胸を開く
ちらし寿司に、谷戸の邸の畑で採れたというトマトやきゅうりのサラダ、こんがり焼いた厚揚げに、お吸いもの……。
豪勢で彩り豊かな夕食が、いつもは暗くて痛々しい静けさが支配する平入家のリビングを掛けてを満たしていた。なにせ実質一人ぐらし、クッションの数も足りないし、ソファだってテーブルだって狭いのであるが、それでも、
「うん、じゃあ、食べよう。いただきます」
というつむぎちゃんの声で、夕餉が始まる。
台所で主に腕を振るったのは芋窪さんであるが、オール電化のキッチンは彼女にとって相当に働きにくい場所であったようだ。炊飯器含め、白子さんが操作してくれなければお米だって炊き上がらなかったはずである。そのお米は小豆洗さんが素晴らしい手際で研いでくれたものであり、炊き上がったお米に鮨酢をまぶしてうちわで仰いだのは吊掛さんである。冬弥は賑やかな調理風景を、ただソファで、ときおり頬をつねったりしながら眺めているばかりであった。
「おいしい……、おいしいですね、やっぱりすごく、すごくおいしいです……」
今朝まで病院にいた身とは思えないほどの食欲が、内側から湧いてくる気がした。大好きな人たちが自分の身を案じて、力を合わせて作ってくれたごはん、そこから道理では説明できないパワーを受け取るのは、ちっとも不自然なことではないはずだ。
「これぐらいのこと、造作もない。早う元気になってまた邸に来たなら、これから先も何度でも平入くんのために作ってしんぜよう」
台所で「ひー鍋を乗せただけで湯が沸いて来よるなんなのじゃあぁ」と怯えた声を上げていたのはばっちり聴こえていたのだけれど、そこを敢えて突つく必要はないだろう。芋窪さんが言ってくれたように、未来にこんな美味しいごはんを、何より、素敵な人たちに囲まれて食べることができたなら、どんなにか幸せだろう。
そう願うことさえも、空虚な幻想に過ぎないのだとしても。
「僕、病気なんですよね」
幸せの食卓に並んだお皿が空になって、みんなのお腹が膨れたタイミングで、冬弥は言った。
もうこれ以上隠しておくことは出来ない。それは自分のことを心配してくれるこのおばあちゃんたちに、あまりに不義理だ。
「この間のは、ちょっと貧血とか、熱中症になりかかったっていうのではなくて、僕の根っこにある病気が、……まあ、あの、人よりちょっと疲れたかな、ぐらいのときに顔を出してしまうんです」
クーラーの音が、部屋の底を這った。
「それは」
声を発したのは、斜向かいに座った小豆洗さんだ。彼女自身、自分が一番に声を発したという事実に驚きを催したらしい。冬弥も驚いたところではある。
「……どういう」
漠然とした問いかたではある。彼女が問いたいのは、病気の名前ではないだろう、深刻さの度合いだ。しかし、そこに踏み入ってしまうことに抵抗を覚えて、ぼんやりしたところで言葉が止まってしまったに違いなかった。
どこから、どう話そう。どんな言葉を選んだとしても、その深刻さを薄めることが出来るわけではない。例えば、
「生まれつき、僕の心臓は病気なんです」
と言ったとして。
仮に、微笑みを浮かべて、自分にとっては既知のこと、大袈裟な言葉を使うならばすでに「運命」として受け容れているのだとしても。
大好きな人たちに傷を負わせたくない。けれど、もう隠すことは出来ない。
「HCMっていう名前の病気です。日本語で言うと、肥大型心筋症といいます」
生まれつき、といっても、生まれたその瞬間から心臓に異常があったわけではない。遺伝子、人間にあらかじめ書き込まれた設計図に、そうなることが定められていたもの。
冬弥の場合、中学に に入ってから、心臓の形にある種の特色が顕在化し、その病名が授けられることとなった。
冬弥はこんなひょろひょろの身体であるが、心臓の底部、心尖部と呼ばれる箇所は肥厚している。これにより、胸に痛みが出たり、動悸や息切れ、負担がかかると貧血を起こしたり、最悪の場合致死性不整脈を惹き起こすこともある。冬弥の場合、不整脈を予防するために毎日の服薬は欠かせない。国からは難病として指定されている。
