未来の話をしましょう
暗くした部屋のベッドの上に、つむぎちゃんが横たわる。
「私がこの身体であることを恨めしく思うのは、こういうときなんだ……。せめてもうちょっとだけ、あいつらと同じぐらいまで育ってから止まったならと思うんだよね」
ベッドサイドに座って、冬弥は苦笑する。その声が、とっても眠そうであったから。
頭の中は、五人の中でも最も鋭く回ると見てもいいかもしれない。思うに、脳の力というのはこれぐらいの子どもが実は一番秀でているのではないだろうか? そこへ加えて、つむぎちゃんには大人の知恵が備わっている。だからこんなに賢く、とてもしたたか。
一方で身体がこういう形であるものだから、体力はないし、もう夜の十一時を回って、おねむになってしまっているのである。
「僕も、つむぎちゃんがみなさんと同じぐらいだったらどんな感じだろうってことは考えます」
「そうだろう、……ただまあ、あんまり身長とかは伸びないんだろうな。平入くんは私が何歳に見える?」
「四年生ぐらいなのかなと」
「そう……、そうなんだよね。いや私の感覚では五年生の三学期で時間が止まったので……、はぁ、四年生かぁ……」
「すみません……」
「いやー……、いい、いいさ」
つむぎちゃんは小さい。
つむぎちゃんは人間である。日本人の平均身長は当時からずいぶん伸びているはずだ。令和を生きるつむぎちゃんの身体は、昭和一九年生まれの女の子のサイズなのである。
「でも、一方で、……悪くないと思うこともある」
冬弥の視線の先、いかにもとろんとした目がなんとも愛おしい。
「平入くんは、ほかの四人を抱っこすることは出来ないだろうね?」
「……出来……、ないでしょうね、はい」
吊掛さんだけではない、一番小柄な白子さんでさえ無理だろう。心臓の問題の有無関係なく、シンプルに力がなくて出来ない。無理にそれをすれば、おそらく抱っこするほうもされるほうも、揃って怪我をすることになるだろう。男としては少々情けないところではあるのだが。
「でも、私だったら?」
さっき、このお嬢さんは冬弥の膝に乗ってきた。向き合っているときよりももっと小ささを感じたし、え、こんなに軽いの、とびっくりした。おそらく厳密に言っておく必要性があるのだろうが、性的な意味一切なく、そのお尻の小ささにも「ちっさ!」と声が出そうになった冬弥だった。十五歳の自分がいつのまにかもう立派に大人の男になってしまったかのような……、無論、「お前百五十八しかないだろ身長」と言われて終わる程度の話である。
なお学年で一番の高身長が吊掛さん、そしてそれに次ぐのが、冬弥と同じ中学出身でヤンキーでバスケ部の村上である。
「そうですね。つむぎちゃんだったら、抱っこしたりおんぶしたり出来ます」
んふー、と満足げに彼女は笑う。形があどけないもので、見る者の心はどうしても和んでしまいがち。
だものだから、
「でもね、私は、本当は平入くんみたいな息子、いや、せめて弟が欲しいんだ」
急にそんなことを言われると、びっくりしてしまう。
「ふふ、おかしいかい? でもさ、普通の人間として歳を重ねていたら今頃私には息子はおろか、孫だっていておかしくないわけだ、良いペースでいったなら曾孫とか、……最短ペースで頑張れば玄孫もいけるか」
「さ、最短ペースって」
「十六かける五ということ」
「そうかもしれないですけど……」
「ま、取らぬつむぎのなんとやらだね」
取らぬ狸の皮算用である。眠さに任せて言うことがだいぶ自由になっているようだ。
「その願いを叶えることは出来ない、もう諦めている。けれど、……まあ、失礼に感じたら申し訳ないのだけど、平入くんを初めて見たときに私がどう思ったか、言ったことがあったかな。私は君を見て、『感心な若者』と思ったんだ」
バイト先のお菓子売り場で、とても手の届かないところにあるチョコレートクッキーを取ってあげた。
当然のことだ。
「当然なものか。無愛想で不親切な人なんていっぱいいるよ。きっと平入くんは仕事であろうとなかろうと、私が頼んだらああしてくれたんじゃないかな」
「それは……、まあ……」
