ハレトケトケガレ
谷戸の邸とは比べものにならないほどにせせこましい平入家である。高嶺のギャルズ、高貴なるお嬢さまたちをお泊めするのに適した場所ではないのだが、
「わしは床でえいがじゃ」
「あたし狐になっちゃえばクッション貸してもらえればこと足りるしなぁ」
「俺はソファでいい」
熊と狐とたぬ……、小豆洗いのみなさんはそうおっしゃる。
「じゃあ私は平入くんのベッドを三分の一ぐらいシェアしてもらってもいいかな。楓果は、ベランダに空いてる植木鉢があるみたいだからそれでいいだろ」
「よいわけがあるか!」
眠れるかどうかは別として、そういう夜が、この部屋にある。ギャルのみなさんは部屋を訪ねることを決めたときからもう泊まる気満々で、バスタオルだとか着替えだとかを携えていらしているのだ。島から貸してもらったラノベというか、わりとエロ本寄りだったなアレ……、と思い出す本に、オタクの家に入り浸るギャルという話があったことを思い出したが、フィクションはこんな形で現実となりうるらしい。
お風呂だけは、どうにも狭い。しかし、一人ずつ入っていたのでは寝るのが真夜中になってしまうからと、ギャルズ五名さまは組み分けじゃんけんをする。芋窪さんと小豆洗さん、白子さんは単独、吊掛さんとつむぎちゃんという組み合わせ並びに順番となったようである。
「いつもみなさん一緒に入ってらっしゃるんですか」
冬弥が初めて泊まらせていただいた日には、冬弥が入っているところに吊掛さんと白子さんが乱入してきた。
皿洗い、手伝ってくれる吊掛さんに訊いてみる。
「五人一緒に入りゅうこともあるがじゃ。まあ、今更お互い何も気にせん、女同士げな、ばあさん同士の女湯が」
まあ、誰一人「おばあさん」に見えないので困るのだ。冬弥としてはいま自分ちのお風呂のお湯に芋窪さんと小豆洗さんが浸かってるんだなぁ……、と想像して、悶々としそうになる。
冬弥の横顔を覗き込んで、
「今度は平入くんも一緒に六人で入るがじゃ」
吊掛さんが揶揄う。
「そっ……、そんなの、そんなのは、ダメですよ、だって……」
いったいいくつぐらいの法令に引っ掛かるものやら。しかし、実のところ一個も引っ掛からないのである。それでも冬弥は冬弥自身が五人に対して害のある存在になってしまうことを恐れた。
「『まじめ』なぁ。実のところわしらは、平入くんがそうしゆうが、何も構わんが」
「あ、あんまりびっくりさせるようなこと言わないでください」
お皿を取り落としそうになってしまったが、吊掛さんはくすくすと笑う。
「こんな大女が、何も思わんがじゃ。じゃども、平入くんが入りよう思うが、わしはいつでもウェルカムがじゃ」
並んで立つと、その大きな身体を余計に意識させられる。頭ひとつ以上、吊掛さんのほうが大きい。身体の厚みは、女性として出っ張っているところを除いたって倍近くある。
けれど、冬弥は吊掛さんがそういう体型であることと、吊掛さんを女性として意識しないということは全く別の話であると主張したい。逆にいえば、吊掛さんがとても大きいということと、吊掛さんにそうした魅力を感じてしまうことは、直結しているとさえ言えるのだ。スケバン時代に「大熊のエツコ」と恐れられた女性、しかし、まさしくその大きくて熊のようであるところが魅力であると冬弥は信じている。
「あんまりそんな、揶揄わないでください……。僕は、吊掛さんのことすっごい魅力的な女性だって思ってるんですから……」
こんなことを言ったら、また揶揄われるだろうかと思った。
けれど、吊掛さんから言葉はなかなか返ってこなくて、そっと伺ったら、彼女の頬は少し赤く染まっているようだった。
彼女はそのことを自覚したように、照れ臭そうに笑って見せる。「こんなばあさんが、嬉しゆうして」と咎める言葉には、優しい甘さが混じった。
「……吊掛さんを魅力的だって思ってるのは、僕だけじゃないです。っていうか吊掛さん、男子の友達いっぱいいますよね」
