継承・痕跡
「『昨日の今日』という言いかたはあるけど、『今朝の今夜』とは言わないんじゃないか」
父が苦笑した。
「似たようなニュアンスのことを、先生にも言われたよ。『今朝無理をしないようにって言いませんでしたっけ』って。怒ってた」
「そりゃあそうだろうね」
夜の病院である。
父と二人でこういう時間を過ごすのは、いつ以来のことだろうかと思いを巡らせて、父も自分も言葉を交わせる状態でという条件を付けると、本当にずいぶん久しぶりのことなのだと気付いた。
父のほうもその意識はあるようで、彼はなんだかニヤニヤして、冬弥が初めて一人で見舞いに来た日のように、なんとなくぎこちない。
父は盛んに、
「惜しかったなぁ」
と繰り返している。
「救急車を呼んでくれたのが芋窪さんだったなんて。会えたかも知れなかったんだなぁ、三十年ぶりに」
駅で倒れた冬弥のために、極めて迅速な応急処置を、芋窪さんとつむぎちゃんはしてくれた。救急車もすぐに手配され、父と同じ病院に担ぎ込まれた冬弥の命に別状がないことを確かめてから、芋窪さんとつむぎちゃんは冬弥が目覚めるのを待たずに帰っていったそうである。
「会って何話すのさ」
「……そう言われてみると、あんまり浮かばないな。ええと……、お久しぶりです、かな、お変わりありませんか……、は変か。たぶん全く変わっていないんだろうから……」
別の病棟でもいいはずだが、長らく病院暮らしが続いている父と、せっせと見舞いに来る息子という二人に配慮してくれたのだろう、個室に二つベッドが並べられ、今夜だけは父子二人きりの時間が設けられた。暗い顔をするまいとお互いに頑張っているのがありありとわかるのは、沈黙が生まれそうになるたびに「そういえば」と関係のない話をし始めることで余計に浮き彫りになってしまう。
「芋窪さんとのデートはどうだった?」
「二人きりじゃなかったけどね、つむぎちゃんも一緒に」
「芋窪さんと冬弥が結婚したら、そのつむぎちゃんは義理の娘ということになるんだな」
「何言ってんの」
「ということは、私は、……なんと、芋窪さんの義理の父親、そしてつむぎちゃんのおじいちゃんということになるんだ」
「何言ってんの」
戦争の話を、少しした。
浅川駅からバスでしばらく行った先にある場所で、戦争末期に亡くなったつむぎちゃんのお父さんを悼みに行った、と言ったら、
「もしかして、伊ノ花トンネル?」
父は隣のベッドから半身を起こした。さすがに物書きであるから、物知りである。芋窪さんによって実際にその場所で起きた出来事を自分の身で追体験したような感覚、冬弥はあの火の熱さや血の臭いを、きっと忘れることはできないだろう。
父は少し考え込む。久しぶりの静寂は、夜の虫の声を病室へ微かに滲ませた。
「……私のおじいちゃん、冬弥から見たらひいおじいちゃんに当たる人が戦争に行った人だっていうのは知ってる?」
「なんか、聞いたことあるけど、詳しくは知らない。……なんか、すごい頑丈な人だったらしいね」
僕らのご先祖なのに戦争に行けるということは、突然変異的に強い身体をしていたのだろうか。今日伊ノ花トンネルに行くより以前にあった冬弥と戦争の接点は、「ひいおじいちゃんが出征した(らしい)」という、ただそれだけである。
「出征して、無事に帰ってきたらしい。勇敢で、南方で活躍したって話は語り種になっていた。……まあ、私はそういう話が苦手だったし、あんまり可愛がられた記憶もないんだが」
曽祖父の名は、来宮哲太郎という。
晩年は「哲夏」の雅号で幾つも書を記し、そのうちの一つは賞を獲り、浅川市役所などにも飾られているらしい。もっとも、冬弥は一度も見に行ったことがない。
祖父・秋吉は早逝した。冬弥がものごころ付く前のことだったという。曽祖父「哲太郎/哲夏」は九十七での大往生だったというから、もしかしたら自分の父親より早く亡くなったのではないか。
僕はもうちょっとぐらいは頑張りたいところだが。
「かなり、酷いことをしていたようだ」
父は暗い声になって言った。
「……酷いこと?」
「戦争中にね、南方で。……冬弥のおじいちゃんが亡くなって、遺品の整理をしていたときに、哲太郎おじいさんの行軍日記というのが出てきた」