「応じるだけでなく、そのときの表情、態度、滲み出るものというのが大事なのさ」
親切心が特別だと扱われるのは、ちょっと、落ち着かない気持ちになる。八十二年間を幼女の姿で生きてきたつむぎちゃんの目に、人間の親切心が特別に移るようになったということだろうから。
つむぎちゃんぐらいの子というのは、誰からも親切にされるのが当たり前の存在であるはずだ。
いつの時代も、どこの国でも。
そしてつむぎちゃんはこれから先も幼女の姿で生きていく。生かなければいけない。悲しいかな加速度的に少なくなっていくらしいけれど、子どもが常に存在する世の中を。
「ああして子どもに優しくしてあげられる平入くんのような、……あるいは平入くんそのものが私の息子だったら、せめて弟だったらいいのにな、と思うことはある。ただどちらにせよ、私には実現不可能な夢……、ふわーあ……、まあ、起きて見る夢ほど儚いものはないけどもね……」
親より先に死ぬのが、最大の親不孝だと言われる。だから冬弥は、せめて父よりは長く生きたいものだとぼんやりと思っている、……父はもっと強く願っていることだろう。
一方で冬弥には母親がいる、……当たり前ながら冬弥はその女性によってこの世に生み出されたのだ。
今後長く生きれば生きるほど、その人は過去の存在となっていく。消しきれない痕跡を意識したときに感じる痛みは歳を重ねれば薄らいでいくだろうか?
冬弥はその女性に自分の手術することを伝える気はなかった。父からの連絡を拒絶している人だから、きっと知ることはないだろう。その手術の結果、あっけなく冬弥が死んだとしても。
「つむぎちゃんがお母さんだったら、すごく素敵でしょうね」
口が滑る、ということは、確かにあるのだ。
つむぎちゃんの頭に冬弥の枕は高すぎたもので、彼女は金色の髪の下にタオルを畳んだもの敷いている。顔を横に向けて、じいっと薄暗い中で、冬弥を見ている。
「……光栄だね」
ふっと微笑みを浮かべて、彼女は言った。
「こんなちんちくりんなのに、そんなふうに思ってくれるの?」
横たわる彼女と視線の高さを合わせるために、ベッドから降りた。つむぎちゃんが手を伸ばし、冬弥の頬に触れた。九十度ずれた世界、だけれど、こうして見ると、身体の大きさ背の高さなんて関係なく、二人の間でだけ、母と息子という関係を確かめ合うことだって可能になる気がした。
自分を産んでくれた母に感謝する気持ちがないではない。父は確かに母を愛していたのだろう、そうであるがゆえにこそ、自分がこうして存在するのだろう。
しかし、そうであるがゆえにこそ、その愛の行方に思いを馳せることは、したくない。
母は出て行くとき、離れていても親子だから云々、ということを言ったように記憶しているし、たぶん、そういうような内容の手紙を受け取った記憶もあるのだが、そうした形で刻もうとする何かの跡は、引っ掻き傷のようなもので、繰り返されるとが治らなくなり、いずれは癌になる。あるいは、もう既になりかかっているのかもしれない。
それならば、歪な形であろうとこの八十二歳のおばあちゃん幼女を「母」として崇め、この人のために出来るだけの長生きを目指した末に、叶わず親不孝を晒すのが、……つむぎちゃんのほっぺたのように柔らかな着地である気がする。
静かな寝息が規則的になった。
冬弥はこれまで一度も、つむぎちゃんのことを「妹」と見たことはないのだった。他の四人と違って根っから人であるがゆえに、人そのものとしての年輪が偉大さとして意識されるからかもしれない。
尊敬に値する、なんて言葉はあるけれど、尊敬したくてしている存在、小さいけれどできれば仰ぎ見ていたいのが、冬弥にとってつむぎちゃんであるらしい。
そうっと寝室から出ると、ソファと床にそれぞれ陣取った小豆洗さんと白子さんと吊掛さん、そして椅子に腰を下ろした芋窪さんが、またもやじゃんけんをしていた。今度は組み分けではなく、勝ち負けを決めるためのもののようだが、四人もいるせいか、全員が人智を超えた存在なもので相手が何を出すのかの読み合いが出来てしまうからか、
「……あの、何決めるじゃんけんなんですかそれ」
