聴こえてこない。代わりに室内の、斜向かいのベッドを閉じたカーテンの向こうからしわぶく音が聞こえてくる。五人が暮らしているこの部屋にあって、冬弥の父が一番若い。

「でも、ギャルだからね。怖いよ」

「確かに。私も結局、ほとんど話しかけられずじまいだった」

 病院内は一定の温度が保たれている。冬弥は昨日、日焼け止めを塗り忘れて外に出てしまったせいで、鼻の頭がヒリヒリしているが、父はあちこちから届く見舞いの果物籠の中身で季節を知るのかも知れない。みかんはいちごになり、今は熟しつつある桃が床頭台から芳香を漂わせている。

「まあ、……二学期には、胸張って芋窪さんに話しかけられるぐらいになったらいいんじゃないかな。音楽もいいけど」

 父の細い手から通知表を受け取りながら、冬弥は肩を竦めて見せた。オーバーテーブルの上にはノートパソコンが開かれ、その傍らには大小三冊の本が重ねられている。この病人は、今日も仕事をしているのだ。

「じゃあ、今日はもう行くね。二時からバイトなんだ」

「ああ、今日で三日目だっけ? ……初めての労働はどうだい」

「悪くないよ。まだ全然、何かさせてもらえるわけじゃないけど、生きてるっていう実感がある」

「そりゃあ悪くない。……桃、持っていく?」

 冬弥は首を振った。

「せっかくもらったんだから、父さんが食べなよ。……じゃあ、またね」

 冬弥が人生初のアルバイト先に選んだのは、「イシグロ」というスーパーマーケットである。病院からは徒歩圏内、こうして父に会うついでに寄れるので、賢明な選択だったと思っている。

 制服の上下に臙脂色のエプロンをして売り場に出る。仕事はもっぱら棚の商品の補充や清掃であるが、冬弥のモチベーションは低くない。浅川は「東京のアルプス」などと揶揄されることもある土地だが、腐っても東京であって時給は高い。自分がここで生きる一分一秒がお金になる感覚を、冬弥は生真面目に受け止めていた。

 アルバイトの動機は、遊ぶ金欲しさである。

 父はあの通りいまも仕事をしていて、マンションのローンはもう終わっている。母がいればもうちょっと生活リズムも楽ではあろうけれど、文句を言い出せばキリがない。自分の趣味に費やす金が欲しいのでアルバイトをする、というのは、相当に恵まれた高校生であると自認していた。

 お客さんが通りがかかるたび、「いらっしゃいませ!」と挨拶をしつつ、ジャムの棚を完璧に整列させた冬弥が、菓子の棚に歩を進めたところだった。菓子の棚はこどもが多いこともある、そういうときは後回しにしていいからね、と教わっている。

 今日は、女の子が一人いるだけだ。

 小学校四年生ぐらいだろうか? 空色のTシャツに、紺色のスパッツ、裸足にサンダル。

 一瞬たじろいだのは、その女の子の長い髪が見事なまでの金色であったからだ。日焼けした頬、そう高くはない鼻、こどもらしさの中に、なぜかしら知的さを強く感じる横顔のシルエットとその髪色は、二オクターブほど離してCの音を鳴らしたときのような、全く問題のない響きであるはずなのに、不安定な気がするような、……落ち着かないというほどではない、けれどぼうっとしていてはいけない気持ちになった。

 見詰めてしまったからだろうか。彼女の顔がこっちに向いた。いらっしゃいませ、という言葉が喉にひっかかって出てこなかった、……いまどき幼女をあんまりじろじろと見てはいけないのである。焦りを覚えた冬弥に、彼女は愛想のいい微笑みを向けて、

「こんにちは」

 と言った。

 冬弥は、その声にもまたずいぶんとびっくりする。

 こどもそのものの声でありながら、大人のような声の発しかただったから。

 抑制の効いたヴォリュームと、自然でかつ明瞭な発音。言葉とは人に意思を伝えるためのツールであるという前提を、既に踏まえていなければそんなふうには言えないはずだ。

 圧倒された冬弥に、金髪の少女は、すっ……、と左手を美しい所作で持ち上げて、人差し指の先で棚の上から二段目を示した。

「申し訳ないのだけど、あれを取ってくれないかな。ホウシーズのチョコレートクッキー」

 一箱五百円近くする、チョコレートクッキーとしては高級な品である。彼女の手に取りやすい下段のほうには、冬弥もこの女の子ぐらいのころには愛してやまなかった油っこくて平面的に甘いチョコ菓子がたくさん並んでいるのだけど、彼女はそうしたものには目もくれず、まるでお金持ちの奥さんが午後のお茶の時間にほんの一枚か二枚楽しむようなものを指名したのだ。

「はっ……、ほう、はい、かしこまりました!」

 思わず大人のお客さんに応じるような言葉遣いで応じてしまった冬弥である。少女は満足そうに頷いて、冬弥の差し出したクッキーの箱を受け取る。

「助かったよ、……平入くんというんだね。どうもありがとう」

 なんて言葉遣いのくせが強い女の子だろう。悠然と去っていく彼女の背中を、しばらくぼんやりと眺めてしまった。

 我に返り、彼女に取ってあげて一つ抜けたホウシーズのチョコクッキーの在庫を手前に引いて、仕事への集中力を取り戻す。菓子の棚から、カップ麺の棚へ。上から下まで、また下から上へ、……集中してやっていたからだろう、ちょっと立ちくらみを覚えた。

