パルマケイアー
◯
八月五日、正午。
西浅川駅に停車した久我瀬行き481列車は、C12型機関車を先頭に、荷物車一両と旅客車五両を連ね、長らく出発を待っているところだった。
酷暑の日。空が広く見えたことを、楓果は覚えている。そのあまりにも見晴らしがよく抜けた夏空は、空、というものの広さと同時に逃げ場のなさを彼女に思わせた。
発車時刻はずいぶん前に過ぎたのだが、久我瀬行きはいまだ西浅川駅を発とうとしない。客車内に充満した人人人、持って行き場のない苛立ちと、どこかしら間延びしたような、自棄っぱちの空気、なによりも胸が悪くなりそうなほどの蒸し暑さ。乗客たちが窮屈さに気兼ねし合いながらそれでも動かす内輪や扇子によって、それぞれ異なる様々な事情が混然となる。
その中にあっても、胸に抱いた赤子が大人しく眠っていてくれることは救い以外のなにものでもない。
「楓果さん、大丈夫ですか」
向かいの席の男が訊いた。
笑みを浮かべて見せてもらうとき、そのこけた頬に努力を見てしまう。目の下を濃く隈で染めて、盛夏の折に額も鼻梁も青ざめたように白かった。
「……そなたが、『大丈夫』などではなかろうが」
彼女の古風な言葉に、周囲は怪しがる素振りも見せない。人に交じり居る人ならぬ身として、その程度のことで一々騒ぎ立てられては厄介であるから、僅かばかりの緩衝を設けるという方法を、彼女は採用していた。
「この三日、碌々寝ておらぬのじゃろう」
「それは、まあ……。でも、ご存知でしょう、私はそれほど長く寝なくても平気なのですよ」
山の中をすばしこく跳梁する鼬のように自分を定義して、彼は笑った。
汽車は、まだ発たない。
事実、楓果はこの男が自分の前に彷徨い出てきたのを見たとき、子連れの大鼬のように思われたのである。そのときの彼は、全身泥汚れだらけで、あまりに見窄らしく、そして極端に不潔であった。それでも胸に抱いた赤ん坊の肌は、……彼が汚れているものだから、まるで光り輝いているかのように見えた。
雪が残っていたから、半年は前ということになる。
まだそれだけしか経っていないと見るべきか、それとも、もうそんなに経ってしまったと思うべきか。楓果の立つ泉にのほとりに、転がり出た男は、自分の胸に抱いた赤子、……一歳にもなっていない乳飲児が、まだ息をしていることを確かめて、安堵し、なにがしか祈祷するような言葉を呟き、それからしばし、泉に顔を向けて言葉を失った。
男の全身どことして悴んでいないところはない、傷んでいないところを探すほうが難しいほどだ。
彼がその場所に転がり落ちてきたのは凍った水たまりに足を滑らせたからだが、泉は薄い氷片の一つすら浮かべず、氷点下の山中にあって薄く湯気を立てて、まだ明けやらぬ空に白く細く糸を伸ばしている。真円に近いその泉の中心、水の中から立ち上がるように、楓果はいた。
楓果は凍りつく冬の早暁に、季節外れの真っ赤な葉を茂らせる楓の一本木の形をしていた。
現在ではその名も失われて久しいが、当時は「芋窪山」と呼ばれていた。隣の山との境目の、やや落ち窪んだところに小さな集落があり、そこでは芋がよく採れたため、そう呼ばれるようになったのであるが、楓果はその山の中、ほの温かな湧泉の底から生えた楓が意思を持ったものである。
長命と哲学ゆえに霊力を持つに至った鳥獣、吊掛エツコ、白子エマ、小豆洗スイと言ったやがて出会う朋輩たちと同様、あるいは彼女たち以上に霊的な存在である楓果もまた人間の形を模ることが出来た。しかし、進んで人と交わる気もなく、木の姿のままいることに飽くこともなく、ただ彼女は泉の中央という不可侵な領域で高潔な存在としてただ立っていた。男が転がり込んでこなければ、きっともう何百年でもそうしているつもりだったのだが。
「やめよ」
思わず声が出てしまったのは、汚れた男が小さな赤児を抱いて水に入ろうとしたのがわかったからだ。水に入る、……文字通り、入水しようとしたのだということがわかったからである。あまりに美しく高貴で、この世ならざる処へ迷い出たと思った男は、ならばこの聖域で命を終わらせることに、何らのためらいも抱かなかったようだ。
しかし汚れた身体で踏み入ろうなどとするのが既に狼藉!
