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ライフリッカーズラッフィング/Life Lickers’ Laughing  作者: 村岸健太
ライフリッカーズラッフィング
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26/27

不在の日常

 文化祭が終わって、早くも十日が過ぎている。

 昨日の夕方、この夏幾度目かの夕立があった。

 楓果は夕立が嫌いだった。あの機銃掃射の音を思い出すから。しかし実際の夕立は、あの音よりももっと明るくて、どことなく、旋律的である。あるいは時折の雷鳴はエツコの叩くドラムの、シンバルの音のようだ。強く降り頻る雨はスイが刻み続けるベースの音のようにも聴こえた。風が吹き雨戸に波状の礫が襲いかかる、それはエマの掻き鳴らすギターに似ている。これはある種の音楽だと思えば、楓果は以前ほど、夕立が嫌いではなくなった。

 雨が上がったあとに吹く風が、ずいぶんと軽くなっている。葉先から落ちる雫の煌めきの向こうを、まだ大丈夫だろうかと遠慮がちに、蝉が啼きはじめた。ひぐらしがそれに混じる。それも陽が沈みきるまでの短い時間のこと。ひんやりとした夜には、いつしか秋の虫が羽を擦り合わせて一生懸命に唄う。このぐらいの声ならばいい。

「明日……、学校の終わった後に、病院へ行ってはみぬか」

 夕餉を囲むいつもの面々、いつもの面々に囲まれたいつもの夕餉。

「いいけど」

 これはエマの声。「何のために?」

 彼女は、本当にその理由がわからないでいるようだった。

「知れたこと、見舞いじゃ」

 エマがぽかんと口を開け、

「……何のために?」

 また同じ言葉を口にした。

 楓果としても、少しばかり自信のない提案ではあったのだ。何のために。明確で且つ納得の得られる理由があるわけでもなく、ただなんとなく、あのライブが終わってから十日が経ったいま、自分たちと自分たちの生きる世界が元の通りの形を取り戻すためには、そうするのが本当であるような気がしたのである。

「行ってくりゅうが。な」

 エマに向けて、エツコが言う。

「見舞いがじゃ。わしらは頑丈過ぎゆうが、人間は病院に罹るがじゃ」

 ずっと黙ってやり取りを聴いていたつむぎが、きゅうりの糠漬けを噛むいい音を鳴らした。

「きっとあの子のお父さんも、楓果たちに会いたがっている」

 うん、とエツコが頷き、

「平入くんだって、きっと喜ぶと思うんだ」

 つむぎはその言葉を添えた。

 それは切り札のようなもの

「リーの代わりかぁ……、うーん……まぁ……。えーでもリーのお父さんって、あれだよなえーと,

来宮……」

「啓一郎」

 これはスイの声。

「あれ。あんた喋ったことあんの?」

「本をくれたことがある」

「初耳がじゃ」

 楓果も聴いたことがなかった。全員の視線を集めて居心地悪そうに身じろぎをしたスイは、しばらく黙っていたが、やがて溜め息を吐き「待ってろ」と言い残して席を立つ。戻ってきたときには、ずいぶん古ぼけた、薄い本があった。

「……来宮が所属していたのは、文芸部だ。そこの発行物が東棟の階段のところにあるラックに毎月置かれていたのは、覚えているだろう」

 楓果も何度かは手に取った記憶がある。どれどれ、……ふーむ、人間の子供が書くものとしては、まあまあ見どころがある……、ような気がするのう……、ほーん……。そのとき読んだものが来宮くんのものであったか他の誰かの書いたものであったかは全く定かではない。

「俺は毎月欠かさず読んでいた。ところが来宮が小説を載せるといつもあっという間になくなってしまうんだ。あれはもう二学期も押し迫ったころだったが、あいつが三ヶ月に渡って連載していた小説が最終回を迎えるときに、それを取り逃してしまった」

