八月五日
しかし、芋窪さんはいた。
正確には、芋窪さんとつむぎちゃんがいた。まだ午前なのに、既にしてちりちりと腕を焦がすような強烈な日差しのもと、日傘を差した彼女の姿を見て、冬弥は思わず息を呑む。
芋窪さんは和装だった。濃いグレーの着物、近づけば、ごく小さな紋様が見える。着物に触れたことさえない冬弥は全く疎いのであるが、どこかしら涼やかな立ち姿であるのは、絽であるから。
いつもは下ろしている髪を、後ろでまとめ、かんざしで留めている。メイクもかなり控えめだ。いつも派手な爪も、今日は彼女本来の爪になっている。
普段のギャルとは全く異なる装い、物憂げな視線を足元に落とす清楚可憐な立ち姿に見惚れてしまうのは、冬弥固有の反応ではない。浅川駅の駅前を行き交う人々が必ず数秒、視線を奪われている。そのせいでぶつかりそうになっている人もいて、危なっかしい。
一方で、芋窪さんの隣、つむぎちゃんは麦わら帽子にノンスリーブのワンピース、谷戸の家にいるときもだいたいそれぐらいの身軽な格好である。酷暑の日だが、そこにだけ、高原のような空気を感じ取ることが出来る気がした。
芋窪さん、……と声を掛けようとして、気がつく。芋窪さんの右肘に引っかかった巾着型のバッグを、つむぎちゃんが握り締めている。その手には、結構強い力が籠っている気配だ。対して芋窪さんはそれを自らのほうへぎゅーっと引っ張っている……。そのせいで、母と娘は二人でアルファベットの「V」を描いている。
様子を伺っていた冬弥の視線の先、
「……えーい、離さぬか!」
突如、芋窪さんがつむぎちゃんに向けて声を発した。
「やっぱり妾は一人で行く! つむぎそなたは平入くんが来たらうまいこと誤魔化してそなたたち二人でデートでも何でもしてくるがよい!」
「わあひどい。私みたいにいたいけな幼女を髪を銀色にした不良ギャルが恫喝している」
「だーれがいたいけな幼女じゃ! あと妾のこの髪色は地毛じゃ!」
「えーんえーん、こわいギャルのおねえさんがいじめるよう。あ、平入くんじゃないか、おはよう」
母と娘のやりとりのようには見えない、……姉妹だとしてもどうか、というレベルである。芋窪さんは冬弥を見てギッと表情を強張らせ、傘で顔を隠した。
「このおばあさんと来たらね、一人で行くと言って聞かないものだから、私がこうして繋ぎ止めていたというわけさ、褒めて欲しい」
……と、八十二歳のおばあさんがおっしゃる。芋窪さんはやっぱり、おとといのことをまだ怒っているのだ。
「つむぎちゃん、おはようございます。あの……、芋窪さん、おはようございます、芋窪さん」
昨日の朝は、目を合わせてもくれなかった。ただ冬弥は吊掛さんと白子さんからずいぶん揶揄われたのである。もちろん二人とて本気ではあるまいが、「あがな愛想悪い女子よりわしが抱っこしちゅうが」「あたしのほうがいろいろお得だからあたしにしときなよ」……本気ではない、はずだ。
「あの、……おとといは、ほんとにごめんなさい。いかがわしい真似をしようと思ったんではないんです、これだけは、天地神明に誓って」
言いながら、空虚なことは認めざるを得ない。混んだ電車やバスで、迂闊に手が触れてしまっただけだという主張は通用しないことは当然なのだ。迂闊さによって他者に不快感を催させたならば、その迂闊さは厳に責められるべきであるから。
冬弥が傘の中を覗き込む。芋窪さんはぷいっとそっぽを向いてしまう。
「全く、おとなげないな楓果は。あの邸のばあさんどもの中で一番おとなげない」
呆れた様子で言いながら、つむぎちゃんは芋窪さんの右手を左手でぎゅっと握った。そして、自身の右手を「平入くん」と冬弥に差し伸べる。
「え……?」
「小さな女の子だぞ。ちゃんと手を繋いでいないと、どこへ行ってしまうかわからないだろう。楓果は私が掴まえておいてあげる、……まあ、こいつの曲がったへそもそのうち真っ直ぐに治るさ」
「わ、妾のへそは曲がってなどおらぬ!」
「そうだっけか、なんなら平入くんに見せておあげよ」