そのうえ、泉に屍体を浮かべるなどもってのほか!
いまは白い湯気に覆われ、そもそも人間の曇った眼には捉えられまいが、陽が昇れば遥か深い底まで覗けるほどに清らかな泉なのである。
男がどろどろの顔を上げた。楓果は人の姿を模り、死ぬのならばどこか別なところで好きに死ねと叱り飛ばそうとしたのであるが、その声が一瞬遅れた。
男の腕の中の赤児が、いかにも弱々しい、今にも掻き消えそうな熱を擦り合わせるような細い声で泣き始めたからだ。衰弱していることは明白、男の手によって水に沈まなくとも、もう長くはもたないだろう。赤児というものにある柔らかさはどこからも見て取れない。楓果の枝の一番細いところがそうであるように、骨と皮が一体化しているかと思われるほど、危なっかしい。
楓果の声を聴いて、男がびっくりしたように顔を上げた。むさくるしく顔を覆う髪の向こうで、目の光だけがらんらんと光り、気味が悪い。無論、楓果は人間の感覚から見たとき自分が「おばけ」とされ気味悪がられることぐらいは知っているが。
「……それは、貴様の子か。それとも、どこかから盗んできた子か。貴様は何者か。いや、……その乳飲児は、……おい!」
楓果の言葉に一つも答える暇もないまま、男の目からは光が失われ、赤児もろともざぼんと水に落ちた。
楓果がそのとき、とても一生懸命に二つの身体を泉から掻き出すように外へ出したのは、ただ泉を汚したくなかったから。
それだけであった。
縦しんば二人がそのまま死ぬことがあったとて、楓果は少しの傷も負わなかっただろう。楓とは、木材としてもとても丈夫なものである。また彼女にとって人間が死ぬことは少しも特別ではない。泉に来て、この神々しい姿に圧倒され、何度か通った人間が、山中で遭難して、あるいは熊や猪に襲われて命を落としたとて、彼女にとってそれを数えるのも馬鹿らしいことであった。ただその屍体が自分の聖域や肉体そのものを穢すことさえなければいいと思うのは、長命な生きものとしてちっとも不自然なものではない。
残酷なものか。人間に、蟻の生き死にに心を動かされることがあるかどうか訊いてみればよい。
「なんじゃ、生きておるのか」
彼女の泉は端から溢れて小さな川となり、流れていく。彼女は男と赤児を摘み上げてそちらに放るつもりでいたのだが、近くに寄ってみれば蹲った二人にはまだ息があった。くぐもってひどく聴き取りづらい声ではあったが、男の言ったことを総括すると、
「私は植物学者の水島喬太郎という者であり、この子はつむぎといいます。食べものを求めて山に入ったものの、道に迷い、負傷しこの有様」
とのことであるが、多少は人間というものを傍観したことのある楓果には、この蓬髪に汚れきった身体が発した言葉と矛盾しているように思われた。
面倒臭いと思いながらも、楓果は水島と名乗った男とつむぎなる赤児に水を飲ませた。言うまでもなく、彼女の泉の水であるから、人間の身体にとっては毒であり、薬である。それがどういうものであるかは、のちに明らかになるとして、彼女はそのときほとんど何の頓着もなく、男の嘘を暴くことにだけ興味を向けて飲ませてやったのである。
男の声は潤いを取り戻した。娘のほうも、たちまち肌の色がよくなり、すやすやと眠りに落ちたようだ。
「ああ、助かりました。あなたは楓の姫君に違いありませんな」
「くだらぬ。学者がなぜ、そのような風貌になるまで山を徘徊しておった」
「はぁ……、姫君には、ご納得頂き難い話かとは存じますが……」
水島は、国家機関の研究所に勤める学者であると改めて自己紹介をした。
そこにおいて研究されていたのは、
「人間の……、苦痛や恐怖を和らげる薬です。ある種の植物の汁や、煎じたものを混ぜ合わせることで、人の心身の逃れえぬものから逃すために……。あの、姫君はいまこの国が戦争をしていることをご存知ですか」
「いま」
楓果は鼻で笑った。
「貴様たちが戦争をするのは、いまに始まったことではなかろうが。妾がここに突っ立つようになってから、貴様たちが戦争をしなかった時間がはたしてどれほどあったことか」
「いや、おっしゃる通り、まさに」
人間全てを代表するように、水島は頭を掻いた。いや、不潔さゆえに痒いだけかもしれないが。