 ラックの前でしょんぼりしているスイの姿が目に浮かぶようである。彼女は本人が思っているほど、クールに振る舞える女でもないのだ。

 そんな彼女を、来宮くんが見ていた。

 あの、……小豆洗さん、よかったらこれ、どうぞ。

 そっと差し出しされた、試し刷りの一部。

「ふーん……、へー……、あいつこんなこまっしゃくれたの書いてたのかぁ」

「こまっしゃくれたとか言うんじゃない。これは文学だぞ」

 スイは音楽に限らず人間の創作物を鑑賞するのが好きである。おそらくそれは、人間というものに直接触れることにはまだ多少の抵抗があるけれど、その作ったものを入り口に人間に手を届かせようという彼女なりのアプローチの仕方なのだ。

 最終的に彼女は実際に人間というものに触れるに至ったけれど、今後も手を伸ばすことはやめないだろう。

 人間そのものを面白がって積極的に寄っていくエマは、全く違う見方をする。

「そういえば、あれだよな来宮って、読書感想文で表彰されてたんだ。そうそう思い出した、顔初めて見て、『へーガリ勉メガネかと思ってたけど可愛いじゃん』って思ったんだわ朝礼のときに」

「わしは何度かぁ喋ったことあるがじゃ」

 エツコは誇らしげに言う。

「あんころわしぁ、漫画研究会におったが。来宮くんの原作で描きゅうがぞ」

「え」

 スイは完全に虚を衝かれた顔になった。「き、来宮原作の漫画があるのか?」

「わしトーン貼ったの覚えとるがじゃ。一年のときの文化祭で出した同人誌に載っちょう。捨てりょうがせんげ、納戸ひっくり返したら出て来ゆうがなぁ」

 スイが浮かせかけた腰を、さすがにこの時間から納戸を開けるのは非常識だと思い直して沈める。

「うん、なら決まりだね」

 つむぎが小さい手をぽんと叩き合わせる。

「わたしはお留守番をしているから、君らは冬弥(・・)のお父さんのところへお見舞いに行って来るといい」

 さらりと言ったつむぎに、一斉に視線を集める。

「呼び捨てがじゃ」

 つむぎはふふんと笑って、

「構わないだろう。だってあの子は私のことだけちゃん付けで呼ぶんだ。だったら私はあの子のことを『冬弥』と呼ぶ。この、童女の口の舌ったらずな鼻声で、これから先ずっとずっとそう呼ぶつもりだよ」

 既に平入くんのことを「リー」という独自のあだ名で呼ぶエマを除く三人、平入くんあるいは平入と呼ぶエマスイ楓果の胸中に、少しばかりの動揺が走ったことは事実である。つむぎのそういうしたたかなところは、重ねた年齢の多寡によるものではない。

 楽しげに笑う童女の顔に、まだ水島の面影を見出すことは出来ないけれど、彼女がああして笑っていることは、水島にとっても平入くんにとっても、きっと素晴らしい現実なのだと思う。





 翌日、病院。

「持って来すぎじゃーないかね……」

 距離感はそれぞれ違うなりに、三十年前の同級生への見舞いの品を、一応携えて来たわけだ。食べるものにはそれほど制限がないと前に聞いたことがあったので、エツコとスイは果物籠を、楓果は花を携え、

「なんかさぁ、これだとあたしが全然思い入れないみたいじゃんかよ」

 エマは駅で買った洋菓子。

「事実としてそうなんだろ」

「まーそうなんだけど……、なんか、カッコつかないっていうかさ」

「話しゆうがもせん相手からアレコレ貰うが、重荷になりゅうが。そうぐらいでえいが」

「かなぁ……。でもリーのお父さんなわけだよなぁ……」

 三十年前にせよクラスの男子をあれこれと、言葉は悪いが「食い散らかして」いたエマであるが、来宮啓一郎とは一度も話したことがないそうで。まあ、来宮くんの性情的にも、エマのようなタイプの女に親しむところはあまり想像できない。