七回、八回、九回経ってもまだあいこでしょ。
「コンビニ。アイスかなんか食いたいねって話になってさ」
代表して白子さんが答えてくれた。
「つむぎは寝る前に食べると虫歯になるでのう……」
芋窪さんの言葉は、つむぎちゃんの「お母さん」としてのものだ。はて、つむぎちゃんを母親視するならば、その母親自認の芋窪さんが「おばあちゃん」ということになってしまう。もちろんみなさんのことを例外なく「おばあちゃん」として敬愛していたつもりだが、「お祖母ちゃん」と思ったことはまだ一度もない。
いま、十四回目のあいこでしょ。
「……ああ、もう、やめじゃやめじゃ、キリがないわ」
芋窪さんがうんざりしたように言った。
「このあいだピザ屋にピザ取りに行ったのはあたし。誰かさんが『取りに行くと安い』とか言い出したせいで」
「スーパーに誰かさんの買い忘れが買いに行ったんがわしじゃ」
「その誰かさんが自転車をパンクさせたときに空気入れを買ってきたのは俺だ」
「あと勝手橋からその自転車ごと落ちてダメにした自転車を市役所に電話して拾ってもらったのはつむぎだったね」
「あーあーうるさいうるさい、妾が行けば良いのじゃろまったく……」
芋窪さん色々やらかし過ぎている。おっちょこちょいなところがあるらしいことはなんとなく察していたが、
「……いまのはどれぐらいの期間での話なんですか」
一番近くにいた白子さんに訊いてみる。
「七月」
「しち」
「毎月それぐらいのことやらかしてんだよあいつ」
「平入くんに余計なことを吹き込むでない! ……はーもうめんどくさいのう。コンビニは店員の愛想がないから嫌いなのじゃ」
ぶつくさ言いながらも、芋窪さんはTシャツに短パンという相当にラフな格好にお財布だけ持って出ようとする。治安の悪い地域ではないし、コンビニはすぐそこ、でも芋窪さんの指摘の通り、深夜時間帯は「いらっしゃいませ」を「せー」ぐらいに略してしまう大学生らしきお兄さんがいるばかり。
芋窪さん一人ではセルフレジも扱えない。
「あの、じゃあ僕一緒に行きましょうか……?」
冬弥がそう申し出るのが、一番据わりがいいのだった。
「その……、たまたま七月はちょっと、急に暑うなったもので、少し気が抜けてしまっておったせいで色々やらかしがあったというだけで、普段はそのようなことはないのじゃ、誤解をしてはならぬ」
芋窪さんは暑さが得意ではないそうで、毎年夏になると調子が出ないのだそうだ。
「本来の妾はもうちょっとこう、色々なことをてきぱきとやってじゃな、うっかりミスとかもすることなく……、本当じゃぞ」
「ええ、あの、疑ってはいないですけど」
「本当かのう」
「疑わないでください……」
マンションから外へ出て、「はぁむしあついのう……」とうんざりした顔。芋窪さんの正体は楓の木である。これから先、涼しくなってからこそが、彼女にとって心地よい季節なのだろう、彼女の言うところを全面的に信じるならば。
冬弥としては、もう芋窪さんが高嶺に咲くクールビューティークイーンだとは思っていないのである。大急ぎで言い添えておかなければいけないのは、だからと言って芋窪さんという人に失望したというわけではないということ。
想像していたほどの完璧超人ではない、そもそも人ではなかった。そうであることを見てわかる距離感で捉えてなお、素敵な人だという見方に変わりはない。泣くほど機械が苦手で、のたうちまわって縁側から転げ落ちたり、廊下で思いっきり転んだり、そういう姿を伝え聞き、あるいは実際に目にして、ますます可愛い人だと思うようになった。けれど冬弥は、こうした芋窪さんの正体を父に話そうなどとは思わなかった。
コンビニは道の斜向かいだが、横断歩道を経由してちょっと遠回りになる。信号が、赤になった。
「えーと……、あー、のう……、そのー……」
芋窪さんはもじもじとシャツの裾をいじっている。
「……さっき、エマと、風呂で、その……」
「何もしてないです」
また打てば響く勢いで反応してしまった。芋窪さんの手が、こんどはシャツの裾をぎゅっと握る。
