この身の中にある死
結局、明確な返答をもらうには至らなかった。つむぎちゃんは、
「それはいいね、うん、是非やりなさい。何を迷うことがある、音楽、創作、表現、それはとても人間らしい、そして高校生らしい活動だ」
と大いに芋窪さんを突っついてくれたのであるが、当の芋窪さんは、浮かぬ顔。
「……その、平入くんが言うておるのはつまり、妾たちに、えー、スイがいつも観に行っておるような楽団……、バンドの真似事をせよと、そういうことであろう」
「まあ、真似事っていうか、自分たちで楽器弾いて歌を唄ったらそれはバンドそのものと言っていいと思います」
「うーん……、うー……」
まあ、いきなり「僕の作った曲を演奏してもらえませんか」なんて言い出したのだから、難色を示されるのは当然のところではあった。つむぎちゃんがどれほど乗り気でも、実際にパフォーマンスを披露するのは芋窪さんなのである。
「僕は、芋窪さんの声がとても素敵だなって思っていました」
はっきり、訝しむ顔をされてしまった。
「妾学校ではほっとんど喋らんようにしておるが」
「それでも、自己紹介のときとか、先生に当てられたときとかには、最低限のことはおっしゃいますよね」
「まあ、最低限のことは、のう」
「最低限じゃないとババアがバレるからな」
「やかましいわ! お前とてもう立派なババアじゃろが!」
たまに、ほんのたまに、耳に届いた芋窪さんの声に、冬弥は強く惹かれた。抑制が効いている(のは、性格の地金が露わになってしまうことを避けるためだったのだと今はわかる)中にあって、通りがよく、透き通り、ひんやりとした手触り、それでも潤いを纏っている。
氷のような、という印象を持ったのは、彼女の銀色の髪にだいぶ影響されているのだけれど。
「こうして……、お話させていただいているときの声とは、違ってますよね。あれは……、よそ行きの声」
むう、と唇を尖らせて頷く。
「それは、のう。普段の言葉遣いとは違うし……」
「大急ぎで言わなきゃって思うんですけど、僕はいまこうして、僕と向き合って、僕に聴かせてくださってる芋窪さんの声もとても好きです。その、……あんまり面と向かって言うのは恥ずかしいですけど、とても温かくて、優しい声だと思うんです」
小麦色の頬が少し染まり、視線が落ち着かなくなる。冬弥としても同級生女子に対してこんなことを言えるほどの度胸が自分に備わっているなんてこと、最近まで気付いていなかったのである。
いいや、実のところ「同級生女子」とは思っていない。容姿は間違いなくそうなのだけど、意識の部分では、……ちょっとくらい甘えても許してくれそうな、優しい「おばあちゃん」と接しているような気持ちでいるもので。
だから、普段なら絶対に言わない「わがまま」を口に乗せてみる気にもなってしまったのだ。
もじもじと俯いてしまった芋窪さんに代わって、つむぎちゃんが解説を加えてくれる。
「スイは、ああいうバンドで使うような楽器なら一通りこなせるはずだよ。エマもいっときは面白がってギターやらベースやらを邸の中で掻き鳴らしていて、バンドマンの彼氏がいたこともある」
あまり長続きすることなく別れたそうだ。小豆洗さんは「あまり深入りするな」と警告していたらしい。
「エツコもああ見えて器用だ。楓果以外で文化系部活で賞を獲ったことがあるのはエツコだけなんだ。絵も上手いし将棋も強い、ああ見えて文武両道だ。三人とも『やろう』と言えば大いに頑張るはずだよ、スイを含めてね。ということはつまり」
にぃ、とつむぎちゃんらしい強さを持った笑みを浮かべて、「お母さん」を見る。
「楓果が覚悟を決めるだけのことだよ」
「うー……」
芋窪さんは悩み、だいぶ後ろ向きに腰を引いて迷い、結局帰りのバスでも結論は出ず、
「まあ……、その、今日のところは預からせておいてはくれぬか……」
考えることに少々疲労した様子で言った。困らせてしまったな、と冬弥も少し反省する。「おばあちゃん」は優しいので、若輩者のお願いごとを無碍に断るようなことはしないでくれるのだ。
「一つ、訊かせて欲しい。平入くんが、妾たちにバンドをやらせようと言い出したのは、……今日、そなたが見たものに拠るところが大きい……、違うかの」
冬弥は素直に認めた。
ショッキングな映像はまだ瞼の裏に焼き付いている。けれど、それは平入冬弥のみならず、誰しもの脳に刻まれていなければいけないものではなかったか。
この街で、……バスでちょっと行ったぐらいで届く場所で、凄惨な銃撃事件があった。いまこうして立っている駅前の空に、無数の焼夷弾が降り注ぎ、数多の命が失われてしまった。それを一つも知らないで生きていくことが、人間には出来てしまう。
記憶と、それに伴う痛みや苦しみを、分担して持てばそれほど負担も無かろうし、負担だったとしても隣同士「重いね」って気遣い、労い合える。けれど、芋窪さんたちや、今日バスに乗っていた人たちだけでそれを背負っていかなくてはいけないなんて。冬弥ははっきり不公平だと思ったし、自分の無責任さを痛感した。
「安直だと言われてしまうかもしれないですけど、……僕にとっては、いま、何か、音楽で表現する、それを誰かに届けるっていうのが……、きっと、唯一で、ベストな手段なんです。その、僕一人の力じゃどうにもならないですけど、でも、……芋窪さんたちのお力を借りることが出来たらって」
他力本願という指摘なら甘んじて受けるつもりだ。冬弥は楽器が出来ない、いまから一つひとつ学んでこなせるようになるまで、どれぐらい時間が掛かるだろう?