ギャルズ四人、それぞれ高校において他者との付き合いの距離には差がある。
意識的に大きく距離を置いているのは地金がバレることを恐れる芋窪さん、自分から積極的に近付かないのが小豆洗さん、男子高校生と遊ぶことが高校に通うことの動機だった白子さんはぐいぐい行く、そして吊掛さんは、白子さんとは違うけれど、交流の幅が広い。二人ががどちらも、早い時期から人間と関わって生きてきたからだろう。
吊掛さんは明るい。そして、人間に、とりわけ技術というものに対しての素直な敬意を隠そうともしない。
男たちは、そういう吊掛さんに惹かれる。特別な関係になりたいと願う男子も少なくなかったはずだ。
「あー……、まぁ……」
吊掛さんは苦笑する。
「がなぁ、わし、この身体がじゃ、潰しちゅうが。何人かは、付き合うがじゃ、けど、やっぱりなぁ」
本当に「潰す」ようなことは、吊掛さんは絶対にしないはずだ。
冬弥は想像する。
吊掛さんは熊である。ご自身が熊である、という自覚を持ったうえで、人の世の中を生きている。彼女はその大きな身体、強い力ゆえに、人間との縁を組み立てることが出来た。一方で、自身のその身体が人間にとって害になる宿命を帯びていることを、とても強く意識している。
それは冬弥が男である以上、吊掛さんにとって常に害のある肉体でありうるということを意識するのと同じだ。
「わしは、でも、なぁ。平入くんと、デートしたが。あれは、わしにとって他のどがんことよりもずっと、深い深いとこぉで平入くんと繋がゆうことがじゃ」
もう皿洗いは終わっているが、並んで話をしたい気持ちは、冬弥の中にも吊掛さんの中にもある。それがなぜだかわかるのは、二人で並んで歩いた記憶が冬弥の中に書き込まれて、読み返すたびに嬉しい気持ちになる物語だからだろうか。
「また、デートしましょう」
これは、冬弥としては相当な勇気のたまものである。その割にはシンプルで、キラキラしていない言葉である気もするが、そこはもう、そもそもがキラキラしていない人間の言葉であるところで諦めてもらうのがいいだろうか。
冬弥の中にはもう吊掛さんがいた。吊掛さんと一緒に乗った「吊り掛け駆動方式」の電車、耳にした音、見た景色、肌に感じた夏の陽射しの熱、その背中にしがみついて捉えた風の速度、人生最初のデートで体験したあらゆることが、吊掛さんとの記憶として冬弥の中に刻印されている。記憶は虫歯の治療痕とも違う、見えないもの、形には残らないもの。であるがゆえに、灰になったからといって消滅したことを証明することが誰にもできないものだ。無論それは、存在することを証明できない悲しさと表裏一体のものではあるけれど。
吊掛さんの中にも、もうきっと、冬弥が書き込まれている。
たとえ妄想に過ぎなかったとしても、この歳まで生きて、吊掛さんと出会ったことで、吊掛さんの中に平入冬弥が居る。座ってか、寝そべってか、それとも所在なく立ってかはわからないけれど、この夏の冬弥が生きている。
「うん。するがじゃ。いっぱい、な」
タオルで拭かれた大きな手のひらが、冬弥の髪を撫でた。
「わしには、こがないい友達が出来たちゃな。長生きがせんがならんじゃ。一緒に、たくさん……、たくさんな、楽しい思い出が作って行かんがじゃ」
とてもいいところに置いてもらえた、という感覚はきっと間違ってはいないはずだ。
恋や性愛というものに対して前向きではないらしい吊掛さんにとって、「デート」という呼びかたはさておき、その位置付けは、男女という枠を超えて、一番大事に扱うポジションに違いないと信じられる。
「はぁ……、良き湯であったのう……」
部屋のほうから芋窪さんの声が届いた。浴衣の美人とTシャツの短パンのボーイッシュ女子がリビングにいる景色、冬弥には、なんだか夢のようだ。
「狭くありませんでしたか。あ、麦茶どうぞ」
「かたじけない。……まあ、勝手に押しかけて来た身じゃ。それに、風呂というのは狭さや広さではなく掃除が行き届いておるかどうかで。平入くんはとってもマメなのじゃなぁ」