患者の半数以上のケースにおいて、遺伝子異常が関与していると言われる。
父も同じ病気である。
更に言えば、祖父も。
「それは」
最初に訊いたのが小豆洗さんだったからだろう、小豆洗さんが、聞き手を担うことになってしまったのは、少々気の毒な気がした。
「治るのか」
「まあ、……手術をすれば、完全に治すことは出来ないですけど、普通の人と同じぐらいの生活は送れるっていう話を、……おとといの朝、聞きました」
「おとっ……」
これは、芋窪さんの声。結果的にあの通り、ひっくり返って迷惑をかけることになってしまったが、それを除けば冬弥は、決して病気のことを表しはしないように努めていた。
なんだか、とても罪深いことをしている気持ちに冬弥はなった。父が半分信じているところに従えば、まさしく「罪」に対する罰として抱えることになった病気でもあるので。
「いまは、ちょっとした眩暈とか、まあ軽い貧血みたいな……、そういうのが起きる感じです」
見えないカッコの中に、たくさんの秘密を隠していることに、きっと五人は気付いているはずだ。それでも、そうせざるを得ない、そうしたいと願う気持ちまでをも、きっと五人はわかってくれるはずだと、冬弥は甘える。
心優しいおばあちゃんたちに、思いっきり、甘える。
「それは……」
「運動とかはしちゃまずい?」
白子さんが問うた。普段とあまり変わらない声、そう努めようとしてくれている声だ。
「リーは、いつも体育見学してるよな」
「まあ……、何もできないってわけじゃないんですけど、でも、やらないほうが無難ってことで、そうさせてもらってます。でもあの、日常生活を送るのに伴うぐらいの運動だったら別に、どうってことはないんですけど」
あわててカバーする言葉を放たなければいけなかった。五人と過ごした時間の中で、自分の身体にとってリスクになる瞬間が一つもなかったと言えば嘘になる。
それを超えても掴みたい時間だったと言うことを、許してはもらえないだろうか?
男子高校生として、夢のような時間だったと思うのだ。魅力的な同級生の女子たちと、かわるがわるにデートをして、どきどきするような体験をいっぱいした。この人生が祖父や父のように、あるいは父よりも、短く儚いものであることが避けられないならば、これぐらいの楽しみがプレゼントされたっていいじゃないか。
「おとといの朝、手術することが決まったんです」
冬弥と父の心臓をずっと見守ってくれている、あの不景気な顔の先生がもたらした二つのニュースのうちの一つである。一つは、冬弥の心臓がやはり父と同様の経緯を辿っていること。そして、もう一つは父と同様の状況に至らないようにするための手術が、可能な環境にあること。
さすがにあの先生は「いいニュースと悪いニュースが」なんて言い回しはしなかったけれど。
父は手術を出来ないまま年齢を重ねた結果、脳梗塞を発症した。心臓にできた血栓が、不整脈によって脳に飛んだのだ。命の危険は脱したが、今も少し麻痺が残っており、生来の身体の弱さも手伝ってなかなか退院に至らない。この病気が曽祖父哲太郎の犯した罪を贖うためなのだとすれば、病弱さで冷遇された祖父、その早逝により少年期は貧しさで苦労し、若いころに手術を受けることが出来ず脳梗塞に至った父、そしてその息子の冬弥と、文字通り脈々と受け継がれる病巣を切除するための機会が巡ってきたと見ることもできる。
「手術をすれば、治るの?」
つむぎちゃんは珍しく、その見た目に等しい声を冬弥に聴かせた。
どうして、と見れば、つむぎちゃんの目は真っ赤に濡れているのだった。
「……この病気は、『治る』っていうものでは、残念ながらないみたいです」
動揺しながら、冬弥は答えた。
「……でも、いまよりも出来ることはだいぶ増えます。痛いとか苦しいとか、そういうのは減るらしいですね。でも、薬はちゃんと飲まなきゃいけないですし、……まあ、自分の心臓なので、どうしても付き合っていかなきゃいけないところはあります」
