人間の国
山を下り、しかし下り切ることは頑として拒んだ楓果である。結果として水島は、芋窪山から二十里ほど東に進んだ首都郊外、当時は今以上に山畑の密度の濃かった浅川の谷戸の奥に邸を構えた。
森の万事を自分の手足のように用いることのできる樹霊の楓果には、木々を刻んで組み合わせて家を建てることぐらい、容易い仕事であった。遠く離れた自分の泉を模して、地下の水脈と繋ぎ、広々とした浴室を設けることも忘れていない。
水島は近くの集落で、慣れぬ力仕事に精を出した。若い男手はほとんどが召集され、集落に残っているのは老人や女性、そして幼児ばかりで、いずれも悲しいほど痩せ、飢えていた。水島のような貧相な男であってもずいぶん重宝がられたし、空いた時間には住まいの周囲で採取した食用野草を人々に配り、感謝もされた。無論、彼がどこから来た何者であるのかということについては、楓果のまじないによって上手に覆い隠され、誰からも咎められることはない。
楓果は楓果で、電気の厄介さに困惑することもないではなかったが、妾は断じて困ってなどおらぬという顔を上手にして過ごした。水島が仕事に行って家を空けている間はずっとつむぎの子守り。もっとも、楓果は乳が出ず、そもそも人間の子に乳を吸わそうなどという気もなかった。一方で、子守りぐらい妾には何の苦労もなく出来るのじゃと、邸の中でせっせと働き、針仕事にはむしろ才能を発揮さえして、限られた食材を駆使して料理だってこなした。
まだほんの小さなつむぎは、あの枯葉のようだった身体も嘘のようにぷくぷくと肥え、戦時下の乳児としてはあるまじき健やかさを得るに至っていた。
梅雨が明け、夕暮れの谷戸が蛙の鳴き声に塗りつぶされるころ、父と娘と樹霊の暮らしはすっかり落ち着いていた。
「ただいま帰りました、楓果さん」
農夫らしい姿で帰宅した水島は、つむぎを抱っこして出迎えた楓果に、「これをもらいました」と何やら面妖な箱状のものを差し出した。
「ラジオです。ええと、楓果さんはご存知ないでしょうか。遠く離れた場所から声を届ける機械です。その日の出来事を読み上げる声や、遠くの音楽が電波に乗せられていて、この機械で拾って聴くことが出来るんです」
「ば、馬鹿にするでない、らぢおぐらい知っておるわ!」
しかし、楓果は実物を見るのは初めてであった。
人間の進化については、もちろん把握している。ただ、情報としてそれを備えているのと、実際にその進化を現象として見るのとでは全く違うものだ。楓果は芋窪山から浅川へ来るとき、水島に導かれて汽車に乗ったのだが、水島にはその際の楓果がさぞ不機嫌そうに見えたはずである。楓果には、巨大な鉄の塊が得体の知れないほど大きな力の働きによって動くという現象が、とても自分の把握できるものを超えている気がして、恐ろしく感じられたのだ。
この邸においては、電気やガスを使いこなさなければ暮らせず、まあ、天井の紐を引いて灯りを点けるぐらいのことは出来るようになったが、その他の機械には君子危うきに近寄らずの姿勢を貫くことにしている。
「戦況の話なんかも、これで素早く仕入れることが出来るようになりましょう。……その、以前大根を三本も分けてくださった、根元さんのおうちの坊ちゃんのものだったそうです」
人間のことなど一々覚えていない楓果である。どうせすぐに死ぬからだ。
しかし、その根元の倅というのは覚えていた。
水島が家を空けているときにやってきて、楓果の腕よりもずっと太い大根を「これ、先生にって、うちの母ちゃんが」と差し出したのである。
楓果とて、蜥蜴のような冷血ではない。ご苦労、と茶の一杯を飲ませて帰らせたのだが、「ごちそうさまでした」と言うときの眼差しの純朴さと、
「奥さまは、思ってたよりずっと若くてお綺麗だ」