「平入、ベランダ出ていいか」
小豆洗さんに訊かれて、「いいですけど、蚊に刺されないでくださいね」と麦茶を手渡す。次は白子さんの番である。彼女はずっとソファでつむぎちゃんと一緒にスマートフォンをいじっていた。ピンク色の髪のツインテールと金髪幼女は、スマートフォンの扱いに大いに慣れている。
「よし。じゃー入るか」
「どうぞごゆっくり」
「あ?」
言った冬弥の、シャツの裾を掴む。
「何言ってんだ。リーも一緒に入るんだよ」
白子さんが立ち上がったことで空いたスペースに腰を下ろしかけた芋窪さんがずるっと滑って尻餅をつく。顔面に麦茶がびしゃっとかかった。
「何をやってるんだ楓果は人んちで」
つむぎちゃんが呆れた声を上げ、
「集合住宅であんまりドスンとか音立てりゃあせんがじゃ」
と吊掛さんが叱る。しかし、どう考えても悪いのは芋窪さんではない。ニヤー、と意地悪な笑みを浮かべる、この狐のお嬢さんのせいである。
「例えばさぁ、リーは、男に生まれたわけじゃん。男の身体っていうのはそういう形をしてるわけじゃん。それはさ、リーだけが得なことじゃーないわけだ。わかる?」
冬弥が何よりも優先して言いたいのは、白子さんはすっぽんぽんではない、ということである。
いや、すっぽんぽんである時間もなくはなかったのだ。身体を洗う間、確かに白子さんはすっぽんぽんであった。しかしそのあいだ冬弥はすりガラスを隔てて洗面所にいた。「もういいよー」という声が届いて、すりガラス越しにちゃんと彼女が水着を纏ったことが確認出来てから、
「お邪魔します」
どうして自分ちのお風呂に入るのにこんな緊張しなきゃいけないんだと嘆きながらも、結局足を踏み入れたとき、冬弥はタオル一枚携えてはいるけれどすっぽんぽんである。
で、冬弥が身体や髪を洗うのを楽しげに眺めながら、白子さんは右のようなことを言ったのである。三百年以上にわたり、数えきれない男と共に時間を重ねてきた女性の、男性観とでも呼ぶべきもの。
「わかります、けど」
「あたしは、見た目はどうかわかんないけどさ、……もうちょっとなんとかなんないかって思うこともあったけどさ、でも、こういうのがいいって言ってくれる男も多いわけで。高望みはしないけど」
白子さんの見た目が魅力的であることは明白である。冬弥だってすごいなぁと思って見ていたし、島や村上が彼女に、それはもうはっきりと性的な意味で惹かれていることも知っている。
そしてまた、冬弥は自身も例外ではないことを、渋々ながらに認める。そういう女子と、上下に分かれた水着を纏って、この密室の中で二人きりというのは、たぶん冬弥の健康にはあまり好ましくない事態である。
だから芋窪さんはキレた。キレ散らかしたのである。
「こーの淫乱阿呆狐めが! 何を言い出すかと思えば……」
なんて、だいぶ酷い悪口まで用いて。
でも、白子さんは譲らなかった。「水着持ってきてるんだからいいだろ。それに、リーだって男の子だぞ。あらゆる男の子が持つ当然の欲があって、それをリーだけが叶えられないなんて道理があるかよ」と言い返したとき、芋窪さんが一瞬言葉に詰まった。
「楓果、落ち着け。あと夜なんだからあんまりでかい声を出すもんじゃない」
つむぎちゃんがそう嗜めて、芋窪さんの浴衣の帯をぎゅっと握る。
「エマの言うとおりだ。平入くんにはそういう自由があり、エマにもまたそういう自由がある。それとも楓果は、平入くんがエマに対してそういう欲求を催すことを否定するのかい? 自分がエマの代わりにそれを受け止める役割を担うとでも言うつもり?」
「んッぐっぐぅ……」
「楓果のそういう高潔なところ、素晴らしいと思うし私も大いに尊敬するところではあるけれど、一方で年頃の身体をした男女であることを尊重することも、君はするべきじゃないかな。私が平入くんとそういうことをおっ始めると言い出したときには、もちろんそれを止める権利が君にはあろうけれど」