唇をきゅっと結んで、つむぎちゃんが頷く。幼女の形をしたおばあちゃん、もしかしたらこの中で最も冬弥を「孫」のように見ているのがつむぎちゃんかもしれない。年齢の感覚としては、八十二歳に対して十五歳、無理のない関係だ。
「その手術が、いつがじゃ」
これは冬弥の後ろにあるソファに大きな身体を沈めている吊掛さんの声。
「九月です、九月の十二日の、土曜日」
「文化祭の日がな」
「そうですね。結構楽しみにしてたんですけど」
こうして青春が過ぎていくんだなぁ、なんて思ったのだ。
こういう身体で生まれてきて、父を見てきて十五年。普通の人とは違う身体、普通のことが出来ない身体、諦めなければいけないことがたくさんあることはわかっていたのだが。
冬弥と芋窪さんのクラスでは、焼きそばを作って売るのだ。ただそれだけではなくて、執事とメイドさんの格好でお客さんをもてなすのである。なお、女子が執事の格好をし、男子はメイドさんになる。
「僕メイドさんの格好してみたかったんですけど」
「えっ」
これはみんなから出た反応の声。
「だ、だって、そんな機会まずないじゃないですか……。もちろん、芋窪さんの執事さんの格好も見てみたかったです」
手術が上手くいったらという条件付きにはなるが、島には写真を頼んでおこうと思った。きっと芋窪さんすごく男前だぞと想像している。それを見るためだけでも、生きなくてはと思う。
こんな人生で何を為せるかということを考えたとき、冬弥は机の上の音楽に可能性を見出した。
自分の生の終止線は、病気によってある日突然やってくるかもしれない。棺桶は常に自分の隣、口を開いて伴走し、こちらの都合なんてお構いなし、いきなり閉じ込められて蓋をされて土の中。
音楽の終止線は、自分で決めることが出来る。自分が一つの曲の「生」を始め、平入冬弥を詰め込んで、任意のタイミングで「死」を定めることが出来るのだ。
四分とか五分とか、その短い時間の中で冬弥は自由に生きられる。この身では決して叶わないダンス、ジャンプ、どんなアクロバティックな動きだって可能だ。なんなら、空を飛ぶことだって。
男の身体のままで女になることだって出来る。譜面の上であれば。
「……あはは」
これは、白子さんの声。
「そうだよなぁ、リーのメイドさん服も見てみたかったわ。絶対可愛いもん」
その声の温かさが、じんわりと胸に沁みる。
「手術っていうのは、……難しいやつなのか。その、それ自体にリスクが伴うような」
これは小豆洗さんの声。性格の、よく顕れた質問だと冬弥は思った。きっと他の四人が訊きたいと思っている、けれど、訊く勇気がなかなか湧いてこない。訊くとしたら吊掛さんだろうか? だったら俺が訊いたっていいんだと、小豆洗さんが訊いた。ぶっきらぼうだけれど、とても優しい女の子だということを、冬弥はもうずっと前から知っていた気がする。
手術の流れについては、あの先生から説明を受けるまでもなく、かつて父から聴いて知っていた。
「まず、こう……、胸の骨を、取ります」
「骨を」
反応の声を発したのは聞き手を買って出た小豆洗さんだけ。他の四人が一様に身を固くしているせいで、一部屋に六人もいるのに静かである。
「そのあと、僕の心臓の問題のあるところを切っていくんですけど、そのあいだ心臓が動いてると処置できないので、一旦心臓を止めます」
「し、しっかりしろ楓果!」
芋窪さんの心臓が止まってしまったのではないかと思って、一時騒然となった。芋窪さんたちは人間という枠には収まらない身体だから、医療というものに接する機会もそう多くはないのだろう。
「楓果は毎年インフルの予防接種のときも目を閉じて身を縮めておらんと気ィ失ゆうがじゃ」
「そもそも芋窪さんインフルエンザに罹ることがあるんですか」
「万が一っつーのを気にしてんだよな。万が一罹ったら、結局注射打たれるし、薬も飲まされるし。だったら最初に一本打っときゃいいって」
「あの、泉のお水を飲んだら治ったりしないんですか」
「楓果が山から出てきてだいぶ経ってから、……あれは私がスイを連れてきて少しした後だから、いまから四十年ぐらい前かな、見に行ったら、すっかり枯れ果てていた」
「守神がいなくなった聖域なんてどこもそんなもんだろ」