「全く何もしてないというのは、語弊があるかもしれないですけど」
「そそそそれはのうだって年頃の男女が密室で二人きりなのであればそういうこともあろうかと」
「いえあの、そこまでのことはないです」
「そこまで」
そこまで、口にしたところで芋窪さんは口を噤んだ。それから、恥じたように嘆息して、
「……すまぬ。その、妾がとやかく言うようなことでもない。エマはこれまでもたくさんの男子と付き合うて来たし……」
夜遅い、通る人もいない、けれど往来で話すようなことではないなという気はする。信号が青に変わった。
「芋窪さん」
コンビニの手前で、道から逸れた。
「ちょっとだけ、お散歩しませんか」
何か言いかけた芋窪さんが、ちょっと緊張したように、冬弥を見て、こくんと頷いた。
と言って、歩いて楽しい道があるわけではない。単なる住宅街の近く、ちょっと行けば川があるけれど、涼しい風はまるで吹かない。日中の熱気がこの時間、湿り気という粒子になって、地面付近を透明な膜となって覆っている。それを掻き分け掻き分け歩いているようなあんばいだ。
「たまたま、ですけど、……芋窪さんが小豆洗さんとお風呂に入っている間、吊掛さんとお喋りをしました。それから白子さんと一緒にお風呂に入らせていただいて、そのあとはベランダで小豆洗さんとお話をして、部屋ではつむぎちゃんと。みなさんと、僕は、……ええと、誤解を招くか語弊があるかどっちかになっちゃうんですけど、身体の接触をしました」
「セッ……」
「それぞれと、それぞれの……、あれ芋窪さん、……芋窪さん、呼吸の仕方忘れないでください歩きかたも。いえ、ごめんなさい誤解を招く言いかたでした、そしてやっぱり語弊がありました」
冬弥が五歩進む間、芋窪さんはぴたっと止まって立ち尽くしていたのである。
「吊掛さんには、頭を撫でてくれました。白子さんは、おでこにキスをしてくれました。小豆洗さんとは、その、ぎゅーっと、しました。つむぎちゃんはほっぺたに触ってくれました。つむぎちゃん、僕のお母さんになりたいって言ってくれました」
正直なところを冬弥が全部言う間、芋窪さんの身体は四回ビクッと震えた。誰のときが一番強かったというものではなかったが。
「それぞれと、それぞれに、……僕は、思い出を作っているんだと思いました」
恐らくは、言葉を選ぶよりもまっすぐに言うほうが親切なのだろうと冬弥は結論づけた。芋窪さんと並んで、ゆっくり、ゆっくり、もう半ば眠りの中にあるような夜の通りを歩きながら、……不意に蝉が、どこから寝言を口走る。
「みなさんのことが、僕は、大好きです」
これも寝言かもしれない。
「僕は自分の生というものに、これまであまり期待というか希望というかを抱かずに来ました。だって、しょうがない、こういう心臓で生まれて来ちゃったので。今回手術をする、……どうなるかわからないですけど、まあ、上手く行ってほしいなって思うのは、自分のためというよりは、心配してくれるみなさんのためっていうほうが大きい感じで……」
でも、短い時間を経ただけでもう、冬弥はちゃっかりと、生への執着が生まれ始めている。
死んでしまうには、この生はあまりにももったいない、と。
「吊掛さんと電車に乗りにいきたいですし、小豆洗さんとライブに行きたい、つむぎちゃんが母親になってくれるなら、まあその、甘えるっていうろアレですけど。でもって、白子さんとも」
芋窪さんがまた緊張するのがわかった。
「……白子さんは、僕とそういう友達付き合いをしたいっていうことだと思うんですよね」
「わ、わ、妾は別に平入くんがあやつとどんなことをしようと」
「生きる喜びの一つなんだろうとは思います。でも、したことがないので、想像だってできません」
そっと横顔を伺う。怒ったような顔でいる、けれど、ほっぺたが真っ赤だ。そして、みゅーと唇が尖っている。
「人生でこんなふうに、五人の魅力的な女性に囲まれて、それぞれと関係を結んで、触れ合う機会があるなんて思っていなかったので、正直戸惑っています。けど、僕の生きていることが、生きていくことが、少しでもみなさんにとってプラスになるなら、僕はもうちょっと生きていかなきゃいけないなって、……自分の生きることに、前向きになっています」