「がッ……ぎっ……」
ベランダで涼んでいた小豆洗さんが、からからと戸を開けて、
「どうでもいいが、エマがさっさと入らないとつむぎとエツコの寝るのが遅くなるんじゃないか」
たいして興味もなさそうに言ったので、冬弥は結局白子さんと一緒にお風呂に入る羽目になった。いや、「羽目」なんて言葉を使ってはいけない、本来とても光栄なことだ、……しかし、そういう言葉で定義しておかないと、本当に自分の理性と心臓がどうにかなってしまいそうなのだ。
「あたしはもうずっと、人間じゃーないからさ、っつーか人間になったこともないし、そもそも男になったこともないからわかんないんだけど」
三百年間「男」と接してきた霊狐が、バスタブの縁に頬杖をつく。
「でも、リーは、ちょっと違うんだよね。そういう欲みたいなん、ない感じ?」
「……ないわけないじゃないですか……」
身体を洗い、頭も洗い、濯ぎ終えてしまった。白子さんが膝を抱える。そうではなくて……、と思うのだけど、出てくださいとも言いづらい。自分の家のバスタブであろうとも、やっぱりこういうときには「お邪魔します」という言葉が出てきてしまうことが避けられない。ただ、彼女の、柔らかそうな肌に触れないようにぎゅーっと小さくなるので、あまり疲れは取れなさそうだ。
「えーじゃーガマンしてんのか。ガマンは身体によくないぞ」
「我慢っていうか……」
もちろん、男としての欲はある。これほど魅力的なボディラインの白子さんが、水着だけで一緒のお湯に浸っているという状況を、活かさない手はないと考えるのが自然なのかもしれない。
けれども、責任が取れない、と思うのも当たり前の感覚ではないだろうか。
「責任? 責任なんか取んなくていいのに」
「そう言われましても……」
「どっちかだけが楽しんでおしまいだったら、そりゃー責任の話かも知んないけどさ」
むしろ、その後の話である。
冬弥は「何か」が起きたときに、白子さん(でなくても、女性)の側にいることができる保証がまるでない。責任を取ることを前提に、時間を、幸福を共有したすえに、この世界から消えてしまうようなことは、とても無責任だと思うのである。「責任を取る」なんて意思表示をした上で裏切るのだから、無責任や能力のなさでそれを放棄する以上に責められるべきことではないか。
冬弥がしどろもどろになりながら並べた言葉を、首を傾げて聴く白子さんの顔は、案外に真面目である。無垢に見えると言い換えてもいい。
「ほーん……」
と言ってから、「あちぃ」と呟いて立ち上がる。水着を纏っていると言っても、それはだいぶセクシーなビキニであって、もとより目のやり場に困るところ目の前にマイクロな三角形が飛び込んでくるのだから、本当に健康によくない。
ちょこんととバスタブの縁に座った彼女は、ぽむ、と冬弥の頭に手を置いた。
「あたしがねぇ、リーが特別だなって思うのは、そういうとこなんだろうな。リーは、ぶっちゃけ死んじゃうかも知んない。だから余計に、残しておきたいなって思うんだ」
「残して……」
「勝手な話だよ、あんたが『無責任』って言った、まさにそこ。……まー、三百何十年生きてヤッて来てさ、でも、一度も責任の話になったことはないから、……あたしもあんたもそんなに不器用で大雑把じゃないとは思うけど、それだっていいなって思うわけさ」
話している内容とは裏腹な真面目そのものの顔だった。そして口調は、以前聴いた江戸っぽいものになっている。
「あたしたちは、どのみち生きていかなきゃなんない。リーが、……リーには長生きして欲しいけどさ、ずっとずっと生きていて欲しいけどさ、でも、そんなもんはこっちの都合、あたしらのワガママなわけで。それならそれで、あんたが生きた証を、あたしの中に刻んでおいてもらえたらいいなって思うんだ。だってさ、同じ響きなわけじゃん?」
響き。