この話の続きをしたら、やっぱり芋窪さんはひっくり返っちゃうんじゃないか、と冬弥は申し訳ない気持ちになった。まったく、何て厄介なんだろう! 自分にとって苦しいだけでなく、手術の方法を説明するだけで周りをトラブルに巻き込んでしまうなんて。
「それで……、あの、芋窪さんは苦手でしたら耳塞いでおいていただいてですね」
冬弥はそう言ったのに、芋窪さんは意地になったのか前のめりになって、
「かまわにゅ、いや、構わぬ! 妾は別に怖くなどないし、なんであれ平入くんの身体が良くなるのであれば、それを頼りにするのは当然のことじゃ」
なんて言う。
「……ええと、そしたらあの、心臓を止めるところまででしたね。止めちゃうと、当然僕は死んでしまうので、なので、代わりに機械の心臓に繋いで、それを動かして」
「ヒィー!」
「もうお前あっち行ってろよ」
一時的に冬弥の生命維持機能を外部の心臓に委ねる。その間に、冬弥の心臓の問題部分を切除し、胸の骨などは元の通りに戻し、縫い合わせて、ひとまずは完成。
心臓を手術します、と言われて、多くの人が想像するのは、「胸をパカっと開けて、心臓を取り出して……」といったものだろう。しかし「いやいやまさかねえ、そんな、マンガじゃないんだから」という具合に、自分の想像をすぐさま否定するのではないだろうか。みなさん自分の想像力にもっと自信を持ってください。文字通り「胸パカ」をする身として、笑いながら。
「そのあと、リハビリです。二週間とか三週間とか。退院したあとは、療養もしなくちゃいけないので、……骨とか、一回パカっとしたのをまたくっ付けてるわけですから」
「リーその『パカ』ってのはなんとかなんないのかよ、こええよ」
「はぁ、でも、実際はもっとすごい音がするんだと思うので」
「音の種類を言ゆとうと違うがじゃ」
問題がなければ、手術から一月から一月半ほどで学校に戻れるという話だ。
「だから、秋の、だいぶ涼しくなったころですね、十月の終わりか、十一月の頭ぐらいには」
かなりの期間、高校を休むことになる。もちろん入学時に、自分が日常生活に制限を要する病気であることは学校側に伝えてあるし、だから四人も知っての通り体育は全て見学し、代わりにレポートを提出することで単位を間に合わせている。しかし、一ヶ月以上も登校しないとなったとき、当人の意欲と単位とを天秤にかけて、どういう判断が下されるかは不透明だ。
「僕は、留年してもいいんですけどね。みなさんと一緒にもう一回一年生をやれるわけですし、上手くすれば来年の文化祭には出られるかもしれないわけで」
冬弥は、気丈に振る舞っている自分を俯瞰している。がんばれ、がんばれ、と声を掛けているところだ。来年、再来年というものを、冬弥は少しも現実的な未来として描くことが出来ないのだ。
秒針に炙られるようにして生きている。父は四十代であるが、自分がその年齢まで生きることは、たぶんないだろう。せめて父が生きているうちは死にたくないものだと思うが、そこ以外に目標を定めることが出来ない。
ゆえにこそ、自分の足跡を振り返れるようにしておきたい。平入冬弥はこういう足取りで、少なくともここまでは生きていたということを、誰かの目にわかる形で残したい。
「上手くいくよ」
つむぎちゃんが言って立ち上がった。芋窪さんは、ひとまず大丈夫そうである。つむぎちゃんは冬弥のところまでやってきて、それはもう、ほとんど唐突に、冬弥の頭を抱きしめた。
「つむ」
「大丈夫だよ。手術は、上手くいく。そうでなければならないんだ。平入くんみたいないい子の命が、そんなに容易く尽きてしまっていいはずがない」
他の四人よりも、体温が高い。手のひらであったりおでこであったり、……太腿、というケースもあったけれど、なんらかの形でみなさんの体温を、冬弥は既に知っているもので、比較が出来る。
とんでもないことだ、とは思う。だって、芋窪さんたち四人が高校一年生という設定の身体、そしてつむぎちゃんはたぶん十歳ぐらい。……そんな女子たちの体温の「横の比較」が出来てしまうなんて!
