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Listen to the music.

◯



 そのとき冬弥は、音楽を聴いていた。

 音楽は、耳の奥、胸の裡、あるいは身体に染み込んでいるもので、冬弥のどこからでも鳴っているようである。

 思えば平入冬弥は物心ついたときから音楽の中にあった。父は書を読むことをしばしば勧めてきたが、どうも気乗りがしなかったのは、文才が親から子へ容易く受け継がれるものではないからだろうか?

 代わりに、冬弥は街に溢れる音楽にとても興味を惹かれた。スーパーやコンビニで掛かる曲は一度聴けばすぐ覚えてしまったし、楽器に触るのも大好きだった。けれど誰も彼に音楽の道を薦めるものはいなかったのだ。だって冬弥は音痴で、楽器は下手の横好きの典型、まともに扱えたのはカスタネットとタンバリンだけ、それもリズム感はからっきしなかったのである。

 世の中に、そういう人間にも音楽を作れるツールがなかったら、冬弥の人生はとてもつまらないものになっていたかもしれない。

 小学五年生のときにタブレットを買ってもらって、それに最初から入っていた音楽編集ソフトに、文字通り指先で「触って」みたところから、いまに繋がる冬弥の人生は始まった。音感が、リズム感が備わっていない冬弥にも、音楽の愉悦は広々と豊かな胸を開いてくれたのである。父は「そういうことのために買ってやったんじゃない」と冬弥を諌めたが、苦言を呈されないぐらいの成績を修めるために勉強をし、それ以外の時間はほとんどずっと、曲作りに没頭した。

 翼を手に入れたような感覚だったと、冬弥は当時を振り返る。

 母が出て行った。父の体調が悪化した。一般的にはつらいね、しんどいね、かわいそうだね、そういう言葉で評される日々だったとしても、冬弥がまるで折れなかったのは、常にそばに音楽がいたからだ。

 音楽はいつしか冬弥の中にあるものとなっていた。自身の身体にも徐々に異変が起き、苦痛に悶える夜がある中でさえ、冬弥の中では音楽が鳴っていた。しんどさが和らいだなら、汗を拭い、水を飲み、鳴っていた音楽を共有できる形に変換する。冬弥にとってひとまずそのモチベーションが、生きるための力となっていた。

 教室後方高嶺のギャルズとの交流を通して、冬弥には新たなエネルギーが生まれた。みんな、それぞれ異なる形で冬弥に、……生きろ、と言ったのだ。明後日デートをしましょう、明後日、八月五日に。

 文化祭の日に。

 手術が上手く行ったら。退院したら。

 生きているその瞬間の次の瞬間に死ぬのだとして、後悔がないようにと、白い羽を叩きつけるように刻みつけてきたのが音楽だ。だって冬弥にはそれほど先のことは見通せない。多くに人にとって当たり前にやって来る明日が、自分には急な上り坂を超えた先にあるものだったから、明日に何かを託すというよりは、いまここを踏み締めた足跡を、自分の証と位置付ける以外に方法はないと思っていた。

 そんな冬弥に、芋窪さんたちは予定を提示したのである。

 芋窪さんたちの存在そのものが、冬弥にとって未来であると言い換えてもいい。

 音楽とおばあちゃん。

 過去と未来。

 芋窪さんたちが奏でる音は止まらない。芋窪さんたちの中で鳴り、それを聴いた誰かの中でも鳴る。鎖となって、冬弥が死んだ後にも響き続ける。その仕組みに、冬弥は強い信頼を置いていた。「Billy Jean」も、「Yesterday」も、「In the End」も、「Wake Me Up」も、今でも誰もが唄う、その強固な螺旋状の鎖である。

 つまり、冬弥の生が短かろうが長かろうが、恐れることはない。

 そこへもう一つ、未来への約束を重ねた。鎖は冬弥自身を生の側に縛り付けるものとして新たに埋め込まれ、旅の予定、性欲、根源たる音楽そのもの、家族、そして形の定まる未来、冬弥を生の側へ絡め取ろうとする。

 冬弥の身体に音楽が鳴っている。

 身体の外、どこからか、音楽は聴こえて来る。

 深くて黒い眠りの中で、ずっと、生の唄声が鳴り響いている。



◯



 九月の夕暮れに、透明な音が鳴っている。

 縁側に座り、芋窪つむぎは茜空に抜けるその音を眺めていた。

 芋窪楓果、吊掛エツコ、白子エマ、小豆洗スイ。四つの、それぞれ全然違う色彩の音が重なって、同時にただ重ねるだけでなくて譲り合うことも併せてしながら、響きと呼ぶには荒っぽく金属的でありつつ、でも、結果的にはとても透き通った音になっている。夏の過ぎゆく中を、それでもなお胸を張って佇立するひまわりの力づよい花弁の縁を揺らして、音が鳴っている。

 つむぎの小さなあぐらの膝が、尻が、無意識のうちに音に揺れた。

 シンプルに、カッコいい……。これが贔屓目であったとして、どんな問題があろうか? 平入冬弥の作った音楽を、ばあさんたちが存分に演奏しているのだ。男と女、人と人ならぬもの、そんな垣根を丸ごと潰してしまうような音楽だ、カッコいいに決まっている。