「その愚かしい戦争を、いまもまさに、行っているところです。この国は、間も無く負けてしまいましょう。しかしそんなことを口に出して申したならば」
やや滑稽なしぐさで、彼はきょろきょろと周囲を見回して、「私とこの子はたちまちこの世とおさらばでございましょうなぁ」と肩を竦めた。遊び心のある男であるようで、楓果は少し笑った。無論、それは嘲笑の類である。
「読めたぞ。貴様はつまり、この国のばかどもの求めに応じて、人間どもを死の恐怖から解き放つ薬を拵えようとしておったのじゃな」
楓果の感じた手応えに、「ははあ、さすがは姫君だ」と水島は大袈裟に驚いて見せた。卑屈な笑いを浮かべ、しかし、暫時確かに死にかけた身として開き直ったか、ぺらぺらとよく喋る。
「左様。その薬を飲めば、いかなる臆病者もたちまち死の恐怖から解き放たれることになるのでございます。……あの、姫君は死の恐怖というものをお感じになられたことは?」
「ない。まあ、いつかは死ぬのやもしれぬが、妾はこの身を傷つけられたとて死にはせぬ」
「それはやはり、植物であるからでしょうねぇ。植物というものは、命の理想です、人間などよりずっと堅牢で、だから私は植物が好きなのです」
水島は数人の仲間と共に、「お国のための」研究に心血を注いだ。激化する戦争の中、一刻も早く人々を恐怖から救い出すためにと、昼夜を問わずに働き、……そして、薬が間も無く出来あがろうかというときに、水島は気付いたのである。
「そもそも、人々が死を恐れなくなるということはどういうことか……、ということなのですよ、死を恐れぬ姫君」
形こそ微笑みを真似たもののようだが、あまりに苦過ぎて、楓果にはそれを直視することができなかった。
有限の命しか持たない人間が、命にこだわることをやめたなら? ……それは恐怖から人間の心を解放する理想の薬であると受け止められるだろう。同時にまた、人間を動かすに容易い毒となる。
人間には信心なるものがあるという。そういう知識を楓果は地中に巡らせた根から吸い上げて備えていた。人間が仏陀や基督を依代に死後の世界を覗き見るのは、そういうものがあると信じたいからだ。行く場所が仮令無間地獄であろうとも、そこにそういうものが「ある」と思うことで、人間は死を「終わり」とは捉えずに済む。
現世の不遇は死んだ後に行き着く「何処か」にて報われるものだと思えばこそ、理不尽な労苦にだって耐える。来世なるものが現世と繋がるものであると信じられればこそ、現世において大人しく他者に迷惑を掛けず、他者に都合よく生きていようと思う、……都合のいい人間に留まることもできるのである。
死の恐怖。そのたがを外したら、人はどうなるか。
「人は火を恐れなくなります。痛みを克服します」 死ぬことは怖くありません、そして、死んだ先には今の生とひとつづきに繋がった『その先』がありますと言われれば、この生というもの、存外雑に扱ってもよいと思うようになるだろう。
「そして自らを統御するということ、自ら思考したり想像したりすることを、容易く手放してしまいましょう。いかがです? とても都合のいい……」
空虚な死神の笑顔だった。いかにも露悪的に言う水島は、笑顔を模ることにこそ成功している。しかし楓果には、哀しげで、今にも泣き出し、ぺらぺらと喋る舌を自らの歯で噛み切ってしまいそうに見えた。
自分たちの作った薬の持つ毒の作用に気が付いた水島たちは、仲間割れを始めた。自分たちさえ飲まなければいいと主張する者、国のためにやったのだから悪くないと言う者、すでに善悪での判断をやめてしまった者。
そのあまりに愚かしいやり取りに辟易した水島は薬の製作に欠かせぬ幾つかの機械を破壊し、素材を汚損し、研究所から逃亡した。
そして、追われる身になった。
「……その薬を、私も飲んでおくべきでしたねぇ。いまやあらゆる目が私を睨み、あらゆる手が、私を拷問しようとしているように思われて、怖くて怖くて仕方がないのです」
人間の顔に戻って、彼は言った。
「そうした暮らしが、二月も続きましたか。……私はとうとう、こんな具合に力尽きて、もうこのまま死ぬのだと思っていたのですが……、とある、親切な女性に助けられましてね。匿われることになったんです」
その女の詳細を語ることを、水島はしなかった。ただ、その女が自分を匿ったことによって官憲により痛罵され暴行され死んだこと、そして、水島が抱くその乳飲児が、女の娘であることは明らかである。