つむぎちゃんの小さな手がひとしきり冬弥の髪を撫でた。
「ああ、悔しいな。私がもうちょっと大人だったら。せめて楓果たちぐらいのところまで行ってから止まったなら、こんなちんちくりんでなかったなら。もっと平入くんを柔らかさで包み込んであげるようなことだって出来ただろうに」
腕を緩めたつむぎちゃんは、大人びた苦笑を浮かべて冬弥を見た。冬弥はつむぎちゃんが思うほど、この小さな幼女のことを「ちんちくりん」だなんて思っていないのだ。誤解を招いたら大変なことになりそうだけれど、
「つむぎちゃんのことは、最初から大人の女性だと思ってました。身体は、その、確かに小さいかもしれないですけど」
若くない、なんて言うとこれまた問題になりそうで、冬弥は言葉選びに苦渋した。
「そう? ならいいのだけど。私はほら、これぐらいで止まってしまったからさ、平入くんのいま過ごしている時間、……楓果たちがずっと、何度も繰り返して、ふやけるほど浸っている時間には、もう届きそうもないから、羨ましいし、平入くんの人生におけるその時間を、是非とも満喫してほしいって思うんだ。こんなちんちくりんで構わないと言ってくれるなら、手術が済んだ後で、楓果なしでデートをしようね」
言ってにっこり笑う顔に、幼女ではあり得ない艶めいたものが覗くもので、冬弥はあっけなくどぎまぎした。
「ひ、平入くんをどこへ連れて行くつもりじゃ!」
つむぎちゃんはそのままするんと冬弥の膝の上にお尻を乗せて収まってしまった。なにせ小さな女の子であるもので、体勢に安定感がある。
「さあ。楓果がとても思い付かないようなところだろうな。この子はこんな身体の私も一人前の大人として扱ってくれるようだから」
どうも、芋窪さんにとってはつむぎちゃんはいつまでも「娘」であるらしい。水島さんの忘れ形見、彼のぶんも愛して護らなけれはいけない対象であるから、少々の過保護は致し方ないところではあろうけれど、当のつむぎちゃん自身はもうすっかり大人の自覚なのである。
「そしてね、そもそも、……今夜私たちがここへ来たのは、もちろん平入くんに美味しいごはんを食べさせてあげたいというのもあってのことだけど、それだけではない。そうだね、楓果」
愛娘に言われて、ぐ、と芋窪さんが顎を引く。つむぎちゃんが冬弥の膝上を占領したあたりから、吊掛さんがまた手のひらで髪を撫でてくれ始めた、そして白子さんが冬弥の肩に凭れている。視界には芋窪さんと小豆洗さんがいて、もちろん彼女たちはこの三人のように冬弥にひっついてくるということはないけれど、でも、これって、……ハーレムみたいだ。島がそういうマンガや小説を貸してくれて、読んだことがある。知られたらどんなにか恨まれることだろう!
「……その……、おととい」
緊張した顔で、芋窪さんが切り出す。
「平入くんが言うておった、……あの、音楽の、妾たちで、平入くんの曲を、演奏するという……、話」
困惑させてしまった件である。
「妾たちで、話し合うたのじゃ。そしてその、……合議というか、のう、妾たちは一緒に暮らしてはおるし、同じ釜の飯を食い同じ学校に通うておるが、基本的にはこう、それぞれ別なほうを向いておるし、根っこのところもだいぶ違うように思う」
頬杖をついた小豆洗さんが頷く。
「別に、気の合う仲間ってわけでもないな。時々、どうしてこんなやつらと一緒にいるんだって思うときもある」
「そうなんだよなぁ」
白子さんのほっぺたが冬弥の肩を擦った。
「エツコとはさぁ、まだ東京が江戸って呼ばれてたころから一緒にいるけど、よく考えたらこいつ熊だしなぁ」
「言うこと聞かん狐は一飲みがじゃ」
「まあ、そうなんだよ。でも、……なんつうかさ、社会ってそういうもんだなぁとかも思うわけ。気の合う合わないじゃなくて、でも、一緒にいたら、なんかそれでいいことが起きるっていうかさ。ごはんは、やっぱ一人で食べるよりみんなで食べたほうが美味しいわけでね」
「社会が。集まって、なんがかえいことがありゅうが。わしらは霊獣、霊樹、ほんで霊こどもがじゃ、ばらばらにありゅうが自然、けど一緒におるがじゃ、なんがしか一緒にしてもえい」
芋窪さんの言った「合議」の中で、それぞれがこうして思うところをそのまま口にしたようだ。