のちに書家として一定の活躍をする人の書いたものなのだとしたら、何がしかの価値がありそうなものであるし、自身がその価値を人に押し付けるぐらいのことはしそうなものだ。しかしその古びた日記は、息子である秋吉おじいさんの、通帳や印鑑など大切なものの入った箱の一番そこにひっそりとしまわれていたという。
「……あまり体調の悪い日に言って聴かせるようなものでもないけど」
ただ黙ってやり過ごすこともできただろう。父がそう言って冬弥に視線をくれたのは、この息子の精神的な成熟を感じ取ってくれているからかもしれない。
「冬弥が芋窪さんと一緒に慰霊に行ったというのは、一つの契機かもしれないね」
そう言って父は、曽祖父の「行軍日記」のある日を諳んじた。
皇紀二六〇二年 七月十日 天候 晴 雲稍多シ
密林ヲ進軍ス。
途中一集落ニテ敵匪ト目サルル住民数名ヲ捕縛セリ。男女合セテ十名、内妊婦一名、女児二名アリ。
高倉毛隊長ヨリ妊婦並ビニ幼児ヲ犯シ斬首スベシトノ命アリ。同輩尻込ミ動カザル故、我敢然トシテ其任ニ赴キ、大イニ事ヲ成セリ。
皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚スルヲ得、誠ニ痛快ノ極ミナリ。
「……本当に、今日みたいな日に聴くのはしんどいね。でも、今日聴いておいてよかったのかも知れない」
もともと白い父の顔は、ほとんど青くなっていた。
道理で、と父と自分の身体を見比べて、同じぐらいに薄くて弱々しい身体に、苦笑が浮かびそうになった。
「それで……、父さんは信じてるの?」
父は、敢えてだろう、「うーん……、そうだなぁ……」と少し呑気な声を出して聴かせた。
「半分は、信じてるかなぁ。科学的な根拠のある話ではない。けれど、体調が悪い日には、どうか、と祈るんだ。私はそうしたことは断じて致しませんので、どうかお救いください……、とね」
父を笑えない。冬弥だって、「今日はしんどい」という日、トイレから出られないような日には、ろくに初詣だって行かないくせにあらゆる神さまの名前を呼ぶのだ。
「戦時中のことだったから、それを犯罪ではなかったと取り扱うべきなのかという議論がまずある。兵隊である哲太郎さんは、おそらくこういう行為に手を染めなければ戦地で上官から酷い仕打ちを受けていただろう。日記も検閲されるおそれがある、本音を書くことは出来なかったはずだ。でも、じゃあ、哲太郎さんに責任がないのかと言うと、そうでもない気がする」
出征時、哲太郎の妻のお腹には、子が宿っていた。
しかし、哲太郎が復員したときに、妻は亡くなっていた。出産が大いに難儀なものとなり、そのまま命を落としたのだという。
哲太郎は悲しんだが、二人目の妻と再婚。
しかしこの妻との間にも、なかなか子が生まれず、二人の流産を経て、三人目にしてようやく産声を聴かせたのが、秋吉である。ただ、秋吉は生まれつき身体が弱く、それは兵隊として輝かしい戦果を上げた哲太郎としてはなんとも情けなく腹立たしいことであったようだ。しかし、その後も妻は妊娠しては流産することを繰り返し、とうとう亡くなってしまった。結局哲太郎は丈夫な男子を親戚から養子に貰い受け、病弱な秋吉は不遇な少年期を過ごしたそうである。
「哲太郎おじいさんは、秋吉さんを見ると、自分が責められている気がして嫌だったんだろうね」
父は苦笑する。
南方での犯罪行為と、妻の流産、やっと生まれた秋吉の虚弱さが、脳裏でつながりそうになるたび、そんなことがあるはずない、……因果の糸を力づくで切断する気で、また子供を作ろうとした哲太郎。
自分の犯した罪が目の前に、青白い子供の顔をして立っているという事実が我慢ならない。だからこそ、養子を取ったというのが父の解釈だ。冬弥は判断を下せる立場にはないが、そう思いたくなる父の気持ちもわかる。非科学的なと笑ってしまうためには、哲太郎の行為を正当化するほかなくなる。しかし、それは父の道徳が許さないのだ。
哲太郎が虐殺したことで途切れた命、……妊婦とお腹にいた子、そして年端も行かない小さな女の子たち。父が引用した日記はその一日の分だけだったが、そうした出来事が哲太郎のいた部隊において日常であったことは想像に難くないし、他の隊においても同様の傾向を見出すことが出来るのかもしれない。