 昨日の夜、スイと一緒に入浴する前、彼女がスマートフォンで見せてくれた言葉がある。

「これを書いたの人は、……前に話したことがあるかもしれない、俺の一番好きなバンドの人だ」

 スイがどういうバンドを追いかけているかといえば、だいぶ金属的でつむぎが首をすくめたくなってしまうよう音楽を奏でる人たちであり、また彼らはプロではないのだから、何割か差し引いて見なければいけない得点だとは思う。

 その人が、平入くんの作った曲に寄せたコメント。

 無邪気に嬉しくなってしまう自分がいた。

「半分の年齢ってことは、その人は三十歳ぐらいということ?」

 つむぎは背中と頭を洗ってくれるスイに訊ねた。

「確かそう。俺が聴いた中では最高に格好良い音楽をやってる」

「まあ、それはスイの個人的なセンスの部分だろうけども。しかし、ふーむ、そうか、……ふふ、そうかぁ……」

「何をニヤニヤしてるんだ。流すぞ」

 頭にお湯を掛けられる。

 嬉しい、嬉しい、嬉しいに決まっているだろう。大好きな平入くんが誰かに褒められている。まだ高校生なのに、大人に嫉妬されている。スイの好きなバンドの名前、なんと言ったかな、いま考えてみるとエッジが効いているとでも言うのか、ソリッドと言ったほうがいいか、なかなかよかったんではなかったか。

 鏡の向こうから怪訝そうに見つめているスイと目があった。

「スイもさぞかし嬉しかっただろう」

 仮に嬉しいという気持ちを催すことがあったとして、こんなふうにニヤニヤするはずもない女は「別に」と言う。

「とっとと腰掛けを代われ」

「君が繋げたんだ、もっと誇ればいい」

「別に……」

 湯に浸かり、白い肌を洗い始める彼女を、快い気持ちで眺めている。スイの手を眺め、自分の手を眺め、自らの頬に触れて見た。平入くんの手のひらはさすがにもう少し大きい。そして彼が、幼女の身体ながら偉そうに振る舞う自分に対してさえ謙虚さを崩さない彼が、痩せて小さいものであろうと男の身体を持っていたことを思い出して、なんだかまた、嬉しいような気持ちが湧いてくる。

「もしもお前が、俺があいつと音楽とを繋げたんだって言うんなら、おんなじロジックでもっと根源的なことが言えるだろ」

 スイは濯いだ髪をオールバックにして、いつもよりもう一段凛々しさを上げてつむぎの隣に浸かる。あくまでざくざくとした言いかたを、選ばざるを得なくて選んでいるのだろう。

「というと?」

「……俺とあいつは、お前がいなかったら繋がっていない」

 湯の中で足を伸ばして、「ああ、なるほど……」とつむぎは呟く。スイをここへ連れてきたのはつむぎである。平入くんがここにきた時に、もしもスイがいなかったら?

 誰も彼をライブに連れて行くという「デート」をすることはなかっただろう。そうであったなら、平入くんもバンドをやらせようというアイディアに至りはしなかったはずなのだ。

「そうか。私が平入くんとみんなを繋げたのか」

 なかなかいいところに目をつけたものだ。

「もうすぐだ。……うまく行くといいね」

 つむぎは言った。自分は初めから傍観するだけと決めていたから気楽なものだ。

 スイは湯の温度で少し上気した頬で、珍しく素直に頷いてから、

「……それは、どっちのだ?」

 と訊き返す。

「決まっているだろう、もちろん両方さ」

 平入くんの求めに全員が応じ、バンドとしてライブを行うことになった。あくる朝に、どこで、いつ、どのようにということもまた決まったのは、必然と言って少しも問題はないはずだ。

 すなわち文化祭のライブステージ。

 今からそんな空きがあるのかと不安がるまでもなかった。平入くんが学園祭実行委員の島くんに問い合わせたところ、すぐに「助かった!」と返信があったのである。参加する予定だったバンドが一組、バンド内で男女関係のもつれがあったとかで、急にキャンセルして困っていたところだったらしい。そこに、名称未定、平均年齢三百歳のおばあちゃん女子高生バンドがねじ込まれることとなった。

 観に行けない平入くんの代わりに、つむぎはしっかりと撮影をすると約束した。

 楓果たちはその日を目指して毎日しっかりと練習している。家事や農作業の合間に、陽が沈んでからも。

 谷戸に音楽が弾けて響いている。

 元々、才能がある連中だ。人間ではないがゆえに「人間離れ」という表現は正しくなかろうが、なんだってこなす。そんなに躍起にならなくたっていいと思うのに、彼女たちがそうしないではいられないのは、恐らくは彼女たち自身、奏でる音にどうしたって「祈り」の要素が入ることを避けられないと思っているからだ。「演奏する」と同じ響きの言葉に「祈る」があるからには、二つはどうしたって相互に響き合う。