訊き返しかけて、慌てて口を噤んだ。生きる、生きる。
冬弥が辿り着いた答えに、またニヤァっと笑って白子さんが頷いた。
「そのものズバリって思うかい? でも、偶然なわけないサね。生きものの中には最初からそれが含まれてるんだよ」
死という運命もまた、人間の中にあらかじめ含まれるものだという解釈に、冬弥は至っている。それが冬弥の場合、生まれつきの心臓の設計図という形に如実に現れているが、誰の中にも遅かれ早かれ生じ、生命を断つものが「生きもの」における死である。
しかし白子さんは「生きもの」は同時に「イキもの」だと言うつもりなのだ。
生命そのものへの自然な欲求、極めて正当な表現としてのそれを、全面的に肯定して白子さんは、三百年以上を生きているし、これからも生きてイクつもりなのだ。
「リーは、生きたい?」
「……それは……、まあ、はい……」
「死ぬことも『逝く』って言うよな。だから、それとごっちゃにならんように、生きるために、カタカナにしちゃえ」
自分の中にある欲が、そんなふうに肯定されるものであるなどとは思ったこともなかった。長生きをすることが前提の生ならば、そういう瞬間を夢見ることだってあったかもしれないけれど。
「いっぱいイキなよ。生きていいんだ。イキたいだけ生きればいいんだ。だって、そういう生きものなんだから。でもってさ、その生きた証を、あんたが気が向いたときにでいいから、すげー気軽な感じであたしに分けてくれたら嬉しいなぁって思ってるっていう、そんだけの話サ」
ここで倫理を持ち出すのは間違っているんだろうな、と冬弥は推察する。三百年以上そうやって生きてきた白子さんに、長くとも八十年九十年しか生きられない人間都合の倫理を押し付けることには、ほとんど意味がない。長生きを宿命づけられていればこそ、白子さんは一瞬一瞬の快楽というものに強い意味を見出す。
そうであることを肯定するところから、冬弥は未来を始めればよい。現状、スタートラインにさえ立っていないけれど。
「だからさ、元気になって戻って来いよな。ずーっと仲良くしようよな」
再びお湯に浸かりなおした白子さんのおでこが、こつんと冬弥の額に当たる。
「待ってるからさ」
これはきっと、恋とは呼ばない。白子さんに恋愛の対象として捉えてもらえるような自分では到底ない、……彼女が、いったいどれほどの人数の男とそうした遊びかたをしてきたかは想像もできないが、そこについては確信している冬弥だった。けれど、冬弥の心臓は明らかに、震える。あ、こんな動きをすることがある心臓だったんだと、戸惑う、……幸いにしてそれは、彼がHCMの患者として最も恐れるべき、致命的な不整脈ではないようだったが。
頬に、羽毛のような感触。
「唇は勘弁しといてやる」
白子さんが喉の奥で笑いを潰す音が、耳をくすぐった。
「その代わり、ちゃんと生きて帰ってこいよな」
こう願うことの妥当性に、人間として胸を張れる気もしないのだが、冬弥の中に願いが生まれたことは紛れもない事実だ。
「……はい、……あの、はい」
つまり、……イキたい、と。
ややのぼせ気味で出てくることとなった冬弥である、まあ、無理からぬことではあるが。つむぎちゃんの注いでくれた麦茶で喉を潤し、あまり冷たい風に当たるのもよくないと、夜風に当たるべくベランダに出たら、小豆洗さんはまだいた。彼女は空の植木鉢をひっくり返して椅子代わりにしてながら、スマートフォンで音楽を聴いている。
油断があったわけではないだろう。むしろ、音楽に没入していたせいで、冬弥に気付くのが一瞬遅れた。冬弥には、……彼女のスマートフォンの画面がちらりと見えてしまった。
イヤフォンを外した彼女は表情を変えない。
「……随分長かったな」
冬弥ももう一つある植木鉢に腰を下ろして、言葉を濁す。
「エマに何かされたか」
「いえ何もされてませんが」