戦争は正義の旗を掲げる。
敵匪という言葉で括られた人々は、当たり前の暮らしをしていたばかりである。しかし、そこに虐殺を持ち込み、強姦を押し付け、未来を切断しに、「正義」はやってきた。無論、哲太郎が戦っていた相手にもそうした傾向は容易く見出せるだろう。正義が戦争によって掲げられたその瞬間から、正義はその成立する要件を失うのだと冬弥は思った。
「芋窪さんが、……僕らは負わなくていいって言ってくれたよ。でも、負っちゃってるよね。こう、……僕らは身体がこうだからっていうんじゃなくって、ね」
天井の灯を消して、冬弥は言った。
暗闇に、あの夕立の音が蘇る。
無辜の人々、という表現を、きっと芋窪さんは使わないだろう。
あのときの芋窪さんが、水島さんが、戦争の外側、人間の群れの外側にいようと試みたことを、冬弥はわかっているつもりである。自業自得ともまた違おうが、民衆によって招かれた戦争が、ああして民衆の頭上に銃弾として降り注いだ、だからあれは、空から降った雨の音を立てていた。哲太郎が特別な存在であるのではなく、どれほど時間が経とうと、希釈を繰り返されようと、尊いとされるこの土の中には血が染みているという事実を否定することは、きっと誰にも出来ない。
この国に、この国の人間として生きている事実を愛して誇るならば、その血の一滴を想わないでいられようか。
そういう意味では、水嶋さんが言った「負うべきではない」という言葉は、……芋窪さんも同じ意味の言葉を冬弥に向けたけれど、生まれながらにして負った義務である。哲太郎が、まさしく日記に書き残したような非道な真似をしたのならば、それを支持した人間、黙認した人間、そういう「場」である戦争を支持した人間がいた。のみならず、追認した人間もまたいる。
「眠れない?」
父の声がした。返事をしなくても、大人として親として、感じ取れるのだろう。
「哲太郎さんを、恨むかい?」
今度は、返事のしようがなかった。来宮哲太郎という人はお国のために戦った英霊であるという捉えかたをされることもあるはずだ。当時と今では法が違う、教科書が違う。
当時としては仕方がなかったんだ、という理屈を冬弥は認める。認められる自分でいたい、とも思う。けれど、人々を、暮らしを、統治する法がどれほど変わろうとも、何か、決して変わらないものが、その外側にはあるんじゃないか……、そんな気が、冬弥はする。
「夏草を 摘みし我が手に 古き疵」
父が不意に口にした、俳句である。聞かずともそれが哲太郎によるものだということはわかったし、何について詠んだのかもわかるつもりだ。
哲太郎が日記を捨てずに取っておいたのはなぜだろう? 度重なる流産、やっと産まれた秋吉の冷遇。
老境、哲夏という名で詠んだ句。
「私たちとは違う形で、でも、哲太郎さんも悩んでいたのかもしれない」
「そうだったとしても」
しても。
冬弥の言葉に続きは出てこなかった。父の自分の身に宿る病巣と繋げて考えることや、哲太郎に恨みを向けるのは無意味である。哲太郎がそうしなかったらどうなっていたか、……おそらく他の、同じ隊の人間が同じようにしたのだろう。哲太郎はつまり、他の兵士たちの被ることになるかもしれない罪を自分が食べ尽くそうとしたのかもしれない。
「……わからないよ、わからない。私も長いこと考えたけど、まだわからないんだ」
父は静かな傷みを抱えながら、暗闇に声を溶かす。
「八十年以上前の昔のことだ、大昔の戦争。哲太郎さんだけじゃない、当時の人たちみんなが、被害者であると同時に加害者だった。そして、……それはきちんと清算されることなく、今までまず続いている。地続きになっている時間の上を、私たちは生きているんだ」
そうなのだろう。
そうなのだとして。
冬弥は暗闇に目を開けたまま、薄手の布団から細い手を出し、天井に向けて指を走らせ始めた。音、言葉、……生存の痕跡。
自分だけではない、自分だけのものであるべきではない、痕跡。
翌々日の昼過ぎには、冬弥の帰宅が許された。
吊掛さん経由で自分の退院報告、そして芋窪さんたちへの感謝を伝え、カーテンを閉めた自室のパソコンの前で、ヘッドフォンを装着したところから、どれぐらい経っただろう?