「でもそれ言ったらリーがなぁ、あたしの、こう、そんな広いもんでもないけど、眼中になかったタイプっていうか」

「お前は視野が広い割に好みが偏っているんだな」

「何百人も付き合うたったら三人ぐらいは平入くんみたいな子ぉいりゅうが」

「うっさいよ。……いるわけないだろあんなやつ、あんな……」

 どこが具体的に特別なのか、ということについては、もう少しエマの見解を聞いてみたい気が、楓果はした。楓果にとっては比較検討できるだけの材料はなく、ただ平入くんはもう、楓果の中にしっかりと棲みついている。

 ひらいり、とうや。

 平入くん、と呼ぶときに自分の声が少しばかり澄ました感じに響くことを知っている。ひ、ら、いり、くん、舌と上の歯の裏が二回、弾き合うように当たるのが高貴な響きで良いとも思う。しかし、「冬弥くん」と読んだら? 読んでみたい、一度ぐらいは……、冬弥くん!

 そうする自分を想像して、ちょっと身悶えしそうになったのだが、その機会は間も無く訪れた。

「えっ……あっ……」

 ノックをして、のんびりとした「どうぞ」という声が返ってきた。スライドドアを開けて「失礼します」と挨拶をした楓果の視線の先、見舞いのアポは通っていたはずだが、実際にやって来たのが想定していない来客だったのか、びっくりした様子の、あまりにも痩せて細い男。コップを持つ手の指も手首も、枯れた枝のようだ。

 ああ、しかし、よく覚えている。来宮くんだ。

 そっくり。

 彼は、目も口も丸く開けて、自分の見ている光景が夢か幻かのように思ったのだろう。高校生の時分に戻ったと錯覚したか、ベッドから急に立ちあがろうとして、それが上手くいかない。急に現実へと引き戻されるのは、少し気の毒に見えたが。

「これは……、あの、えっ……、みなさん、おそろいで……」

 どんな顔で、どんな声でいるのがよいのか、彼は迷子になっているようだった。つかつかと歩みを進めたのはスイである。

「見舞いに来てやったんだ。お前のところの倅が来なくなっただろう。だから、その代わりにな」

 どうしてそう、ざくざくとしたものの言いかたをするのか。しかし楓果も楓果で、一体、どんな立場でどんな態度で挨拶をするのがよいのか、いまこのときまで全く考えていなかったことに気付き、頭は真っ白だ。

「いつぞやの本の礼だ。これでもう貸し借りなしだぞ」

 ただ、来宮くんはかつてと少しも変わらぬ小豆洗スイの態度に、どこか救われたような顔になった。

「……覚えていてくれたんですか」

「昨日も読んだ」

「それはそれは……、いやはや、未熟なものでお恥ずかしい」

 常識、という、……実のところ他の三人よりも備わっていないものを頑張って引っ張ってきて。

 やっと発することができたのは、

「学校では、冬弥くん(・・・・)に」

 という、口に出してから頬が熱くなるような呼びかた。

「……お世話になって、おります。同級生の、芋窪と、小豆洗と、吊掛と、白子がお見舞いに、伺いました」

 来宮くんは落ち着きを取り戻した。

「光栄です。……ああ、あなたがたと再び会える日が来るなんて、夢にも思っていませんでした」

 三十年という時間が折り畳まれる。時間がほんの一瞬で過ぎてしまったような、その合間にたくさんのことが零れ落ちてしまうような、儚い気持ちが湧いて来たのは楓果だけではない。

「大事ないがか。相変わらず痩せちょうがな」

「吊掛さんも、お元気そうで何よりです」

「ね、ねえ、あたしのこと覚えてる? 一回も話したことないけど」

「もちろん、白子さん。男子のほとんどがあなたに魂を奪われていましたから。私にはあなたに挑む勇気なんてこれっぽっちもありませんでしたが」

「い、一応言っとくけどいまは昔よりはもうちょっと、もうちょっとその、節度というか……」

 エマが「っぶねえぇ」と呟くのが聞こえた。何が危ないって、まあ、わからなくはない。

 ひとしきり昔話をした末に、来宮くんはこう言った。

「長く生きていると、こんな素敵なことがあるんですね」

 優しく、安らいだような表情、四人が入ってきたときよりも、血色が少し良くなったようだ。

「『長く』なものか」

 楓果はもう、この元同級生の前で自分を偽って語ることはしなくなっていた。

「妾たちから見れば、そなたなどまだ、冬弥くんと変わらぬひよっこよ。ゆえに、……容易く死んではならぬ。能う限り長く生き、最後の最後、そなたの中にある死の呼び掛けに答える日を迎えるまでは、ただ前だけ向いて生きておればよい」