「その後には、何も変わらない日常が戻ってくるんだ」

 スイはとてもとても頑張って、努力をしたすえに、淡白な声を出していた。

「平入と俺たちでは、生きる時間が違う。最初からわかっていたことで、ちょっとやそっとじゃ変わらないことで、それも含めて日常だ。だから……」

 それは、寂しい、とても寂しいけれど、本当のことだ。

 スイにとってもつむぎにとっても、人間はあまりに儚く弱すぎる。特にこの二人にとっては、いよいよ初めて人間との「別れ」を迎えようとしているのである。

 水島を亡くしたとき、つむぎはまだ赤子であったから、その死をきちんと受け止めることが出来ていない。スイは、同居を始めてからも人間とは距離を置いて生きてきたから、交流のある人間が死ぬという経験をしていない。

「ちょっとやそっと、という言葉でいいのかい」

 つむぎの問い掛けに、スイは答えない。つむぎ自身もその日を、その瞬間を、どうやって受け止めたらいいのか、……受け止めることができるのか、全く覚束ない。自分よりもちょっと長く生きているスイも、……楓果たちでさえ、自分たちに書き込まれた言葉を読み返すときに、泣いてしまわないでいられるようになるのがどれぐらい先のことなのか、見当もつかないに決まっていた。

 あるいは、そんな日は永遠に来ないのかもしれない。

 同じことを、今日も考えている。畑から聴こえて来る、ガールズバンドのサウンド。ノーミスであるのは当たり前の次元から、更なる高みを目指す者たちの音が、願いが、祈りが、晩夏の空へ、渦を巻いて昇ってゆく。

 これは決して、断じて、挽歌などではないと。



◯



 冬弥は音楽を聴いていた。



◯



 体育館に設けられたライブステージ、その外の、まだ残暑と蝉の声がうるさく降り注ぐ木陰に、四人はいた。その場所は、ちょうど高校の正門から校舎へのアプローチの脇にある。

 だもので、自校・他校の生徒たちがひっきりなしに通るそのたび、視線を集めているのだった。人並外れて大きな女、ピンク髪ツインテール、黒髪の片目隠れ、そして銀髪と、あまりに四人は目立ち過ぎるし、魅力的に過ぎるのである。見た者の心に、ああ、いいもの見たな、という悦びを刻みつけずにはいられない、そんな高嶺のギャルズ。

 バラバラに生まれ、生きてきた者たち、生き物としての種類だって違う彼女たちは、バラバラのTシャツ、ギター、ベース、ドラムスティック、身体そのものを武器として携えている。

「楓果」

 だしぬけに立ち上がったからだろう。スイが、名を呼んだ。

 まだ出番まで少しある。漏れ聞こえてくる前の演者の重低音……、緊張を催さないことには少しの不思議さもなかった。

 楓果はずっと耳を澄ましていたのである。

 その音の、途絶えることなく聴こえることを願って、……何なら自分の呼吸よりもずっと、それを渇望して。

「……なんでもない」

 椅子に座り直して、髪を掻き上げ、人間の形の心臓があるあたりに触れて、そこから手のひらを、臍のあたりまで下ろした。

 さっき、ちらりと体育館の中を覗きに行き、「結構入ってる」とエマは言った。

「つむぎ大丈夫かねぇ、あんな中で、あんなちびっこが」

 楓果は自分が、多くの者に聴いて欲しいと願っているのか、それとも一人にだけ届けばいいと思っているのか、……おそらくそのどちらも正解なのだろう。たった一人のための音なんてものは存在し得ないのだ。

「さっき、村上くんに声掛けとうがじゃな」

「村上って、あのヤンキーだろ」

 エツコの声に、スイが不安げな声を発した。「大丈夫なのか」

「村上くんはちっちゃい妹おりゅうが。つむぎと同じぐらいがな」

 村上は不良だが、同時にバスケ部である。やあやあそこの背の高い君、ちょっとお願いがあるんだけど聞いてもらえるかな、……なんて声をかけて、肩車を交渉したのだ。

 楓果は不思議で仕方がない。自分はこんなに大人しくて控えめなのに、どうして楓果はあんなにしたたかなのだろう?

 いいや、それは実のところ少しも不思議ではない。人の泉に転がり込んできて、あの子を押し付けて平然としていたような男の娘がつむぎなのである。対人間の免疫という点でも、元が人間であるだけに楓果よりずっと強い、……見習わなければいけないのかもしれない。

 前のバンドの演奏が終わった。「どもありがとうございましたぁ」という女子の声が漏れ聞こえてきた。義理とも思えない拍手の大きさに、何か気合めいたものが楓果の中で据わった。

「では」

 今度こそ、しっかりと立ち上がる。

「我らも参ろう」

 よっこらせ、よいしょ、どっこいせ、と声に出しはしないけれど、おばあちゃんたちであるので、動きはゆったりとしている。もちろんこれは、ちょっとやそっとのことでは動じない強さと表裏一体のものである。

 そうした事実に信頼を置いた上で、

「平入くんの」

 楓果は深呼吸を一つして、言った。

「心臓が止まった」

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