とその瞳の煌めきとは裏腹にこまっしゃくれたことを言ったので覚えている。奥さまではないと否定したい気持ちだったが、そうすると水島がややこしいことになるのかも知れないと、黙っていた。
その倅が、召集されたのだ。
まだほんの子供である。人の身体の年齢として捉えれば、楓果と一つか二つしか違うまい。
先生が、前に「ラジオがあったら便利」と言っていたんで、俺のラジオは先生にあげてください。
病弱な母にそう告げて、彼は出征したそうだ。
死にゆく若者を、それがさも喜ばしいことであるかのように万歳で見送る因習が蔓延る、全体的であり、かつ未開の国家の片隅の出来事。
「とても気持ちのいい若者だったんです。見ているこちらが元気になるような。いやしかし、彼も決して身体が強い子ではなくて、だから赤紙の届く日はこうして遅くなったわけですが。それでもね、ああ、これがつむぎの身に起きることであったらと……」
母は「よかったねぇ」と言ったのだそうだ。
息子は「よかったです」と言ったのだそうだ。
死んで花実の咲くものか、人間の身にわからぬはずもない。けれどもそう言うほか許されなかった母と子の胸中を推し量り、みな同じく傷んでいながら「万歳」と言って送り出す人間たちは愚かであるのみならず痛々しく、楓果の人間の形をした胸の奥から空気が抜けていくようだった。
「……我らの見立てが正しければ、この戦争はもうすぐ終わるのじゃろう」
食後、麦と大根の葉の薄い汁で、満ちたつもりの腹を摩った水島に問う。
「左様」
彼は頷き、ラジオを撫でた。
「その日の到来を、この機械によっていち早く知ることが出来ましょう」
どうだかな、楓果は懐疑的であった。
「死ぬことを恐れぬようにすることを考えつくような者どもは、人間の耳目に入れるものをもまた、その恐怖から遠ざけるように創ると妾は思う」
「……そうでしょうか」
水島は訊き返したが、その目には、楓果の言ったようなことは先刻承知であったような、醒めた色が浮かんで見えた。
「駒から恐怖心を、言い換えれば自分がやがて死に終わる人間であることを抜き取ったところで、戦争が終わってしまっては、まして負けて終わってしまっては、駒である意味が無くなってしまおうが。それならば、最後の最後、致命的な終焉を迎えるときまで、何らかの言葉がその機械から発されることはないように思うがのう……」
つむぎが楓果の膝の上で何か言う。それを無視すると、無視されたことがわかるのか、たちまち泣き始めるので、楓果は指の背を彼女の右の頬に当てた。
ある種の有袋類や、樹上で生まれる鳥などが極めて脆弱な形で生まれてくるように、人間もまた父母の庇護を前提とした形で生まれてくる。
それなのに人間の中には必ずある一定の割合で、人間を害するために判断し行動する群れがいる。幸いにしてそれは少数なのだが、うっかり強い力を持とうものならば、たちまち大多数の弱いものの心の中に取り入り、行き渡り、全体という大きな集団となって、人間そのものを自壊させる方向へ蠢き始める。
楓果にはそれが不思議で仕方がない。
ただ、疑問を口にして、「先生」と呼ばれる男に講釈を垂れられるのは嬉しくないので、自分で考えの中を彷徨い歩き、答えに辿り着く。少数の愚かで強い者も、大多数の、同じほど愚かで弱い者も、結局は同じ人間であって、どちらの中にももう片方のどちらがいて、共鳴することは避けられないのだろう。
つまりいま奇しくも、彼女自身がそういう言葉を選んだ通り、人間は皆愚かなのだ。
残念なことかどうかはさておき、水島も、つむぎもきっと。
「どうでしょう、正しい話が聴けるかどうかはわかりませんが、せっかく手に入ったラジオを聴いてみませんか」
「えっ」