 楓果は、まだこの優秀な元同級生、元少年が書いた文章を少ししか読んでいないことを思い出した。昨晩、スイに見せてもらった同人誌の優れた出来、彼が大人になり、小説家となって紡いだ物語の深みと凄みに、有限な時間を生きる中で人間の成せることの大きさを改めて思い知った。

「生きよ。余計なことは考えずに、日一日をそなたとして生きよ。そなたの生きた標(しるし)を、足跡を、何かの形にするのが人の身の生きるということじゃろう」

 その点、この父とあの子は本当によく似ている。限りある命であることを他の大概の人間よりも強く認識しているがゆえにこそ、記す言葉、音符の一つはとても黒く濃く鮮明なのだ。

「これからも長生きをして、……妾を、たくさんの人を、その言葉で大いに楽しませてもらいたいものじゃな」

 偉そうに、楓果は言った。概して年寄りは偉そうなものなのである。そのぶん、無尽蔵に他者を慈しむことが出来るのである。来宮くんはそれを承知しているから、とても恭順な顔で頷いた。本当に冬弥くん(・・・・)にそっくりだと、楓果は改めて思う。





 留守番をつむぎ一人に任せてしまった。まあ、ただの童女ではなく、むしろ人間並に歳を重ねていたら逆にそろそろ「おばあちゃん一人で大丈夫じゃったかのう」と心配になるような八十二歳のつむぎである。

 心配をするとすれば、他の四人がいない時間帯に好き勝手をすることである。小さな身体のまま義務教育を終えてしばらく経ってから、楓果たち四人を学校に放り込んだ彼女は、自由と孤独を謳歌するようになった。当初、平日の昼間に出歩いては「お嬢ちゃん学校はどうしたの」と警官や良識ある大人に声を掛けられるという事態が頻発した。

「厄介だからどうにかしてくれ」

「厄介なのはこちらじゃ! 何度も何度も学校から警察署まで走って行かねばならぬ妾の身にもなってみよ!」

「だから、楓果のまじないで適当に誤魔化せるようにしてくれればいいじゃないか」

 本当に、こういうところがしたたかというか、なんというか。上手く丸め込まれたようで不愉快ではあるが、結局楓果はつむぎの望む通りにしてやったのである。高校生としての暮らしは当初こそ抵抗があったものの、始めてみればそれなりに新鮮で面白いところもあって、そうしょっちゅう邪魔が入ってはかなわないのである。

 かくして、スイを連れて来たように、一人の時間に好き勝手して遊び、それでいてあの通り知恵が回るもので危ない目に遭うこともない。

 ただ、楓果の足はせかせかと忙しない。バスを一本逃してしまったときは、思わず地団駄を踏んでしまった。

「みっともないなぁ、おばーちゃんがジタバタするなよ」

「やかましいわ! ここにおるのはみーんなおばあちゃんじゃろが!」

 おばあちゃん同士の揉めごとはみっともない。世間の人間たちは、「おばあちゃん」に勝手な思いの籠った視線を向けている。おばあちゃんは細かなことに動揺せず、動きはゆったりとしており、時代劇か歌謡曲でも見せておけばいいんでしょ、と……。それは失礼な思い込みであり、次のバスに乗り込んだおばあちゃんズは、鉄オタとヤリ◯ンビッチとバンギャ、そしてコミュ障である。そして四人はガールズバンドをやっている、やっていた、いや、これからもやるだろう。

 そして、その分類をした上で「おばあちゃん」で括ったとして、何かわかった気になられても困る。なお積み残したもの、言葉では拾い切れぬものがあり、実はそこにこそ彼女たちの本質がある。

