夕立
そして、八月五日を迎えた。
空襲から二日半で、こうして鉄路に列車が走るということじたいが奇跡だ。まったくこの国の「駒」の一つひとつは本当に優れた仕事を悲しいほど従順にこなすものだと楓果は、息苦しいほどの蒸し暑さの中で感心したのである。乗り込んだ人々の、不平と不満に頬を膨らませながらも、かろうじてそれを爆発させずに済んでいる様子からも、なにか意地のようなものを感じる。これは今朝、まだ日も昇らぬうちに歩いて歩いて辿り着いた浅川駅でも、楓果は多く見た。列車を待つ群衆たちは、強い疲労や眠気、不安、焦燥などを押し殺し、黙然と立ち尽くす墓石のように見えたのである。
誰も彼らを褒めないだろう。しかし、彼らは褒められなくともそう在ることで、自分たちという群れを誇らしく思うかのようだった。しかして、彼らは駒である。
浅川を長い橋梁で渡るとき、下流側に広がる浅川の街からは未だ空へ細く黒煙の筋が上がっているのが見えた。浅川は近代的な街であり、人口密度も高い。繊維工業で栄えた街である。
焼夷弾とは、人間の命と営みをまとめて焼き払う兵器である。人間を焼き殺す効率性・機能性を突き詰めて作られた兵器である。そうした性能を美しいと考える発想が、人間の中にあるのだ。
もしかしたら、火に追われ水を求め、川に飛び込み、人間の脂によって川面を巡り片っ端から燃え尽きていく人間の上げる悲鳴、ぶくぶくに膨れた次にはあっという間に黒く焦げて朽ちていく肌の様子、あるいは、全て尽きた後、下流の川辺に流れ着いた誰かの大腿骨を「美しい」と見る感覚も、あるのかもしれない。
浅川駅を出て七分、西浅川駅に至ったところで、久我瀬行き481列車は停車した。警戒警報が発令されたのだ。人々の顔には倦怠感が満ち、誰かが刺激したならそれはガス風船のようにたちまち弾けてしまいそうだ。誰かがちょっとでも指で突つくような真似をしたら。……楓果は膝の赤子がすやすやと眠っていてくれることが、本当にありがたかった。
けれど、誰かが言った。
「出してしまえばいいんだよ。警戒警報が出てるってことは、俺たちの兵隊さんがしっかり警戒してくれてるってことだ。なあ、そうだろ」
ひどく楽観的、同時に、五両の客車に詰まった人間たちの願うところをそのまま言葉にして表したものである。
空襲があってから三日しか経っていない。防空態勢がもはや機能していないことが実証されたかのごとき空襲、それを脅威に感じた人間たちが、逃げるために乗り込んだ客車である。
それなのに、竹槍を握り締めた人間たちは天井を見上げて言う。
「そうですよね。いくらなんでも、走る列車を狙って爆弾を落とすなんてことは無理なはずだわ」
声に呼応して、また声が上がる。
「ここでいつまでも停まってるほうが危ないんじゃねぇか」
「そうだわ。かえって、駅を狙って爆弾を落とされたらねぇ」
「いまのうちに走って、もし飛行機が飛んできたらどんどん逃げりゃあいいんですよ」
「トンネルの中だったら安全でしょうに。この先は山越えであっちこっちにトンネルがあるから、そっちのほうがよっぽど安全でしょう」
声は、やがて響きとなり、静かな眠りのなかにあるつむぎを揺すった。彼女は楓果の胸の中でぐずりはじめ、無辜なる泣き声は車内を騒がしめる原因のひとつとなった。水島は表情を強張らせ、愛娘のまだ少ししか生えていない髪のあたりをそっと撫ぜた。日中、楓果が一人で彼女を見ているとき、泣き止ませるためにはいつもずいぶん時間を要するのに、つむぎは水島の手によっていつも泣き止むのだ。本能的に、血の繋がる父であることを察知するのだろうか?