一番に賛成の意見を表明したのは小豆洗さんだった。
「楽器やりたいしな。バンドもやりたかった。けど、人間のところに入って行くのは……」
「スイ人見知りだもんねぇ」
「違うっ、……そうじゃなくて、その、俺だけ歳取らないで、そのうち他の連中に別なやりたいこととかが出来ていって、……置いてかれるのは面白くないだろ」
視界の外で人が居なくなろうが、小豆洗さんが動揺することはないだろう。しかし、心を通わせ親しく笑い合った仲間が一人また一人と消えていってしまうのは、人間が想像するよりももっとずっと、小豆洗さんにとっては堪える。
そういう想像を働かせるからこそ、彼女はこれまでバンドを組むということはしないで来たのだろう。
「わしは、みんなで何がしゆうは好きじゃ」
吊掛さんも賛成の票を投じた。
ギャルズ四人の中で芋窪さんと並び部活で輝かしい実績を残してきた吊掛さん、……芋窪さんが個人として成果を挙げてきたのに対し、誰とも分け隔てなく接する吊掛さんは、コーラス部や吹奏楽部に籍を置き、交流の中で結果を出してきたのである。
「合宿しちゅうがじゃ」
言って笑う彼女に、
「これが合宿かぁ」
白子さんもつられたように笑った。え、この人たち今夜ここに泊まるのか……、冬弥は焦る。お客さん用の布団なんて一個もない! なお白子さんも賛成したということだ。
既に多数派意見が形成されている。もっとも、ここにおいて大事なのは全会一致であるかどうかであろう。
芋窪さんは、結論を口にしない。
「妾は、……少なからず、平入くんの身に何かがあることに気付いておった。その、それほどまでに重き病であるとまでは思うておらなんだが……」
冬弥は一瞬驚いたが、……もしかしたら、と思う。
五人のおばあちゃんたちの中で、最も霊的な力が強いのが芋窪さんであると見ていいだろう。他の三人は長命で人間の身体を得るところまでは至っているが、自分の支配下にある泉の水で人を癒すという奇跡を起こせるのは芋窪さんだけ。
また、人間の常識の「枠」から外れた自分たちの存在を、「枠」の中に器用に収めて見せる「まじない」の力も、芋窪さんに特有のものだ。その力あってこそ、それまでは人に交じって生きながらも住まいは転々としていた吊掛さん・白子さんは定住し、学校に通うということができるようになったのである。
「呪いじゃな」
冬弥は、素直に頷いた。
「全面的に、それを信じているわけではないんです。でも、……父から教えてもらいました。僕のひいおじいさんという人が、昔、戦地でとても……、その、倫理的に良くないことをしていたと。僕の祖父も、父も、そして僕も、同じように心臓がよくないんですけど、それはきっとそのせいだねって、父は言っていました」
芋窪さんは苦い表情でいる。
「……そのことが、直接平入くんの病気と関係しておるかまでは判らぬ。しかるに、平入くんの心の臓に埋め込まれた病が、ある種の呪いであるということは判断できる」
「ってことは、つまりそのひいじいさんの負うべき呪いってことじゃないのか」
これは小豆洗さんの問い。
芋窪さんは、肯定も否定もしない。出来る立場ではない、という主張を、きっと彼女はするつもりだ。
「戦争の中にあって、人の世ではそのようなことが起きうるということじゃ、恨みがそのような形で刻まれることは、戦争の中においてはザラにある。……あるべきではないが、現にあるものを『ない』とも言えぬ。そしてそれが『ある』とき、『ある』時点で、それが正しくない行いであると言うことも出来ぬ、……少なくとも、妾には、な」
人間はそれを裁くための便宜的な法というものを作り、それを行使する場を設ける。しかし、冬弥の曽祖父がこの上なく残虐なやりかたで凌辱し殺害した人々、わかっているだけで妊婦さん一人と幼い女の子二人、つまり四つの命と尊厳が、その法の場を通して回復したということはない。そもそも曽祖父は裁かれなかった。
自らの犯した罪への罰を祖父以下子孫に被せて、天寿を全うするという理不尽。具体的な形として実感するのは自らの心臓を病む冬弥だけであるが、これが「呪い」だとして、曽祖父哲太郎一人に起因するものであるとも、冬弥は思っていないのだ。
「誰しもが、……あのころ、誰しもがそうであったのじゃ。水島もその中の一人であったろう」