すぅー……、と息を吸う音。
はぁー……、と息を吐く音。
夜の底に、ずいぶん大きく響いた末に、
「思い上がるでないわ」
低く抑えた声が冬弥の耳へ届いた。
「人の子が、ずいぶんと大きいことを申したのう。妾を誰と思うておる。聖の楓ぞ、まだまだ、短くとも千年を生きる身ぞ」
そう言う芋窪さんを、冬弥は目に焼き付けていた。
もう、こういう芋窪さんはなかなか見られなくなりそうだから。
「人の子一人の生き死にが、妾にとって、どうして力となろうか、どうして痛みとなろうか。妾はだってその……つまり……」
たぶん、もう二度と見ることが出来ない。強いギャル、楓の神的化身としての芋窪さん。冬弥の前ではずっと、恥ずかしがりの女の子になってしまうのだろう。
「妾は……、妾は五百有余年生きたのじゃぞ、人の子が心の中に踏み入ることなど許すわけがなかろうが……、この妾が、人の子と……」
「芋窪さん」
吊掛さんと白子さんと小豆洗さんとつむぎちゃんと、生きる理由のやりとりをした。それはそれぞれ異なるもの、それぞれにそれぞれの望む形として交わされるもの。白子さんが提示したようなラディカルな方法でなくとも、全員が冬弥の中に書き込まれている、彼女たちの中に冬弥が書き込まれている。
やりかたや呼び名は違っても、等しい距離、……手を伸ばして触れ合えて、慈しみ合える距離。
冬弥なりに頑張って、芋窪さんに両手を伸ばしてみた。これは、この間の駅頭でのお返しである。
「ぴっ」
と高い声が一つ跳ねた。
「出来るだけ長生きします」
芋窪さんのほうが少しだけ背が高い。芋窪さんにとって理想的な存在ではないことなど百も承知で、それでも思い上がらせてもらえるならば、
「芋窪さんも、僕の長生きする理由になってください」
「りゅ、り、ゆ、……りゆ……う……」
「僕が帰ってきたら、何したいって思ってくれますか」
「その、そのような……、そのようなことを、妾の口から……」
「えっ……、あの、そんな言えないようなすごいことしたいんですか」
「ちっちちちがうっ、断じてッ……」
高貴な楓の人の心中を勝手に察するのも、失礼なことかもしれないけれど、……きっと芋窪さんの中には、白子さんほどの知識がない。ということは、情報がない。人間・水島喬太郎さんと知り合って、彼と何らかの感情を育むこともしないまま、つむぎちゃんの母親とならざるをえなかったものだから。
つむぎちゃんが芋窪さんに高校通学を勧めた理由は、そこにあるのではないだろうか。
例えば冬弥がいま生きる、青春という時間。
私の代わりに味わっておいでよ。
おばあちゃんであっても、幾つになっても、そういう時間を過ごすことに遅すぎるということはない。また、その時間が長くてはいけないはずもない。平入冬弥という人間が、彼女の青春の側に置かれる者の格として、相応しいとは言い難いことだけが問題である。
芋窪さんは大きな深呼吸を、一つした。
「……急に、そのようなことを言われても。妾には思い付かぬ。エマのような過激なことは妾にはちょっとまだ早すぎるように思うし」
ついさっき五百何年生きてきたと誇っていたはずであるが。
「しかし、ある……、の、やもしれぬ……、未だ見えぬ……、見えぬが……」
困った顔になってしまった。シャツの裾をもじもじいじる姿は、なんならつむぎちゃんよりも幼女っぽさがあるぐらい。
「つむぎが、平入くんの母になりたいと望むのであれば、妾は平入くんのおばあちゃんになるのが筋であるような気もする……。しかし、その、せっかく女子高生でギャルの身なりでやっておるのに、のう……」
「大丈夫ですよ、芋窪さんおばあちゃんには見えないですから」
「……じゃろか。むう……、しかし、つむぎは冴えておるな。確かに平入くんのような子がおったら……、とは思う。なにかこう、平入くんには、幸せにしてやりとうなるものがあるようじゃ」