 もともとそういう体質である。あの人の子であるという自覚を、冬弥はこういうときに強く感じる。

 しゃがみこんで耐えること、十秒ほど。

 弱い独楽のようにぐらぐらする世界が、固定的な秩序を取り戻した。

 BGMとしてほとんど聴き流していたポップスのインストゥルメンタルが不意に途切れたのはそのときだった。レジで急な応援要請があったとき、あるいは、雨が降り出したときなど、隠語を用いた店内放送が掛かることになっている。

 もちろん、

「迷子のお呼び出しを申し上げます」

 というケースもある。さっきの金髪の子だろうか? しかし、もう冬弥の周りにはいない。ならば、気にせず作業再開……、

「小津塚(こつづか)からお越しの、いもくぼ・ふうかちゃん、いもくぼ・ふうかちゃん、お連れさまがお待ちです」

 陳列乱れを直すために手に持っていたたぬきそばときつねうどんを、危うく床に転がしてしまいそうになった冬弥だった。

「お連れさまがお待ちです。レジ横、サービスカウンターまでいらしてください。小津塚からお越しの、いもくぼ・ふうかちゃん、お連れさまがお待ちです……」

 アクロバティックな動きで商品の落下を防いだ冬弥を、たまたま通りがかった親子連れが見て、拍手を送る。真っ赤になって「いらっしゃいませ、あの、すみません」などとぺこぺこ頭を下げて棚に商品を戻しつつも、頭の中はちっとも冷静ではない。

 芋窪という苗字はそんなに多くないだろう。平入と同じぐらいの世帯数だろうと想像する。そこに「ふうか」という音の名前がつくとしたら。

 芋窪さんが迷子。

 冬弥はたぬきそばときつねうどんを元の通り棚に戻しつつ、そんなはずがないな、と思い直した。

 だって芋窪さんは、美しい容姿に類まれな知能、そして素晴らしい運動能力を有した人なのだ。少なからずの夢を、冬弥は、そして島や村上や他のクラスメートたちも、芋窪さんに持っている。何十年もずっとクラスのアイドル、つまづいて転ぶなんてことはしないし、転ぶことがあっても尻餅とか、無様にずでーんと行くとかそういうことはしないでいただきたい。

 だから、だから、どうか、

「馬鹿者……、馬っ鹿者ぉ……、どっこの世界に自分で勝手に迷子になっておいて、保護者のことを迷子扱いして呼び出す者がおるのかぁ……!」

 ものすごく独特な言葉遣いでぶつぶつ言いながら歩くのはやめて欲しいものだと冬弥は願わずにはいられなかった。

 いや、百歩譲ってそういう言葉遣いをする癖があるのなら、それは出来れば、周りに人のいないところでやっていただきたい、なんて。

 銀髪に小麦色の肌、パワーの強いメイク、紛れもなくギャルの容姿の女性が、カゴを載せたショッピングカートを転がしながらこっちに向かって歩いてくる。あれが、芋窪さんでなければいいのに、他人の空似であればいいのに。

 学校では見たことないぐらいに顔を顰めているが、しかし、どこからどう見ても芋窪さんだ。

 女性の隣には、さっきの金髪の女の子。

 芋窪さんの妹さんだから、芋窪さんのようにとっても優秀、だからあんな言葉の発しかたをする、……そして、姿に関してはやっぱりギャル……。

「だいたい、そんなもんどこから持って来たのじゃ」

 芋窪さん、どこの出身なんだろう。傍を歩く金髪の女児、どうやらお姉ちゃんとはぐれて、再会するためにお姉ちゃんを迷子扱いして店内放送を要請するぐらいには気の太い女の子であるらしい。

「菓子売り場に決まってるだろう。それとも、何か、楓果は刺身売り場でチョコクッキーを売ってるところを見たことがあるのか」

「そういうことを言うておるんではない! なんじゃそれ、五百円とかするやつではないか。そんな高い菓子は買わぬ、さっさと返して参れ!」

 銀色と金色の癖つよ姉妹は、冬弥が作業するスパゲッティ麺の棚にずんずんと近付いて来る。会話に夢中になっているからか、それとも冬弥の存在感が希薄だからか、ここに冬弥がいることに全く気付いていないようだ。

「そうは言ってもな、親切な少年がわざわざ高いところにあるのを私のために取ってくれたんだ。その親切を無碍にしろと言っているのかな楓果は。ほら、山ほど貯まってるポイントがあるのだからあれを使って買えばいい」