客車が物理的に膨らんだわけでもなかろうが、長らくの抑止の中で、駅員や乗務員の動きが慌ただしくなって、間も無く。
警戒警報の音に混じってホームのベルが鳴り、ごとん、……ごっ、ごっ、ごっ、という前方の機関車から響く 振動に遅れて、客車が動き始めたときには、鬱憤の晴れやかに浄化するような歓声が車内で上がった。
「やあ、これで一安心だ」
後ろの席で誰かが言った。
水島は不安げに外を見やる。
線路はこれより先、山越えの道へと入る。先ほど誰かが言ったように、トンネルが多い区間である。万が一敵機が飛来するようなことがあれば、そのときはトンネルまで逃げ込んでしまえばいい。車内の人々は誰もが、それが容易いことであり、極めて常識的な判断だと信じていたようだ。
「大丈夫」
水島は、小さな、本当に小さな声で、祈るように言った。
「きっと、大丈夫」
そう信じることしかできない人間の群れに、彼が自ら身を浸すことを選んだそのときだった。
窓の外にきらりと光るものが見えた。
盛夏の、真昼の青空に、光の粒をばら撒いたように、きらきら、きらきら、南の空からこちらへ、白鳥の群れのように。
海から飛来した戦闘機の編隊であった。
急げ、急げ、逃げろ、逃げろ、逃げぬと殺すぞ、焼き殺すぞ、愚かな人間ども。
人間の操る機械が、人間を殺しに飛んできた。
幾つもいくつも重なって急接近するエンジンの音が轍を踏み締める単調な音の中をバラバラに切り裂くようだった。やがて、戦闘機から放たれた光の塊が轟音とともに、ほとんど瞬間的に、線路のすぐ脇の、小さな発電所を破壊する。車体が大きく揺れ、傾いだ。それでも481列車、機関車と五両の客車は脱線せずに走る。蒸気機関車が悲鳴を上げるようにひとつ長く汽笛を鳴らした。峠越えの急な登り坂に差し掛かっている。誰かが叫んだ、「窓を閉めろ!」はっきりと狙いを定めてロケット弾を撃ってきた戦闘機に対して、今更窓を閉めたところで。
どこからか、夕立の音が迫ってきた。
「楓果さん」
水島が叫んだ。
「窓を開けて。あなたなら、飛び降りたって死にはしないでしょう」
「何を」
「つむぎを連れて逃げてください、山に隠れて逃げて、生き延びてください!」
雨の音が近付いてくる。
強い雨足だ。それは波となり、どんどん大きくなり、……声、声、悲鳴、絶叫を巻き込みながら楓果のすぐ側まで来て。
行き過ぎた。
楓果の着物の腕が、温かい液体で濡れた。隣に座っていた婦人の頭が消えて、そこにあったものの代わりに、真っ赤な血が噴き出している。斜め向かいの男の目も亡くなっていた、その向こうの幼子は鼻の真ん中に大きな穴が空いていた。
機銃掃射である。
「楓果さん。あなたを死なせたくはない、あなたを死なせてはいけない」
水島の頬にも隣の客の血飛沫が付着していた。
「お願いです」
楓果は、言葉を失った。つむぎは火が付いたように泣き声をあげる。彼女の太腿から夥しい出血があった。
「……ならぬ……、ならぬ、ならぬ! そのような……」
「あなたは、つむぎは、何も負わなくていい。決して負ってはいけない。しかし、私は負わなければならないんです、私たちは」
何を。
再び、背後から雨の音が迫っていた。
続く言葉を待っているだけの時間を、誰も残してはくれなかった。誰も、……誰も、生者も死者も、加害者も被害者も。ただ、本当に負うべきであったのか、楓果にはいまだわからない。わからないまま、同じものを負っている。
「水島」
視界が真っ赤に染まる。
楓果の顔が胸が、庇うように背中を丸めて抱き締めて、ますます激しく泣くつむぎが、全てが、真っ赤に染まる。水島はもう声を発さなかった。声を発するための口を失っていた。彼は一秒前に愛しい娘の顔を見ることができただろうか? もうそのときには彼は両目を失くしていた。思考のための脳を失っていた。
客車が丸ごとひっくり返るような激しい制動が掛かる。楓果はつむぎを抱いたまま、首のない水島の腹に顔を埋める格好となった。雨が降り続いている。激しい雨が降り続いている。ここにある人間の命を、片っ端から奪わずにはおれない、戦争という人間の行為そのものが意志を宿したような音だった。執拗に、丹念に、人間が人間の命を、あらゆる手段を講じて奪っていく。
幾つかの銃弾は、楓果の身体を穿った。それでも彼女が生きていたのは、彼女が人間ではなかったからだろう。
◯
冬弥が見たのは、全身が真っ赤に濡れた芋窪さんの姿だった。ことにその腰回りは、つむぎちゃんの幼い身体、右の太腿から噴き出す大量の血によって激しく汚れている。
鼻に届くのは、煙と鉄と血と肉と、あとはおそらく骨の臭い、それは即ち、むせかえるような死の臭い、しかし同時に、命のにおい。