打てば響く勢いで否定することで、かえって怪しさを演出してしまっただろうか。しかし、本当に何かをされた/したということではない。冬弥が生きなければいけない理由が一つ増えただけのこと、しかし、それでだいぶ十分。
小豆洗さんはベランダから見える夜の空を眺めながら、
「どの程度のことが決まっているんだ」
と問うた。
「どの程度、と言いますと」
「文化祭の、ライブのことだ。誰がどのパートをやるのか、どの曲を演るのか」
その問いかたから察するに、小豆洗さんはすでに冬弥がアップロードした楽曲を全部聴いてくれたのだろう。もちろん、理由はあの「黄色」というバンドの人が聴いてくれているからに違いないが、それでも嬉しいことである。
「まだ、全然……、演りたいって言っていただけることも想定してませんでしたし」
「ベースは俺がやる」
静かだが、強い意志を感じさせる声だった。
「ボーカルは、エマか楓果にやらせればいいだろう。エツコはドラムだ。体型で言っているんじゃないぞ、あいつには天性のリズム感がある」
「電車が好きだからでしょうか」
「……ん?」
「あの、ガタンゴトンっていう、車輪が線路を踏み締めるリズムが、身に染みているからかなって」
「ああ……、そうなのかな、それはわかんないけど……、と、とにかくベースは俺がやる」
やりたいのだろう。もちろん、やりたい楽器を楽しく弾いてもらうのが一番だ。そういえば小豆洗さんが好きな「黄色」のあの人も、ベースである。機械のように正確なリズムを刻んでいて、とても格好良かった。
「どれぐらいの時間がもらえるのかは、まだわからないですけど。たぶん演れて五曲とか多くて六曲ぐらいだと思うんですよね」
「だいたいそうだな。文化祭のライブは何度か見に行ったが、この間連れ行ってやったみたいなライブのようにちゃんとした感じじゃない。……時間は常に確実に押すものだと思っていい。……お前の中で、この曲は外せないというものはあるのか?」
小豆洗さんは、表情こそいつもと同じで淡白そのもの。
だけど、赤い瞳が煌めいているように見えるのは気のせいではないはずだ。
こんな想像をする。……小豆洗さんはこれまでずっと、バンドをやってみたかった。実際に、誘われればいつだってそれができるぐらいのスキルを持っているだろうし、音楽の知識も当然備わっているのだろう。この人は、音楽が本当に本当に好きなのだ。吊掛さんにおける電車、白子さんにおける男子との「遊び」に値するものが、小豆洗さんにおいては音楽であって、でも他の二人のようにそれを実践するということを自らに禁じてきた。
最後は人間に置いて行かれてしまうのが、寂しいから。
かといって性格上、他のみなさんに「なあ、バンドやらないか」なんて言い出すような小豆洗さんであるとも思われない。
「僕もなんとなくですけど、芋窪さんと白子さんがギターとボーカルで、吊掛さんと小豆洗さんがリズム隊という形が安定しそうだなと思っていました」
うん、と小豆洗さんは満足げに頷く。話しづらいな気まずいなという感じは、あのデートの最初の数十分だけ。ちょっとばかり愛想がないというだけで、冷たいわけでは決してない、むしろとても普通の女の子なのではないかという気が、冬弥はしている。ただ、そんなことを口に出したらまた怒らせてしまいそうな気がするので、言わぬが花という言葉もある通り胸に留めておく。
「緊張しているのか」
不意に、小豆洗さんがそんな問いを向けた。
「はい?」
「言うまでもなく、手術のことだ」
冬弥は、ちょっと考え込む。「うーん……」と唸り、なお答えが出てこない。
「自分のことなのにわからないのかよ」
小豆洗さんが、ちょっと呆れる。冬弥の頬には苦笑が浮かんだ。
「まあ……、うーん、そうですね、緊張とか、そういうのはあんまりないです。いま小豆洗さんに訊かれて初めて、『ああそうか普通の人は緊張するのか』って思いました」
別のマイナス感情があるのかと問われても、やっぱり、何もない。カレンダーの九月十二日に、文化祭と書き込まれていたところ、二重抹消線で決して「手術」と赤字で書き込んだだけ。