「人のいるところで生きていることはもう出来ない、しかし、この子ばかりはなんとかと、山に隠れて暮らしていたのですが、とうとう……」
「そして、妾のこの泉の、死ぬ前にこの美しきありようを見たならば悔いはないと、死ぬことを選んだか」
「左様。いやはや……、全く見事なものです。しかし姫君、あなたさまのような貴なるおかたのお住まいであったならば、美しさも当然と言うもの、……そして、ああ、ご無礼をいたしました。いまより私はここを去り、野垂れ死ぬことと致しましょう。ですが、……ですが」
飄々とした水島の双眸に、爛とした光が宿った。それはこの男が見せた初めての、欲求、希求、死を恐れぬ者が見せることのないはずの、強い生命の光。
「つむぎだけは、この娘の命ばかりは、どうか、……どうか、お繋げいただけないでしょうか。この子には、何の罪もないのです。この子の母にも何の罪もなかったのです。ただ、私などと出遭ってしまったがために、私などと通じてしまったがために、命を落とすことになった人の……、命、そのものが、この、つむぎなんでございます……」
楓果は負担に感じた。その娘が、というよりは水島の押し付けてくる感情の量感が。
舌を打ち、
「どのみち、貴様らはもう死なぬ」
吐き捨てるように言った。
「泉の水を飲ませた。容易く死ぬことはもう出来ぬ、心臓を穿つか抉り出すかでもせぬかぎりはな。間の悪い偶然じゃなあ、貴様の生み出した薬と同じものが、ここには満々とある。娘の顔を見よ。血の色も肌の色も先ほどまでとは大違いじゃろう」
水島の顔に驚きが広がり、それから、喜べばよいやら悲しめばよいやら、幸福なことなのか呪わしいことなのか、まるでわからなくなってしまったらしい彼は顔の右半分を痙攣させ左半分はぴたりとも動かさず、数刻、言葉を失った。
長い時間を要して、彼は結論を出したらしい。
「姫君、ああ、姫君、まことに……、ありがとうございます。このご恩は一生忘れはしません、娘にも、必ず伝え聞かせましょう、毎年今日この日に、娘と共に参らせていただきましょう」
「やめよやめよ、鬱陶しい。そのようなもの妾には要らぬ。妾はただ、ここでじっとしておるのが……、やめよと言うておろうが足にまとわりつくでない!」
死を恐れぬ人心を呪わしいものと定義した男は、自らが容易くは死なぬ身体へと変じたことの是非を棚上げし、ひとまず娘がすぐに死ぬことはないという事実だけを寿ぐことにしたらしい。
水島は泉の近くに棲み付き、娘を楓果の泉の側に置いて、冬の枯れた山で食べものを探して日々徘徊するようになった。さすがに植物学者というべきか、彼の目にはこのかさこそとした冬山も一日徘徊すれば食べるものを見付け出すことはそう難しくないことだったらしい。ただ、日々帰るたびに大怪我をしたり、凍傷を拵えたり、「いやあ、今日はびっくりしました」と突如現れた猪に跳ね飛ばされたと流血をして現れたり。
楓果の泉のおかげで簡単に死ぬことはない一方、水島の薬のように痛覚や恐怖感は奪われないで残存しているものだから、時折山のどこかから悲鳴が響くのは、楓果は、未来の言葉を持ってくるならばQOLを著しく損ねることとなった。あと、水島が泉のすぐふちに娘を寝かせて出掛けてしまい、娘はせっせと寝返りを打つもので、一日に何度も泉に落ちそうになる……、そのたびに楓果は彼女を落ちにくい場所へ移してやらねばならぬ。これもまた、大層な負担であった。
春となり、山に恵みが行き渡るころ、楓果は音を上げた。
「もう、もうどこかへ行ってはくれぬか……。妾もうしんどい。静かな日々を取り戻したい。人間は人間の中で生きよ」
このところすっかり健康な見た目を取り戻した水島は、大げさに困った顔をして見せた。
「はあ、そうおっしゃられましても……」
手持ちの刃物で髪をばっさり切り、器用に髭も剃り、……そうすればこざっぱりとした見た目で、最初の印象よりもずいぶん若いことが露わになっていた。また、「大学を出ましてからは、毎日ずっと研究研究で」という人生であったせいか、謙虚そうな態度を見せる一方で心根はだいぶ傲慢で勝手。そんな本性も、楓果にはもう露呈している。