膝の上で、つむぎちゃんが静かに頷いた。
「同じことさ。戦場に赴いて暴力を撒き散らした人々も、中枢にあってそれを使役した人々も、積極的であれ消極的であれそういう国の形であることを止めなかった市井の人々もね。みんなが等しく犯した罪だ。それが平入くんの心臓に、……いま私の背中にあって、きちんと拍動していることがとてもいとおしい心臓に、毒を撃ち込んだのだとしたら」
「リーが一人だけそんなしんどい思いすんのは、すげー損な話だよなぁ」
白子さんの左手が背中に回る。冬弥の鼓動を捉えようとしてくれているのだろうとわかった。
「……ゆえにこそ、平入くんは音楽を創るのじゃろう」
芋窪さんが言う中、小豆洗さんが立ち上がって、……ひんやりとした手を、首に当てた。無表情であるが、その紅い瞳に浮かぶものは、慈しみであると思う。本人がどれほどそれを否定しようとも、冬弥はそうであることを疑わない。彼女の手に届く冬弥のビートは、彼女が日々にライブで浴びるものより、ずっと弱々しく頼りなく、ひょっとしたら不安定なものかもしれないけれど。
「私はまだ聴いていないな」
「わしも」
「あたしも」
ぷい、と小豆洗さんがそっぽを向いた。
ああ、きっと、聴いてくれたのだ。
「平入くんは、願いを籠めて音楽を作っておるのじゃろう」
芋窪さんの相貌に、優しい微笑みが浮かんでいた。
この瑞々しくて若々しい、潤いに満ちた彼女たちに、「おばあちゃん」を感じるのは、そういう表情を浮かべて見せてくれたときだ。
十代の少年少女だってきっと、誰かに向けてそういう形で微笑むことはするだろう。けれど、根っこのところがまだ少し違う。芋窪さんたちは、長い年月、その瞳を通して見てきたもの、その奥で考えてきたものの蓄積がある。その目にはほんのヒヨッコにしか映らないはずの冬弥である。しかし彼女たちは、それこそヒヨコをそっと手のひらに掬い上げて見詰めるような優しい目をして冬弥を見るのだ。
「……最初は、そこまで考えてはなかったですけど」
「なぬ」
だって、冬弥はもうちょっと近視眼的だった。見ていたのはあくまで自分の胸の内側、外に対しての働きかけではない。
「でも、おととい、ああやって、ああいう……、自分の想像したこともなかった景色を見せていただいて、自分は自分のためと、あとは、……上手く言えないですけど、何かのためにも、音楽を作らなきゃって思いました。……僕の音楽で、これから先をずっと生きる芋窪さんたちの世界を、少しでも、……ほんの少しでもいいから、明るくすることができたらっていうふうには、思います、すごく、はい」
こんな締まらないのは良くないのではないか、とは思った。芋窪さんの双眸に迷いのようなものが滲んだのは、気のせいではなかったはずだ。けれども冬弥は、病院から帰ってきてからずっとずっとずっとパソコンに向かって、次から次へと音楽の線を引き続けたのである。
これは、本当のこと。
「……うむ」
芋窪さんは頷いてくれた。
「ならば、妾が支えぬわけにもいくまい。だが一つ、……一つだけ、……のう、そなたら、あんまり引っ付いては平入くんが暑かろうが特につむぎはいつまで膝の上を占領しておる」
「羨ましいだろう。私は身体が軽いからな、楓果じゃこういうことはできまい」
「出来ないのではなくてせんのじゃ! あと、妾べつに重たくなどないわい。……ええいそうではなくてっ」
離れたのは小豆洗さんだけだった。白子さんはしっかりと両手を冬弥の右手に回して抱き締め、吊掛さんは冬弥の髪に鼻を当てている。つむぎちゃんは左手を両手で握り自身のお腹に当てさせた。
「一つ、条件がある! 平入くんの音楽が照らす未来に生くるは我らのみにあらず! 他ならぬ、平入くん自身が妾たちとともに未来に生きておらねばならぬ。……おいこら、妾わりといまいいこと言うたのに誰か何か言わぬか、平入くんにあんまりベタベタとするのではない、平入くんが溶けてのうなってしもうては困るじゃろうが!」
仮にこの瞬間、溶けてなくなったって多分冬弥は後悔しないだろう。みんなと一緒にここにいるという事実、この時間のあったという事実が消えてなくなってしまうわけではないのだから。
平入冬弥はいま既に、痕跡としてこのレディたちの中に刻み込まれようとしている。