「平入くん。……その、妾は決して後ろ向きでこう言うのではないが……」
芋窪さんの手が、冬弥の髪に触れた。とても瑞々しい女子高生の顔に、複雑に入り混じる数々の感情を閉じ込めて、優美な微笑みに仕上げることが、芋窪さんには、おばあちゃんたちには、出来る。
「そのように急かなくともよい。……妾は、ずっと迷っておったし、後悔もしておった、やはりそなたに見せるべきではなかったのではないかと……。しかし、のう。平入くんは優しい子じゃ。妾が思うておったよりもずっと、深く、重く、受け止めてくれたのじゃなぁ……」
芋窪さんの胸の高さで、
「実際に試さなくてもわかっていたことだ。平入くんはとっても優しい、そういうものを受け入れる心を持っている。……そして、願わくば平入くんが決して特別な男の子ではないことを」
「うむ、それはつむぎの申す通りじゃ。であればこそ、平入くんはそのように思うてくれたのじゃろう」
「いっ」
その細い両腕、髪を纏めたうなじ、……炎天下に短からぬ時間いたのに、汗のにおいなんて全くしないので、冬弥は自分が発しているに違いない汗の臭いを意識して、恥ずかしくて仕方がなくなってしまった。
芋窪さんが、短い時間とはいえ、冬弥のことを抱き締めてくれたから。
「あっ、あのっ、あんまりそういうことをされると僕恨みを買って帰り道に襲われちゃうかもしれませんのでっ」
芋窪さん的には、友情表現のハグ、さもなければ、おばあちゃんが孫を抱き締めるような感覚だったのではないかと想像する。そして、やはりまじないの力か、夕方近くの浅川駅に行き交う人は多いが、和服の女子高生が同年代の少年を抱擁したシーンをじろじろ見られることはなかったようである。
「おとといの、お返しじゃ。妾ばかりびっくりさせられるのではつまらぬからのう」
耳元でそう囁かれた。耳の奥までかーっと熱くなって、きっと、この瞬間日焼けが始まったように見られたかもしれない。
「では、気を付けて帰るのじゃぞ。……今日は、本当に付き合うてくれてありがとう」
「い、い、いえ、はい、あの、こ、こ、こちらこそ……」
酔っ払ったみたいに呂律が回らなくなっている。自分がどういう顔でいるかも責任が持てなくなっていた。「じゃあ、またね」と手を振るつむぎちゃんに手を振り返し、バス乗り場に向けて歩き出しながら、音楽という形で痕跡云々などと言っていた自分に、芋窪さんからまた随分熱い痕跡を頂いてしまった……、という思いでいっぱいだ。夕暮れ近い空が白っぽく見えて、考えがその空に溶け出していくような心持ちがした。右、左、右、とちゃんと足を出しているはずなのに、雲の上を歩いているような感覚がある。思考、頭の中身というか、意識を置いて身体が前方を歩いているような。どうしてかと言えば、胸の奥に鎖が絡まったような感覚があって、ひどく重たい、それを引きずっているからではないかと気付いた。右、左、右、左、足は出している。しかし、冬弥は呼吸のやりかたが思い出せない。
違う。
ということに気付くのが、あと一歩遅かったら、冬弥の身体は意識を置いてけぼりにして、ペデストリアンデッキからバス乗り場へと降りていく階段を転がり落ちていただろう。待ち受けていただろう、予定よりも早い死。
もう少し先に、でも、どうやら予定が決まってしまったからこそ、焦らなくてもよいと言われても、大急ぎで記したく思われたのが、痕跡。
人は死ぬとき、五感のうち聴覚が最後まで残っていると何かで聞いたことがある。それは本当だろう。騒然とした人々の声の向こう側から、澄んで透き通ったものではない、そんな体裁を整える余裕もない、
「平入くん!」
芋窪さんの悲鳴のような声を、冬弥は聞き取ることができた。