時間に炙られる背中が熱い。没頭、という表現がしっくり来るほどの時間、冬弥は作業をし続けた。途中、もちろん何度かトイレに立つぐらいのことはしたはずだが、その回数すら記憶していない。
急がなければいけない。
焦っているつもりはなかった。焦りがもしあったなら、きっと心はもっと乱れ、集中することは出来なかったのではないか。
この命は、容易く掻き消えてしまうものだ。
新鮮な認識ではない、わかっていたこと、この心にもとより書き込まれていた設計図。
父が、自分が受け継いで生きている「呪い」を意識したとき、冬弥はどこか「なるほど」と納得してしまった。父もまた、納得しているようだった。非科学的なことを積極的に肯定するのではない、……父など、物書きなのだから冬弥以上にそうであるはずだ。それでも曽祖父哲太郎の遺した日記を読んで、「半々」という評価を下すからには、彼もどこかで自分の身体の性質に、答えを見出したような気でいるのだろう。
救いでは決してないけれど、何かを恨むよりは余程いい。これが罰だと言うのなら、甘んじて受けて死ぬべきだとまでは言わないし、まだやりたいことはあるけれど。
集中力が途絶えたのは、さっきから何か音がするので。ヘッドフォンをしていてもどこかから響くその音は、ほかならぬ冬弥自身の腹の鳴る音だった。気付けば部屋は真っ暗で、午後七時半。帰ってきてから七時間以上ずっと作業をし続けてしまった。椅子から立ち上がると、目の奥が痛み、腰やら肩やら背中やらがぱきぱきと音を立てて、ちょっと立ちくらみがした。もっとも、これは身体が弱いからではなく、七時間も机に向かい続けていれば、健康な肉体の持ち主であろうと同じことが起きただろう。
さすがに何か食べなければいけない。本当は、家に帰って少し休憩したら近くのスーパーへ買いものへ行こうと思っていたのだ。けれどこの通り、集中しすぎて周りが見えなくなってしまった。いまから何か買いに行くか、しかし、なんだか億劫になってしまった。確か冷蔵庫にパウチのゼリーが入っていたな……、病み上がり、というか現在進行形で病んでいる身体だから、それをちゅーと吸うぐらいで勘弁してもらうか……、誰に? そんなことを考えながら、ベッドから、相当な努力で起き上がる。一度気が抜けてしまったので、今度は眠りに落ちそうになってしまったのである。食事もそうだが、シャワーも浴びなければ。
シャワーを浴びて目が覚めれば、もうちょっとぐらいは作業が出来るのではないか。冬弥は無論、「もうちょっとぐらい」が下手をすると日付を跨いで明日の朝まで繋がってしまうことをうすうす想像するのだけれど。
叱るようにスマートフォンが鳴り出した。吊掛さんからである。驚いたのは、それがメッセージではなく通話であること。
「はい平入で……」
「ふぃらいりぎゅん」
「ヒッ……」
ものすごい音が割れた声が聞こえてきたので、腰を抜かしそうになってしまった。向こう側で「声がデカ過ぎる」「馬鹿じゃないのか」「わしがスマホ壊す気がじゃ」と声が漏れ聞こえてくる。
最初のとんでもない声は芋窪さんのものであったようだ。
「は……、はぁ、あの、……えっと……」
「あー、リー生きてるね、よかったね。はい。ごめんね馬鹿がでかい声出してね……」
白子さんの声の向こうで「妾ははじめから嫌だと言うたじゃろこんな面妖な機械にほっぺたつけて声を出すなどと」と芋窪さんがぐずっているのが聴こえる。芋窪さんはスマートフォンすら触れない。
「今さぁ、えーと、日向沢第二児童公園っつーのか、ちっちゃいブランコがある公園にいるんだけど」
公園の正確な名前は知らない。しかし、冬弥の暮らすマンションの名前は「ハイネス日向沢」であるし、マンションの、通りを挟んで向かいにブランコがあるだけの小さな公園がある。