「スーパー寄って行くがか」

「いや、冷蔵庫に色々あるはずじゃ、……たぶん……、つむぎが勝手なことをしていなければ……、やっぱり寄って行ったほうがよいかのう」

「スーパー寄るんだったらいまのバス停だったんじゃないのか」

 腰を浮かせたが時すでに遅し、通過してしまった。

「まー、なんとかなるだろ。いざとなったら店屋物でも頼も」

「むう……、いやしかし店屋物は栄養のバランスが……」

「たまにゃあ楽しゆう。なんならコンビニでサラダでも買やえいが」

 教室では一番後方に陣取る四人、バスに乗るときも、四人となれば大所帯、空いていれば一番後ろに座る。なお、正真正銘のお年寄りが乗って来たなら、もちろん歳下であろうが関係なく席を譲るのである。

 結局、サラダを買うためにコンビニに寄った。 

 最近のコンビニにおけるセルフレジの専横振りは目に余るものがある。店員は品出しをしていて、楓果がレジに立っていても見向きもしない。

 ならば、仕方がない。

「……あっ、……みっ、見ろ、楓果がセルフレジを打ってる!」

 スイが慌てるのだから、相当な衝撃があったのだろうということは容易く察せられる。チッと舌を打ち、

「妾がいつまでも成長せぬばあさんだと思うでない。このような機械の、何が怖いものか。フン」

 ピッと商品を打っていく。これぐらいのこと、

「んーフーフーふふーふーん」

 もう鼻歌交じりだ。

 赤い光は当たってもダメージを喰らったりする類のものではないです、ただバーコードを読み取るだけのものです。そしてタッチパネルは、静電気さえまず起こらない安全なものなんです。はい、できました。そしたら、お会計です。えーと、現金ですか、はい、じゃあ、お札はこっちに、小銭はこっちへお願いします。あ、あ、千円札を機械と引っ張りっこしないでくださいね。

 こんな具合に懇切丁寧に教えてくれた「冬弥くん」が、楓果の中にいるのだ。

「妾を誰じゃと思うておる。芋窪山の樹霊、古より生き続けて来た聖なる楓じゃぞ。人の子の拵えたからくりじかけなど」

 そう嘯きながら、千円札のつもりでポイントカードを差し込んでしまったものだから、それまでおとなしかったレジ機械が、突如として「ピー!」などと癇癪を起こした。

「ヒッ……、な、なにごとじゃあ、あっこら、妾のポイントカードをっ、飲むでない! 食むでない! おのれえぇえヒェエー」

「あっ、お客さま困ります、レジの機械と喧嘩しないでください!」

 人を騒がせるから人騒がせというのである。

 一方で、賢明なる他の三人は、もうすでに店外に出て、他人の振りを上手にしているのであった。



◯



 そのときも、平入冬弥は音楽を聴いていたのである。





 暗闇の中に鳴り続ける音楽。ゆりかごの中にあるかのように、曲線へ自らの身を委ねて、芋窪さんの、吊掛さんの、白子さんの、小豆洗さんの、奏でた音楽が、ずっとずっと、鳴り続けている。つむぎちゃんが冬弥の沈み込んだ暗闇の中へ届けてくれた音楽は、季節が変わろうと、どれほど月日が流れようとも、変わることなく。

 彼女たちの中へ命を書き込んだ冬弥の中に、彼女たちの命が鳴り響いている。

 いつか眠る自分の上に石が立つときには、自分の生きた足跡を何らかの形に残せたらいいとずっと願っていた。いや、それは「形」でなくても構わない。そもそも音楽とは形のないものだ。ふとしたときに想起されるもの。のみならず、唄い上げ奏でるたび、そのたびに少しずつ形を変えて、新たに生まれるもの。聴いた誰かが、正確でなくてもいい、少しずつ変えていくことだってあるだろう。それは人の命の巡る限り続く運動。音楽らしくどこかしらリズミカルに、テンポよく続く運動。その結果として描かれた螺旋の軌跡が、自分の上に立つ石に刻まれ得ることを冬弥は願ったのだ。