「もしかしたら、ですけど。文化祭でみなさんのライブを直に見られるって状況のほうが緊張しちゃうかもしれないです」
「俺たちがミスるとでも思ってるのか?」
「それは思わないですよ、絶対大丈夫だと思ってます。でも、それとは別に、やっぱり自分の曲が演奏されて人に聴かれてっていうことには、経験したことのない緊張があるものだと思いますからね」
それに比べたら、手術なんてものは、もちろん全身麻酔を施した上で行うわけだから、寝ているうちに済んでしまう。冬弥は全身麻酔の経験がなかったが、父によれば「本当にもう一瞬」だと言っていた。父は昔から不眠症のきらいがあって、特に入眠に時間を要するタイプなのだが、「後にも先にもあんなにストンと眠りに落ちたことはなかったなぁ」と、まるでそれが幸せな体験であったかのように振り返っていた。実際に執刀する先生や、それをサポートする人たちはきっとものすごく緊張するのだろうけど、冬弥は何も構える必要がない。
その後の、ものすごく大変だというリハビリに思いを馳せて、ちょっと憂鬱になるぐらい。しかし、リハビリの苦痛を味わう機会が巡ってくるならば、それは幸運なことと言えるだろう。
「僕はそのとき寝てますけど、みなさんが素敵な演奏をしてくれることについては何の心配もしていません。っていうかむしろ、弾くのが僕の書いた曲ですみませんっていうか。あの、『黄色』の人の作った曲、許可得られたら一曲演らせてもらったらどうでしょう」
これは夏よりも前のことだが、アップロードした楽曲にこんなコメントが寄せられたことがあった。
「とても優れています。自分の半分の年齢の高校生がこの曲を作ったという事実に、嫉妬を覚える」
無論、こんなに嬉しいコメントはそうそうない。残念ながらこのとき、この人の作成楽曲にはロックが掛かっていて聴けなかったので、どんな曲を作る人であるか知ることは出来なかったが、つい先日、このコメントをくれた人からアカウントをフォローされた。
あの「黄色」の人だった。
「それも悪くないが、……あの人たちの曲は、自分たちがコピーするよりも、あの人たちが演奏するのを聴いたほうがいい」
「それもそうかも知れないですけど」
「それに、……どうせなら、あの人たちと対バンして、同じステージで演れたらいいな」
それは、とても素敵な話だ。聴いた瞬間、冬弥の胸の奥に、ぼっ、と音を立てて火が点いたような気がした。一応は現役高校生である小豆洗さんたちのバンドがああしたライブに出演することが可能なのかどうかは、冬弥には現実の選択肢として今日まで捉えたことがなかったものだから判然としない。
けれど、あのカレーの美味しい「スパイスホール」みたいなハコで、「黄色」たちと小豆洗さんたちが順に演奏をする……。冬弥も「愚者の流浪」「ノイジーエレッファント」「黄色」と三組全部のパフォーマンスを見たように、お目当てのバンド以外の演奏も見る仕組みだ。芋窪さんは他の二つのバンドの音源も「全部持ってる」と言っていたし、「黄色」の出ないライブにもしばしば行くそうだ。入り口は異なる場所に設けられた一つであっても、中で混じり合い、伝染する。
他のバンドのファンも、小豆洗さんたちの音楽を聴くのだ。僕の書いた曲を……。
「そんなのは、まだずっと先の、夢の話だけどな」
小豆洗さんはあくまでも淡々としているのだが、「夢」なんて言葉をさらりと口にするのが心憎い。それから彼女はご自身の黒髪の中へ手を入れて、おもむろに指を絡めて、……ぷつん、と一本抜いてしまった。
「これをやる」
差し出されたのは、癖のない綺麗なカーブを描いた小豆洗さんの黒髪。
「……え、なんでですか」
「縁起物だと思え」
「縁起物……」
手のひらに乗せられた、重さというもののない存在と、本来の所有者である女子とを見比べる。女子の髪の毛を持っているというのは、なんだか、少しフェティッシュで、第三者から見たら気持ち悪がられそうだなという気もするのだが。