冬弥の側に何かがあるというよりは、心優しいおばあちゃんたちの中に、若輩者を喜ばせてやりたいという気持ちが備わっているのだろう。ゴールデンウィークにばあちゃんち行ったらさあ、もう、山のようにお菓子とか肉とか刺身とか用意して待ってんの、腹パンッパンになっちゃったよぉ、と島が言うのを、フーンそういうもんなのか、と羨ましいとも思わず聴いていたが、今なら「わかるー」と頷ける。芋窪さんの作ってくれるごはんは美味しくて、あと、量も多い。
芋窪さんと一緒に暮らしていたら、健康になりそうだ。
「平入くん、……有限なる時を生きる『人』の、貴重な時間を妾が削り取るようなことをしてよいのじゃろうか」
「へえ……、そんなこと気にするんですか」
「する、するじゃろ、あれ普通はせんのか……?」
「まあ、僕は考えたこともなかったですけど」
ずっともじもじといじり回しているシャツの裾が捲れて、おへそがのぞく。すっきりとした印象のお腹の、まっすぐなおへそだった。
冬弥でなくても、人間として生きる時間には限りがある。
死は常に自分の内側に息を潜めて存在し、生とはそれが尽きるまでの、それぞれ異なるが共通して絶対的に短い時間において、何かをする時間。生を快楽に溺れて過ごすもよし、苦しんだ末に何かを掴むもよし、掴めなかったとしても、ゆえに価値がないというものでもないはずだ。冬弥は自分に与えられた時間が短いことを自覚した上で、痕跡にこだわった。
「逆に、芋窪さんたちが大丈夫なのかなって思うんです。……みなさん、忘れないでしょう?」
冬弥は音楽という形で痕跡を残す。冬弥の中には芋窪さんたちがすでに深く刻まれている。こののち、生がもしまだ続くのであれば、もっといろいろなところにいろいろな言葉を書き込みあって行こう。吊掛さんの、白子さん、小豆洗さんの、そしてつむぎちゃんが望んだ方法、全て実現出来るとも思わないけれど。
冬弥は遅かれ早かれさっさと死ぬし、人間として忘れることもできるが、芋窪さんたちはそういうわけにはいかない。蓄積してこれから先もずっと生きていかなければならない。
「忘れはせぬよ、……忘れとうない。平入くんと生きた時間があるということは、妾にとって、他の連中にとっても、ずっと持って行きたく思うものじゃ。……もう既に、宝物じゃ」
おへそが出ていることに気付いたのか、芋窪さんはそこから手を離して、言った。
「……では、もう少しだけ猶予をもらおうかのう」
小麦色の頬に、本当に冬弥と同い年の笑みを浮かべる。それは少し恥ずかしそうで、とても清らかで、柔らかい、女の子の笑顔だ。
「平入くんと、したいことを見付けておく。平入くんが手術を終えて戻ってきたときに、妾はきっとそれを告げよう。こんなばあさんが若者の時間を奪うことはずいぶんと気が咎めるのじゃが……、もう少しだけ待って、そして……、妾のために、必ず戻ってきてもらいたいのう……」
理由が全部揃った気がする、……気のせいではない。冬弥は生に執着する。もう少しでいい、生きたい。この人たちの心の中で生き続けるために、笑顔の記憶を一つでも多く、刻みつけて生きたい。どんなやりかたでもいいから、一緒に過ごす時間が欲しい、……ちょびっとだけでもいいから、僕は、吊掛さんといた、白子さんといた、小豆洗さんといた、つむぎちゃんといた、芋窪さんといた!
平入冬弥はここにいた!
「はい」
冬弥が手を伸ばした。ほんの数時間前まで、自分の中に存在しなかったはずの言葉が、冬弥の中にはあった。薄暗く、クーラーの効いた部屋でディスプレイに向かってマウスを動かしながら、沈黙の音楽に浸っているだけでは生み出せなかった言葉だ。
風に乏しい熱帯夜の底を蠢く命の一つに、いま、自分が数えられる。
だから言葉は、力みかえる必要もなくふわりと冬弥の口から溢れた。
「必ず、戻ってきます!」
芋窪さんと、小指を絡める。芋窪さんの小指は、冬弥よりも細い。その指が少しだけ、自分よりも熱い。芋窪さんの持つ温度に、自分から手を伸ばして触れられるようになったのは、この夏の成長として記されていいだろう。
おばあちゃんとの約束を違えるような真似は、断じてしてはいけない。
そんなことはこの心臓にだってできないはずである。