「そうだよね、生きるっていうのは、そういうことだ」

 舌足らずな鼻声、幼い形の声なのに、しっとりと落ち着いて響く。

「私たちみたいに長く生きることは、別に得なことでもなんでもない。本来人にはそうやって、……季節外れな喩えで恐縮だけど、雪だるまを作るときみたいにさ、転がして大きく膨らませていくってことを自然とするんだ」

 最初はほんの小さな、握り拳大の雪玉だろう。転がしていくうちに、どんどん膨らむ。元がどれぐらいのサイズだったかも忘れられてしまうし、誰の仕事であったのかということも、大した意味を持たなくなるかもしれない。

 ただ、出来上がった雪だるまの中心には常にその仕事がある。

「そして、その雪だるまが、それは、春めいた陽射しを浴びて溶けて、水となって、春の小川に流れて消えたとしても」

 こんどはその水が、何かの足しになる。

 痕跡は決して片付かない。冬弥が十五年なら十五年という時間を生きた分の仕事が、すでに、世界には巡り始めている。

 他の誰とも変わらない。冬弥が一人欠けただけで、この世界はこの姿ではなくなる。体育館で聴いた百人近い生徒たち、「すげえ! かっけぇ! やっべぇ!」と幼い子供のようになったヤンキーの無邪気な歓声。あの日四人のばあさんたちのバンドは間違いなく、世界の一部に組み込まれた。世界はもう、あの音なしではいられない。だって世界にはもう、あの音が存在してしまったのだ。

 平入冬弥の痕跡を残響を、引き摺るという形でしか、地球はまわり得ない。

「だが」

 芋窪つむぎは、少し不満げな声を出した。

「……うん、だが(・・)なんだ。確かにね、確かに、どれも素晴らしい曲ばかりだった。ゆえにこその、『だが』なんだ。わかるかな、冬弥」

 つむぎは、デラウェアをちゅっと吸って言う。

 冬弥は、

「はぁ」

 と頭を掻く。

「でも、あの、つむぎちゃんぐらいの女の子が唄うことを想定した曲って、一度も書いたことがなかったもので……」

「私は別に童謡を書きなさいと言っているんではないんだよ」

 つむぎは紫の粒を冬弥の唇に押し付ける。甘酸っぱい晩夏のぶどうの味が、好ましい酸味とともに広がる。

「ただ、普通に君の曲を書いてくれればいい。私は楓果ほどの声量はないかもしれないが、唄の上手さでは負けないつもりだ」

「……ええ、それは、わかってますけど……。じゃあ、わかりました、ええと、……とりあえず高校に戻ってからでもいいですか? 勉強は普通に、追いつかなきゃいけないので……」

 にこー、と浮かぶ童女の微笑み。ただの童女ではない、八十二年生きて、それはそれはしたたかなつむぎちゃんなので、そういうときに自分の顔がどう見られているかということを、ばっちり自覚している。

「いい子だ。冬弥、キスをしてあげようか」

 冬弥が返事をするより先に、玄関、がらららぁと音がした。

「はーもうすぐ十月なのにまだまだあっついあっついあっついのう……、あっこらつむぎ何をしておる! ひらっ……、冬弥くんが寝ておるところを襲うではないわこの色ぼけババア!」

「ババアがババアにババアと言うものではないよ。私は冬弥にぶどうを食べさせてあげていただけだ。そうだね冬弥」

 つむぎちゃんも今日からいきなり「冬弥」と呼ぶようになったし、帰ってくるなり芋窪さんまで「冬弥くん」なんて呼ぶようになった。冬弥は別に自分なんて何と呼ばれようと構わないのだが、悪い気持ちのするものではない。