「勝手なこと申すでないわ! あのポイントはのう、あのポイントは妾がせっせと貯めた虎の子ぞ。妾が欲しいもんを買うときに使うに決まっておろうが!」

「だったらセルフレジを使え。有人レジより一回につき十パーセントも多く付くんだそうだぞ」

「いやじゃ! あのようなキカイに金の扱いを任せるなど……、考えただけで怖気が走る!」

 冬弥は逃げよう、隠れよう、なんて思ってしまった。

 だって、とても持ち切れそうにない。あの完璧な芋窪さんが、プライヴェートではなんかものすごい言葉遣いをしていること、ギャルなんだけど妹さんの面倒をすごくしっかり見ていること、スーパーのポイントをせっせと貯めていることや、機械が苦手でセルフレジを避けていること……。

 山と積まれた強ギャルの秘密、取り扱いには厳に注意を要する。

 そう思ったのに、

「おや、……楓果、さっきの親切な彼だ」

 妹さん、どうにかして棚と同化しようという冬弥の努力を秒で無碍にしてくれた。冬弥が三秒間の硬直を経て、ぎぎぎと首を軋ませながらそちらへ顔を向ける。ぽかんとした芋窪さん、……学校にいるときと同じ制服姿、上から二つ目までボタンを外していても、だらしないという印象がないのは、背筋がしゃんと伸びているからだろうか……?

「あの……、いらっしゃいませ……、こんにちは、芋窪さん」

 ぎこちない作り笑いを、彼女がどう受け止めたかは判らない。じわり、じわじわ美しい顔に困惑の皺が生じ、それが困惑なんてなまやさしい言葉ではカバーし切れないほどの歪みとなる。

 やがて……、芋窪さんは声にならない声を上げて両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。

「やあ、平入くん、さっきはどうもありがとう。……そうか、君は楓果の同級生だったんだね」

 やっぱり大人びた声の出しかた語りかた、そして表情の形作りかた。芋窪さんの妹さんであるならば、ちょっと尋常ではない女の子であったとして何の不思議もない。そもそも芋窪さんっていったい幾つなんだろう? 何十年も前から浅川学園に通っている芋窪さんの妹さんならば、小学四年生ぐらいに見えたとしたって、実際には自分よりずっと歳上である可能性を排除できない。

「いつも楓果がお世話になっている。先ほどは名乗りもせずに失礼をした、私は芋窪つむぎ」

 見た目小四金髪女子児童は、凛々しささえ感じさせる笑みを浮かべて右手を差し出す。その手に、遠慮がちに手を返した冬弥の耳に、芋窪つむぎちゃんは聞き捨てならないことを言った。

「私は楓果の、……まあ、一応、娘ということにはなるのか」

「むすっ……?」

「楓果から産まれたというわけではないよ。養子のようなものだ。私自身の名誉のために言っておくけどね。……ああそうだ、平入くん、親切ついでにもう一つ頼まれてくれないかな。聴いていたかもしれないが、この楓果ときたら機械音痴でね、セルフレジが使えないんだ。しかし有人レジはいつも混んでいて待たされるだろう? もしよかったら、楓果にセルフレジの使いかたを教えてやってはくれないか」

  芋窪さんはうずくまったまま動かない。いや、よーく耳を澄ませると、店内に流れるポップスのインストゥルメンタルの奥から、「たわけぇえどうしてこう余計なことばかり申すのかぁあ妾の築き上げたイメージ丸潰れではないかぁああ……」という呪詛の声が聴こえて来る。芋窪さんがどうしてそういう言葉遣いをしているのか判らないけれどそれはさておき、教室後方高嶺のギャルであり文武両道を極めクールに振る舞う姿が、彼女の弛(たゆ)まぬ努力によって作られたものであったことは理解出来た。

 それをよりによって自分みたいな日陰者に知られてしまったことにはショックを感じても仕方がない。だってこういう奴ってアクシデンタルに知った秘密をものすごく陰湿な活用する方法を考え付きそうではないか!

 今するべきことは、自分が何者であるかを考えることだ。芋窪さんの同級生である以前に、スーパーの店員、困っているお客さんをお助けするのは当然のことである。

「では……、では、あの、こちらへどうぞ。不肖・平入冬弥、セルフレジのご案内を、精一杯させていただきますので……!」

 つむぎちゃん、芋窪さん、独特な言葉遣いをする姉妹改め母娘と接していたせいか、冬弥の言葉遣いもだいぶおかしなことになってしまった。顔を上げた芋窪さんの頬は、日焼け色でもはっきりわかるほど赤くなっている。

「……ぐ……っふぐっ……、ぐぅ……っ」

 いろんな方向から力を加えられてぐにゃぐにゃになって、パンクした心からそんな音が出ているのだろうか。

 それでも、芋窪さんは立派な人だ。どうやら相当な羞恥心に苛まれ、誇りを傷付けられた気持ちにだってなっているのだろうけれど、

「……では……、では、……かたじけない……、が……、頼む、……のじゃ……」

 独特の言葉遣いでそう言って立ち上がり、肩を大きく上下させた末にぎゅーっと頭を下げる。普通の人はこんなふうには、なかなか出来ないだろう。

 でも、芋窪さんは出来るんだな……、それぐらい芋窪さんって人は、普通じゃないんだな……。

 そんな人に、自分なんかが何かを教えるなんて……、冬弥は芋窪さん母娘をセルフレジにご案内しながら、とても誇り高い仕事をしているような錯覚に陥った。

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