命の痕跡。
つむぎちゃんを抱いた芋窪さんが悲しそうに冬弥を見ていた。その手は、なぜだか夕陽のようにオレンジ色をしていた。
「……見てはならぬと申したじゃろう……」
優しく、あまりに悲しく、痛々しい。それは芋窪さんが美しい笑みを浮かべることで一層凄惨なものとして冬弥の目に映る。
「見てしまえば、……平入くんのように優しい子までもが、負わねばならなくなってしまおうが……」
負う。
芋窪さんがその耳に聴いた、水島喬太郎さんの声が冬弥の耳にも響いた。
私は負わなければならないんです。私たちは。
芋窪さんの耳にはそれぎり水島さんの声は届かなかった。けれど、芋窪さんは彼の言葉の意味をもう理解している、……冬弥だって理解できた。彼女に「負わぬ」という選択肢はなかったはずだ。水島さんがどうにかしてその重荷から彼女を逃そうとして、……だから窓の外へ客車の外へ、死の海となり紅く染まる世界から生の世界へ逃そうとして、でもそれが叶わなかったから。
「これも、もう、ずいぶんと昔のことではあるがのう……、かつて、遠くの国で暗殺された宰相がおった。その者は、妻と共に、屋根のない車で、……パレードと申すのか、走っておるときに、遠くから銃で頭を撃ち抜かれて死んだ」
そういうことがあった、というのは、聴いたことがある。強権を持つ者が例外なく恐れるのは暗殺である。
「そのとき、妻が、撃たれた夫の脳漿を、……ほとんど反射的に、……銃弾がその者の頭を射抜いたその次の瞬間にはもう、両手で夫の脳漿を掻き集めていたという」
滑稽な話をするように、彼女は笑った。
「それが人間の、……有限なる命しか持たぬ者の、命に対しての姿勢なのかもしれぬ。しかし、……ふふ、おかしいのう、妾は人間より遥かに、遥かに長い時を生きる、それはつまり、無限に及ぶ数の死を目の当たりにするということに他ならず……、なのに妾はあのとき、たった一つの死を、人間のように遡りたいと思うてしまった。ばらばらになった水島の破片を掻き集めれば、水島の命を元の通りに取り戻せると思うて、ほとんど……、何も、何も考えぬうちに」
冬弥が気づいたとき、芋窪さんの手からは赤ん坊のつむぎちゃんの姿は消えていた。代わりに、彼女の両手を取り、自分の左右の頬に当てて包ませる、小さな少女であるつむぎちゃんが冬弥の前にはいた。
「水島が言っていたじゃないか。楓果が背負う必要はない。それは、私たちが人間が背負って行かなければいけないものだ。そして、……実のところ誰として、背負って生きて行けるようなものではない。そしてね、実のところ頼まれなくたって、誰もが背負ってしまうものでもある」
つむぎちゃんの声を初めて聴いたときのことを、冬弥は思い出していた。
子供の声帯でありながら、大人のやりかたで声を発していると感じたのである。いま、この瞬間、改めて強くその声が冬弥の中を揺さぶった。彼女は芋窪さんの娘ではない。しかし芋窪さんの娘として、水島さんの娘として、命として、水島さんの依代となって芋窪さんを護っている。
芋窪さんが水島さんと過ごしたのは、ほんの短い時間ではあった。そしてつむぎちゃんには水島さんという父親の記憶は全くないはずだ。三人にはつまり「家族」として成立するだけの要件を満たすだけの時間が用意されなかった。
それでも、芋窪さんが水島さんのことを愛していたのではないかという想像は、許されるような気がした。
命が目の前で失われたそのとき、……決して不可逆なものであることを、彼女はきっとあらゆる人間よりも詳しく知る身でありながらなお、取り戻せるかもしれないと思ってしまったことから、冬弥は勝手に想像する。
瞬きの次には、赤ん坊に戻ったつむぎちゃんが芋窪さんの胸に抱かれている。芋窪さんが立ち尽くす地獄からは音が消えていた。空にはもう、戦闘機の影もなくなっている。まるで空そのものが人間の命を殺したかのようだ、……いや、その空だっていまは、煙に覆われて見えないが。
つむぎちゃんはぐったりとして動かなくなってしまった。
芋窪さんの耳に、声が届いたのは、そのときだった。
「ああ、こりゃあ酷いねぇ……」
◯
その者たちは煙に包まれた森の中から現れた。輪郭の定まらない二つの影、一つは巨躯、もう一つは、比べものにならないほど小さく、声を発したのはそちらのほうである。
「生き残りはいるのかな、全滅ってことはなさそうだけど……。あたしトンネルの中に収まってる客車のほう見てくるからさ、あんたはそこらへんに、客車から這い出たやつで、まだ生きてるのがいるかも知れないから探してよ」