「お帰りなさい」

「あーよいよい、起きずともよい……。加減はどうじゃ」

 芋窪さんがつむぎちゃんを押し退けて冬弥の顔を覗いた。優しさの満ちた目、元が長いのにメイクで更にに長くしている睫毛が目に刺さりそうな距離だ。

「おかげさまで、だいぶよくなってきました。つむぎちゃんと一緒にお散歩ができるぐらいには」

「左様か。……うむ、しかし、無理は禁物じゃぞ。なにせ、胸を開き、一度心臓を停めたのじゃ……、そ、それを……、それを機械に繋いで……」

 言いながら怖くなってしまうぐらいなら言わなければいいと思うのだが、芋窪さんはそうすることで冬弥の体験に寄り添い、一緒に克服しようとしてくれているのだろう。

「大丈夫ですよ、芋窪さん」

 事実として、冬弥の心臓は止まった。

 事前に予告した通り、「機械に繋いで」その間に処置をされた。

 退院後芋窪さんが教えてくれたところによれば、それはちょうど、芋窪さんたちがライブのステージに立つ直前のことであったそうな。

 妾は、ずーっと耳を澄ませておった。平入くんの心臓の音が、……弱々しいながらも聴こえてくるのを、数えるようにして。

 それがあの瞬間、ぱたりと聴こえんようになってのう。

 妾はそのとき、……全くもって勝手なことじゃが、自分がどちらかと言えばそういうものに近いとされる身であることを忘れて、八百万、洋の東西を超えてあらゆる神的なものに祈っておったのじゃ。祈りながら唄うておった。無論、同時にどこかで、その時間は平入くんが救われるまでの時間であると、噛み締めて過ごす自分もおったようじゃな。

 妾の長い長い生において、あれほど長く感じた時間もない。

 更衣室で着替えを済ませて、屋上で、つむぎも交えて五人でのう、病院のほうをずっと見ておって、……無限かと思えるほどの時間を経て、そなたの心音が聴こえてきたときの、妾の、妾たちの気持ちを、どんな言葉で表せば伝わるじゃろうか。

 あれから妾は、少しばかり機械が怖くなくなったのじゃ。

 恐ろしき死の縁から、いとおしき命を繋いでくれたのが、ほかならぬ機械であったと思えば……、のう。

 手術中の冬弥の側からは、音楽が鳴っていた。つむぎちゃんが撮影したライブの映像がそのまま病院の手術室に流されていたのだ。もちろん冬弥に意識はない、なかった、はずなのだが、一説には人が五感で最後に届くのは聴覚であるという。だから、冬弥と生を繋げたのは一見対照的な存在に思われる芋窪さんたちの声と言葉と音、そして、機械なのである。

「僕は生きています。命を繋いでもらったんですから、頑張って生きます」

 冬弥が髪を撫でる手に、「あああ汗をかいておる」と首を竦めようとするけれど、冬弥は構わなかった。

「おかえりなさい。父のお見舞い行ってくれてありがとうございます」

 んむ、と芋窪さんは頷く。父が芋窪さんたちを見てどんな顔をしたか、冬弥もぜひ見たかったのだが、まだしばらくはあまり動いてはいけないと言われているので。ともあれ、同じくまだしばらくはぽつねんとベッドの上で過ごさなければいけない父にとっては、「高嶺のギャルズ」の急襲は嬉しい驚きであっただろう。

「楓果ぁ、おい、冬弥の顔見るより先にサラダしまうぐらいしろよなぁ」

「悪うなるがじゃ」

 白子さんと吊掛さんが覗き込む。その際に押し退けられた芋窪さんが「んがっ」とうめいた。吊掛さんも白子さんも、冬弥の顔色、肌艶、自分の目で確かめないではいられなかったのだろう。