楓果が発したのは、え、というよりは「げ」に近い声であったような気がするのだが定かではない。しかしあの正直なことを申すと妾ちょっと機械というのは面妖で落ち着かない気持ちになるんで遠慮したいのう、みたいなことを言うのは楓果的には沽券に関わると思っているので。
「えっ、あの、ほんとに……、あの」
楓果が止められないでいるうちに、水島はせっせとラジオを壁の、コンセント、なる穴に繋いだ。家を作るときに「そういうのがないと後々困りますよ」と言われて、もちろん自力で作れるはずもなく、こればかりは人を呼んで設けてもらったものである。
身構えていたのに、
「ぇい国陸海軍は! 本日も南方において! 輝かしい戦績を!」
といきなり四角く尖った男の不自然な読み上げ声が家中に響き渡ったので、
「ギャー!」
と声をあげてしまった。これは本当に文字通り「ギャー!」と声を上げたのである。飛び上がった楓果の膝からつむぎが転がり落ちたが、つむぎはころんと寝そべって、悲鳴を上げた楓果を短い指で差して愉快そうに笑う声を立てる。
水島がラジオから飛び出た丸い何かをつまんで動かすと、声は常識的な大きさに落ち着いた。
「なお、本日七月三十一日、敵国軍航空機より、本土を爆撃する旨の伝単が散布され、ことに八月より各都心、大沢、小木、北庄、浅川、丸野の各都市に順次空襲を予告するという謀略が流布されているが、これは全く無根拠なものである! 我が国の防空は万全のものとなっており、一切の懸念は不要である! 一方、各家庭においては防空の備え、近隣との確認体制の整備を、改めて確認するとともに……」
伝単とは謀略ビラと言い換えてもいい。
相手国の市民向けに、戦意喪失を狙って配布され得るものである。浅川、という地名があったことは、楓果が「ギャー!」と言っていても水島は聞き逃さなかったし、声を発する楓果自身もきちんと聞き取った。
心配いらない、という主旨の発言が、ラジオからされた。
どれほどの人間がそれを信じるというのだろう? ビラをあっちこっちに撒き散らす飛行機を追い返せもしないのに「防空は万全」などという言説を易々と飲み込む優しさを、誰が何のために発揮しなければいけないのか。
里に降りたなら水島も、「そうですか、まあ、それならば安心ですねぇ」とでも言って笑うふりをするのだろう。
死に行く人を祝福し、悲しみの涙すら許さない、国民の同意の元に作り上げられた、そんな国。
予告されていた空襲があったのが、三日前、八月二日の未明である。
「警戒していなかったわけではないんでしょうが、やはりあの放送が効いたのかもしれません」
経緯はこうだ。
一日夜八時過ぎ、警戒警報、次いで十時過ぎに空襲警報が発令した。しかし同刻、同じ関東の別の場所が爆撃の被害を受けたという速報が入った。浅川の人々は、その情報を得て、却って警戒を解いてしまった。そっちが狙われているのなら、こっちは大丈夫だろう……。あの伝単を「所詮は謀略」と見做していた人々の中には、「こうして名前を載せて経過しておるところにわざわざやって来るほど間抜けではあるまい」「こちらの防空は万全だからどーんと構えておればよい」という考えも蔓延していた。
日付が八月二日に変わって間も無く、蜂の群れのごとき戦闘機が浅川市上空に飛来。ビラの撒布を止められない「防空」が戦闘機になす術を持ちえたはずもなく、二時間以上にわたって降り続いた焼夷弾の雨、その数はこの国が受けた戦争被害の中でも屈指のもの。市内に住む人間の、一人あたり十個の焼夷弾を請け負う計算だったということだ。
「空襲警報が出た時点で、山に隠れておればよかったのじゃ」
激しい爆音の余韻とはっきりとした人死にの気配に、つむぎは怯え切って、ずっとぐずり続けている。粉乳を飲ませても戻してしまう。誰を責めても仕方がないことはわかっていたが、楓果はそう口にせずにはいられなかった。しかし、里を離れたものはいなかったようだ。