「えっ、……あの」
みなさんいまどこに。
容易く導き出される結論なのに、なんだか信じられなくて、認め難いような気もして、冬弥は頬にスマートフォンを当てたまま大慌てでベランダに出た。夏の夜の、生温かい風が吹いている。まだ空には月が出ていなくて、かといって星が見えるわけでもなく、暗い夜の道、マンションの七階の部屋から見下ろした通り、道の向こうの小さな公園に、色彩がこちゃっと固まっているのが見える。
銀色の髪の芋窪さんとピンク色の髪の白子さん、吊掛さんと小豆洗さんは黒髪、そして、つむぎちゃんの麦わら帽子。
つむぎちゃんが顔を上げた。こちらに向けて手を振る。
「どう……、どうして……」
「あー? どうしてってこたねーだろ、お見合い、じゃないやお見舞いに来てやったんだから感謝しろよぉ」
霊的な存在であり、教室後方という高嶺に咲く美しき花である四人と愛らしさのかたまりであるつむぎちゃん。冬弥は五人が、自分なんかのためにわざわざ足を運んで来てくれたことに、根っから畏れ多い気持ちになってしまった。
「ど、ど、どうぞ、あの散らかってますし、だいぶ狭いですけど……」
母が出ていき、父と子の二人暮らしになってからすぐ、元々住んでいた一軒家を売り払ってこのマンションに引っ越した。もっとも、父の体調はずっと思わしくなくて、一人で十分という程度の広さしかないのである。
誰かが訪ねてくることなど、これまでに一度もなかった。
「突然すまぬ。明日にでも、ちゃんと連絡をしてからと申しておったのじゃが、こやつらが聞かなくてのう……」
高貴な和装の翌々日に、こんどはTシャツにデニムというスタイルを見せてくれた芋窪さんに、かえって冬弥は恐縮する。対するつむぎちゃんはいつもの麦わら帽子とワンピース。
「少し顔色がよくなったみたいだね」
「その節は、ほんとにご迷惑をおかけしました……」
「わしらが無理がさせすぎちゅうがじゃ」
吊掛さんは大きな手のひらで撫でてくれる。
「鳥の羽根みたいな軽い身体ぁがなぁ」
おんぶしてくれたものだから、吊掛さんは冬弥のボディデータをだいたい想像することが出来るはずだ。居間のほうまでさっさと入って行った白子さんが、「なー、リーはエロ本とか隠してないのか」と問い、「やめろよお前、あいつがそんなもん持ってるわけないだろ」と小豆洗さんがたしなめる。 「ぜったい童貞だぞ」
そうだけども。
このおばあちゃんたちがなぜ来てくれたのか、……「お見舞い」というのは言葉の通り受け止めていいのだろうけれど、それだけではきっとない。そもそもお見舞いならば、明日でもよかった。
吊掛さんの手には、冬弥のバイト先のビニール袋がぶら下げられている。
この病人が、どうせ今夜もいいかげんなものを独りぼっちで食べるに違いないことを見抜かれていたらしい。
「わざわざ、そんな……。大丈夫なんですか」
芋窪さんは「おじゃまします」とちゃんと言って上がる。ポケットからヘアゴムを二つ取り出し、長い髪を後ろで括る。そのまま、もう一つのゴムでつむぎちゃんの髪も結わえて行く。本当の親子でなくて、姉妹でもないなんて、誰が見たって信じないだろう。
「平入くんが具合を悪うしてしもうたのは、妾たちが散々振り回してしもうたからじゃろう。せめてもの罪滅ぼしをさせてはくれぬか」
「そんな華美なものは作れないけどもね」
本当にありがたく、申し訳ない話である。しかし、冬弥が心配になるのはそのことばかりではない。冬弥が「大丈夫なんですか」と訊かずにはいられなかったのは、
「僕んとこ、台所とかぜんぶ電化されてるんですけど……」
ということで。
「いっ、痛い痛いっ、楓果、楓果痛いってば!」
表情を強張らせた芋窪さんが、つむぎちゃんの髪を結く手の力加減を間違える。本当に申し訳ない話である。