対して、娘のほうもすっかり肥えて活発である。楓果が特に嫌なのは、この娘が小便を狙ったように泉に注ぎ入れることであった。
「私たちは里に降りて人に見つかりでもしたら、殺されてしまいます」
「このままだと妾が寝不足で死んでしまうのじゃ!」
「ですが、姫君も容易くは死なぬ身体でありましょう」
そうなのである。楓果もまた、……他の霊的な鳥獣たちと同じく、心臓を抉られでもしないかぎりは死なないだろう。
「あの、姫君、私に考えがあるのです」
よからぬことを考えているに違いないと思った。
「姫君はおそらく、私に何か、……この泉の水のほかに何かのまじないのようなものをお掛けになられたでしょう」
楓果は、渋々ながらそれを認めた。
人間ではないことは明らかな、それでいて人間を模った楓果である。人間が彼女を見れば、あるいはこの神聖なる場所を見れば、必ずや面白半分で弄り回し、壊してしまうことだろう。それでもこの水島のように迷い込む者はこれまでもいた。
楓果はだから、寄り付く人間にまじないを掛ける。
ここに楓果がいるのはごく当たり前のことなのだ。老いもせず死ぬことのない、人間の枠を超越した生命体として存在することを、人間は少しも騒ぎ立てる必要はない、……当たり前のことなのだと信じさせる、そんな呪い。
「それを用いてくだされば、私たち親子は里で暮らしていくことが出来ましょう。私のしでかしたことを他の人たちから覆い隠していただけたなら、私たち親子が里で暮らしていることに何の支障もなくなります。私たちがここを出ていけば姫君ももとの穏やかな日々を取り戻すことが出来る」
にっこり笑って、水島は言った。
「これは、一石二鳥というやつではありませんか」
楓果は、なんかそれはちょっと嫌じゃ、という気になる。
言うまでもなく、脅迫だからだ。姫君がそれをしてくれないんだったら私たちずっとここにいますからね、という傲慢な宣言である。あるいは里に降りてこの泉の話をみんなに触れてまわりますよ。嫌だったらそのまじないを掛けてくださいよ、ね、ね、ね、……という都合のいい交換条件である。
長考。
彼女はこの国の戦争の、戦況というものを正確に捉えることが出来る。
水島が当初言っていた通り、恐らくそう遠からず、この戦争は終わるだろう。この国は敗れ、植民地化されるだろう。
つい数日前も、首都が激しい空襲に見舞われた。一夜にして十万を超える人間が死んだ。そうしたことが、これから先も、数限りなく起きるだろう。人間が死に尽くすことはあるまいが、戦いなどというものは無尽蔵に続けられるものではない。
その必要、というのはつまり利潤という動機が生じた人間(それらは魂の脈絡として、楓果の水を飲んだわけでもないのに、死んだと思ったらまた現れ、常に存在するのである)の欲望と言い換えることも出来るだろうが、その人間が動かす駒が、仮に恐怖心なく容易く統御できるものと成り果てたとしても、駒そのものの数が足りなければそのときこそ、終わる。駒となる人間の命を潰して潰して潰した先にこそ、戦争は終わるのだ。
そのときが来れば、水島の罪は、罪ではなくなるのではないか。為政者が変わり、権力の主体、法の根拠が書き換えられることとなれば、水島の行ったことは敗戦国の加虐の抑止と見做され、少なくとも「お国のために」という棒はその力を奪われることとなる。
「……よかろう」
かくて、楓果は断を下した。
「しかし、妾のまじないを使って貴様ら親子が勝手気ままにのうのうと生きることは許さぬ」
妙案である、と思ったのだ。楓果自身はこの孤独な泉で暮らし続けることに、一縷の不満さえ感じない。山の奥から響く水島の「ギャー」という声や、それを耳にしたつむぎがぐずって泣く声や、つむぎの大小の排泄の処理に困らなくなるのであれば、さっさと出て行かせればよいとは思う。しかし、泉の水を飲んで取り戻した健やかさに加えて、暴力への恐怖心からも解放された水島親子は、あまりにいいとこ取り過ぎる。
「妾も貴様たちの見張りとして、共に里へ降りる」
「えっ」
「貴様はその娘だけでなく妾のことをも食わせるべく、せっせと働くのじゃ。よいか」
決まった……、と楓果は大いに満足して言い放った。
しかし、水島の顔には、なぜだか見る見るうちに笑みが広がっていったのである。