「うん、いいな。一日ごとに冬弥(・・)が元気になってんのがわかるって、いいもんだな」

「がじゃなぁ。冬弥(・・)くんにぁもっともっと元気になって、またわしの電車旅行に付き合うてもらわんがならんちゃ」

 二人も「リー」「平入くん」ではなくなっている。

「あんなもん二回も三回も行くもんかぁ?」

「言うがエマは五回付き合うたが」

「まーそうだけど、近くにあった温泉が目当てだったとこもある……、じゃあ、冬弥、治ったら三人で温泉行こう。な、泊まりだ泊まり」

 とんとん拍子で決まっていく間、吊掛さんの大きな手のひらと白子さんの細い指に頬を頭を撫で回される。

「君ら二人と泊まりなんかしたら、冬弥が鯵の干物みたいになってしまうだろう」

 つむぎちゃんが冬弥の足のほうから咎める声を発した。

「鯵の干物とはなんじゃ。せめてこう、もう少し立派な……、ほっけの干物ぐらいにしておかぬか」

「干物のほうに文句を言うのかと思った。ああそういえば冷凍庫に残ってた秋刀魚の開き私たちがお昼に食べちゃったからね」

 つむぎちゃんはお母さん(であるとも別に思っていないようだが)ゆずりで料理が上手なのだ。カルシウムをしっかり摂ったからと言って骨が早くくっつくというわけでもないらしいが、こういうのは気持ちだからね、とふっくら焼いてくれたのだ。

「構わぬ。夕飯は何ぞ、店屋物を取る」

「え、こんなところまで届けてくれるんですか」

 思わず冬弥は言ってしまったが、ここはある種の結界の中、芋窪さんたちの誰かに導かれなければ辿り着けないのである。

「誰も来らんが不便がじゃ、そういうときは上手いことしゆうな」

「インターネットのダイヤルアップ接続みたいなもんだな、……つっても冬弥はわかんないか」

 わかりません。昔はパソコンからケーブルを電話線に繋いでインターネットをやっていたと聴いて、「へー……」と驚く。冬弥がこの可愛らしいおばあちゃんたちに対して、これまでで一番のジェネレーションギャップを感じたのがこの時だったかもしれない。

「お前らいつまで溜まってるつもりだ。平入の寝てる部屋が汗臭くなるだろ」

 部屋の扉のところから、小豆洗さんが声を投じた。

「そうだぞ、君ら汗臭い。とっととお風呂に入ってくるがいいよね、冬弥もそう思うだろう」

「いいいえあのそんなこと思ってませんからね」

 男子高校生として、女子高校生の汗のにおいにとやかく言うことなど出来るはずもない。ただ三人は少しもめげない。吊掛さんと白子さん、だけでなく芋窪さんもじーっと小豆洗さんを見ている。

 視線が何を示唆しているのか、冬弥にはわからない。

 ただ、芋窪さんが、

「平入?」

 と訊いた。白子さんと吊掛さん、そしてつむぎちゃんまでもがニヤニヤしているのは、後頭部を見ているだけでも何となくわかる。

 小豆洗さんがハッとした顔になった。数秒の躊躇いののちに、その端正な白い顔をギッと顰めて、

「……冬弥(・・)の寝てる部屋が臭くなるだろ」

 と改めて言い直した。この甲斐甲斐しいおばあちゃんたちは、退院後冬弥をこの谷戸の邸に住まわせるのみならず、身辺の世話を買って出てくれた。

 ここは元々は小豆洗さんの部屋である。聴きたいときに音楽が聴けて、ネット環境も整っているという点で一番冬弥に向いているのが彼女の部屋だったのだ。床には夜ごとに、五人が交代で横たわる。

 お前好きなやつとかいるのか。

 小豆洗さんのことを含めてみなさんのことが好きですよ。

 ……ふうん。

 毎晩が、行けるかどうか定かでない少なくとも中学のときには参加できなかった修学旅行の夜のような、素敵な時間である。

「まあ、風呂を浴びねばならんのは確かなことじゃ……。順繰りに風呂を浴びて、夕飯は、……じゃあ、エツコの言うておった通りピザでも取ろうかのう。冬弥くんもピザでよいかえ」

「もちろんです」

「冬弥はピザ好き?」

「大好きですよ。一人じゃ絶対に食べられないので、ハレの日って感じがします」

「あはは。冬弥くんがおったが、毎日ハレの日ぃがなぁ」

 吊掛さんにひょいと抱き上げられる。そう出来るのは彼女の特権であり、このところ冬弥はしばしばそうされるのだが、少しばかり恥ずかしい。……でも、本当に正直なところを言うと、少しばかり嬉しくもある。

 おばあちゃんたちは、今日も冬弥を甘やかしてくれているのだった。

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