いかにもすばしこい、早口。
「……いたとして」
もう一人は、暗い声であった。
「どうするがじゃ。どう出来ゆうが」
絶望的な声だと見てもいい。
「わかんないよ。あたしにだってわかりゃしないけどさ、でもさ」
高さは違う、表情も違う、どちらも女の声である。低い声の絶望を、無理やりに吹き飛ばすように高い声が言った。
「とりあえず見付けるところからでしょ。あたしだって、わかんないよ。でもさ、でもさ、あたしたちは、人間の中で生きるって決めたわけじゃん。だったらさ、人間がこういうときどうするかって、想像して真似すんのが一番いいんだよ」
小さくて軽い足音がトンネルのほうへ駆けていく。
「おーい、誰か生きてるのいるかぁ、おーい!」
やや金属質な高い声が跳ねて響く。もう一人の重い足音も、歩き始めた。
「飛行機は去ったがじゃ、生きゆうやつはおらんがか」
人間ではない、ということはすぐにわかった。つまり自分と同類である。彼女たちが何者で、どこから現れたのか、なぜ現れたのか、楓果には何一つわからなかった。そもそも思考をきちんと回そうという力さえ楓果の中に湧き出てくることはなかった。
かくして無力に立ち尽くす楓果の前を覆う煙の中から、巨大な女がぬっと現れた。見上げるほどの大女、ぼさぼさの長い髪、分厚い肩。
「あっ」
垂れ込める前髪によってその目はほとんど伺えないが、声を発したときに覗けた口の中には鋭い牙が覗けた。
「エツコぉ、いるいる、何人かは生きてる! ……でも、中ぐちゃぐちゃだ、あたしじゃ運び出せない、あんたの怪力でさぁ」
駆け戻ってきた声が、どしん、と巨躯の腰にぶつかって、尻餅をつき、「あでっ」と声を上げる。足元に転がったのは小柄な、やけに華美な服を着て、……しかしその服のあちこちを既にして血に汚した女である。
「いてて……、なに突っ立ってんだよぉ……、おあっ」
女が、楓果を見上げて目を丸くする。
エツコと呼ばれた大きな女は、楓果の胸に抱くつむぎを覗き込んで、
「まだ、息がありゅうが。血ぃが止めんと、死んでしまうがじゃ」
冷静さを保ちつつ、言い、
「エマ。この赤児が、すぐに手当てしゅうがじゃ。わしは、そん客車中が出来る限り、生きてる者が引っ張り出すが」
「お、おう。あんたは、……人間じゃないな? この子は……? と、とにかく、急がないとこの子も死んじまう。この先を下りたところに空襲を免れた病院がある、そこに連れて行くよ。あんたも来な」
小さな女が、つむぎの身体を楓果の冷たい腕から受け取った。そのとき楓果は、つむぎと癒着していた皮膚を剥がされたような、激しい痛みを覚えた。
彼女の背中はこのとき穴だらけだった。幾つもの銃創から血が滴らせている。心臓や肺を貫かれていなかったのを、人間が奇跡と呼ぶのならばそれを一々止めることもしないけれど。
ただ、つむぎの、命の重さが腕から消えた瞬間、どういうわけか楓果の両眼からは、涙が噴き出した。それはほとんど動脈血のように、噴き出すという表現が相応しかったように思う。自分の身体の中に、涙腺に、それだけの機能があったことも知らなかった、……ずいぶん長いこと生きてきて、そのときまで知らなかったのである。
つむぎと繋がる血、つむぎに連なる血の一滴も自分の中には存在しないのに、楓果はそのとき、自分の魂を半分剥ぎ取られたように思われてならなかったのだ。
◯
空からは蝉の声が降っている。
鼻に届くのは夏の草いきれのにおいだけである。バッタが足元を飛んだ。蛾か蝶か定かでないものがゆらゆらと陽炎の縁を縫うように飛ぶ手前で、ぶんっと虻が顔の目の前を横切った。
「すまぬ。長話をしてしもうたな、このような場所で」
警報器が鳴り始めた。
このあたりは、片道あたりおよそ二十分に一本程度のペースで電車が走っている。ということは十分に一度ぐらいは踏切は鳴るはずで、つまりその程度の時間しか経っていないはずなのだが、八十一年を往復した冬弥には、はてしなく長い時間のようにも思われた。
「私のどが渇いた。平入くんもきっとそうだろう。バス停一つぶん戻ったところにいつも寄る店があるんだ、あんみつがおいしいよ」
つむぎちゃんに促されて、冬弥は頷く。
芋窪さんは頷いて、でも、六両編成の普通列車が走り去って、その残響がトンネルの向こう側へ消えるまで待ってから、空を見上げる。
彼女が静かに手を踊らせた。
血のように紅い楓の葉が、彼女の腕の、指の軌跡からひらひらと舞って、トンネルに吸い込まれて行った、……ように見えた。それが夢幻であったのか、それとも、芋窪さんがかつていた山の泉から呼び招いた手向の葉だったのか、冬弥にはわからない。