「手術をするんだろう。余計な部分を身体から抜くんだろう」
まあ、そういう見方も出来ようか。心臓の一部分を切り取るのであるから。
「だったら、俺の毛はきっと少しぐらいは役に立つ」
なぜだろう……、と考えを巡らせて、数秒、
「あ」
謎というよりは、なぞなぞが解けた。
小豆洗さんは、狸。
狸のお守りというものがある。勝負事に臨むにあたり、「他を抜く」ので狸は縁起がいいという解釈だ。
そんな小豆洗さんの毛である。
ケ、「ハレ」に対するものとして、日常を意味するのが「褻」であることはよく知られているが、日常を送るために必要な活力が失われてしまった状況が「褻枯レ」であるという捉えかたがあるらしい。
狸の毛。
要らぬものを抜き、「ケガレ」転じて「穢れ」を払い、かけがえのない日常としての「ケ」を送る命の力の依代。
冬弥の書いた楽曲に、「ハレトケトケガレ」というタイトルのものがある。当然その言葉の意味を知っていると見越して、小豆洗さんはご自身の大事な身体の一部を、冬弥に持たせてくれたのだろう。
「ありがとうございます」
大事にしなければいけない。今この瞬間から、手術当日も、その後も。でも、急に緊張らしきものが芽吹き始めてしまった。だって、この髪の毛一本もらっただけで、冬弥は自分の命が少なくとも小豆洗さんの綺麗な髪の毛ぐらいの強さと長さを伴わなければいけなくなった気がするのだ。おいそれと死んでしまったら、小豆洗さんには重大な裏切りと受け止められてしまう懸念がある。
吊掛さんとは、また電車に乗りに行きましょうと約束した。白子さんとは、……本当にそういうことをするかどうかはさておき、また遊ぶことになるだろう、彼女の好きな喫茶店だってまだ一つしか行っていない。
小豆洗さんとは、やっぱりまた、ライブに行きたい。いろんな音楽を一緒に浴びて、ごはんを食べたり、感想を言い合ったり出来たらどんなに素敵だろう。きっと小豆洗さんはあんまり笑ってはくれないのだろう。けれど、そうであったとして、冬弥の幸せのサイズが小さくなるわけではきっとないだろう。
「あの、小豆洗さん」
だから、勇気を出して、言ってみた。
「脈を聞かせてもらってもいいですか」
訝しまれることはなかった。
「胸以外の場所からなら構わないが」
そう言うので、じゃあ、とその白く細い首へとそっと手の甲を当てる。きっと白子さんとさっきお風呂に入っていなかったら、こんなふうに自分から女子の首に触れてみようなどとは思わなかったはずだ。経験の度に成長(と呼んで差し支えないはずだ)して、冬弥はいま、小豆洗さんの体温と鼓動を、自分に映し取るように目を伏せて捉えている。
ひんやりとした小豆洗さんの手が、冬弥の首を捉えた。
「……死ぬなよ、平入」
水面のように静かな声で彼女は言った。
「戻ってきて、……俺と一緒にまたライブに行くんだ。俺が演るための音楽を、たくさん書くんだ」
ああ、そうしなければいけないと、冬弥は思って目を開けた。
冬弥は彼女の願いを叶えてあげなければいけない。白子さんが提示した響きの字面違いをここに持ち出すならば、小豆洗さんは祈りをこめてベースを弾くのだろう。きっと、とても淡々と、顔色一つ変えずに。
「お守りを頂いたので、はい、大丈夫だと思います」
冬弥が彼女の首から手を離しても、小豆洗さんは冬弥の心臓の音を数えるようにずっと触れている。それだけでは足りないと思ったのか、彼女は冬弥の背中に両手を回し、首筋に頬を当てることで冬弥の心臓を捉える。
指先はひんやりしている、手のひらも。でも小豆洗さんの身体はじんわりと温かくて、心地よい。彼女がそのことを誰かに知らせるのは、これが初めてのことかもしれない。
大切な大切な友達を抱き締めながら、冬弥も彼女の健やかな鼓動を、大事に数えて、自分の心臓に、ほら、こんなふうにするんだよと言い聞かせた。