いいや、離れることは出来なかった。家財を放って火から逃れるような真似は、人間たち同士で決して許されることではなかったから。街ではなく、家の建て込んだ道でもない、幾らでも逃げて助かる方法はあっただろうに、誰もが火に飲まれて家と同じく灰となった。
水島の作った薬は、もしかしたらもう、何らかの形でこの国の人間たちの身体を冒しているのではないか……、そんな気さえ、楓果はした。井戸や上水道にこっそり忍ばせて、あるいはラジオの音に乗せて、恐怖心という本来あるべきものを感じさせなくする、夢のような薬。
もしかしたら、それだけで全てではないのかもしれない。
己の命が奪われるかもしれないという現実の脅威を直視して生じる恐怖心を麻痺させるよりは、そもそも現実というものを覆い隠してしまうほうがずっと容易い。
「せめて、祈ってきました。そんなことをして、どうなるというものでもないのでしょうが、……楓果さんのまじないの力はあれど、この非常時に私たちを受け容れてくれた皆さんのご冥福を」
生存者がいれば、という思いで集落に向かった水島は、人間の肉体と暮らしの痕跡が真っ黒に焦げた中を見て周って帰ってきただけだった。
二十戸ほどの集落は全滅。飛来した飛行機が、余った焼夷弾をありったけ落として行ったかのようで、一つとて楓果たちの邸に落ちなかったのは奇跡と言ってもよかった。
楓果・水島・つむぎのもとには降らなかったから、そのぶん三十個が、別な誰かの頭の上に分散して降ったという計算が成り立つ。
「……楓果さん、山にお戻りになられませんか」
水島は言った。流石に疲れた顔をしていた。
「申し訳ありません。私たち親子を救ってくださったこと、心より感謝いたします。ですが、これ以上あなたを危険な目に遭わせるわけにはまいりません」
道理にかなう言葉ではある。
「……それで、そなたはどうする、そなたらはどうする」
問いへの答えは、きっと予め支度していたのだろう。
「久我瀬というところに疎開します」
「知り合いがおるのか」
「私の、学生時代の恩師の出身地なのです。無論、手ぶらで言って容易く迎えてもらえるとは思われませんが、ご存知の通り私は大層したたかで、見た目よりはすばしっこいつもりです。それに、私もつむぎも楓果さんにお恵みいただいた聖水を飲んでおりますゆえ、多少飢えることがあったとしても、そうそう死んだりすることはないでしょう」
もしここで、
「そうか。……ならば」
こう言わなかったら。
「妾もそこへ連れて行け」
後になって、楓果はそう思うのだ。
久我瀬に水島の恩師という者が本当にいたのかどうか、久我瀬に辿り着いて本当に父と娘が路頭に迷うことを避けられたのか、空襲の難に遭わずに終戦の日を迎えることができたのかは、正直なところ、わからない。
あと二週間も経たぬうちに、戦争はこの国の全面降伏という形で終わりを迎える。それぐらいの期間ならば、この邸にじっと身を潜めているうちち、大過なく乗り越えることが出来たのではないか。
無論、正解の出る話ではない。この空襲を受けても、恐らくこの国はまだ戦いをやめないだろうという考えは、楓果だけでなく水島も、もうすでに思考という能力を備えていたならばつむぎだって持っていただろう。当然と言えば当然、黒く焼け死ぬのは駒であって、その動きを決める限られた数の人間ではない。
人間として、命として、数を挙げることはしようけれど、そこに在する個別固有の事情になど目を向けるはずもない。目を向けられない人間の群れが自ら、「そんなものを気にする必要はない」と言い張って出来上がった国の骨組である。
「……わかりました」
水島は、膝に置いた両手をぐっと握って言った。
「一緒に、疎開しましょう」