「ぎっ……」
つむぎちゃんの、小さな手と繋がる。麦わら帽子の女の子は、満足げに微笑み、
「楓果、観念しろ。三人一緒に行くんだ」
と堂々と言う。芋窪さんはなお何か言い掛けたが、大きく溜め息を吐いた。
「……なぜ、帽子も被っていなければ日傘も差しておらぬのか」
「え……、あ、僕ですか」
「ほかにおらぬ」
「はあ……、あの、帽子は、頭蒸れるので得意じゃなくて、傘はすぐどっかに置いてきちゃうもので……」
「……のう、やっぱり日を改めて行くべきではなかろうか。もう少しその、昼の暑さが和らいでから……、十月ぐらいに……」
「楓果は去年の十月に真夏日を何度も記録したことを忘れてしまったようだね。畑の野菜が変な生りかたをして困っただろう。それに、今日でなければ意味がないのではないか」
つむぎちゃんの言葉に、芋窪さんは口ごもる。
今日は八月五日。
「私にとっても特別な日だ、……だから今日行くんだ。今日、行かなければいけない。どのみち私と楓果は行くし、平入くんが一緒に来て、見て、何かを感じて、……それによって、今日が何か別の意味を持つ日になるならば……」
冬弥にはこの、八十二歳の幼い女の子の言葉の意味するところを掴むことは出来なかった。しかしつむぎちゃんが芋窪さんの反応を待つように語尾を伸ばしたのははっきりとわかる。
芋窪さんはむっと唇を尖らせた。
「……それが、良き響きを醸すものになるとは限らぬではないか……」
美しい横顔に、憂鬱として捉えるには濃い影が差したように見えたのは、彼女が日傘の角度を変えたからではないようだ。まだ行き先も、目的も知らされていない冬弥には、発するべき言葉もなかった。ただ、手を繋いで歩く三人は、駅から山のほうへ向かうバスの乗客となる。
二人席の窓側につむぎちゃん、その隣に冬弥が座り、芋窪さんは一つ後ろの列の席に座った。浅川駅を出たバスはしばらくは市街地を走る。停留所のたびに乗り降りがあったが、長い橋の手前でまとまった下車があった。
冬弥の家の近くを流れる川も、芋窪さんたちの家に向かう途中に勝手橋で渡った川も、この川の支流である。発車しかけたバスが、赤信号で停まった。車内には三人のほかは、おじいさんおばあさんばかり。少し若い人は、お年寄りの介護をしているようだ。車椅子の人もいた。
「平入くんは、この川の名前を知っているよね」
つむぎちゃんの問いかけに頷く。
浅川。町の名前にもなっている。この大きい流れもまた、別の川へと注ぐ支流である。
「では、この橋の名前は問うまでもないだろうね」
遠土大橋という。全長百五十メートル、非常に長く、立派な橋であり、ここを超えると風景が浅川駅周辺の繁華街から、郊外のそれへと変じるのだ。
「では、……まあ、こういう話をするのは年寄りくさい気がして好きではないんだが、楓果はする気がないようなので私がさせてもらうならば、……橋の北詰のところにちょっとした『痕跡』があることを、君は知っているだろうか」
冬弥は、急に緊張を催して頷く。
「はい、あの……」
バスが発車した。橋に掛けての坂を登りきる。橋の上は光でいっぱいだ。青空から降り注ぎ、照り付くアスファルトが、そしてやや水量の頼りない川面が、対向車線からやってくる車たちのボンネットやルーフが、キラキラ、キラキラと光っている。それを浴びて遠土大橋の、コンクリートの欄干は光を反射せず、にぶくくすんだ色で道標となっていた。
「戦争の……、空襲の痕が残っているって聞きました」
「ご名答」
満足げにつむぎちゃんは頷いた
遠土大橋は昭和の末期に一度改修工事をされた。そのときに強化ガラスで覆われて、その痕跡が通る人が見えるように工夫されたそうである。冬弥はこの橋を歩いて渡ったことはないが、一度か二度なら、こうしてバスに乗って通ったことがある。
「あれだよ」
つむぎちゃんが指差した先、まもなく渡り切ろうというところに、なるほど、石碑と、一際眩く光を反射するガラス板が見えた。
「こういうものが、ある」
冬弥は、二重の意味で上げそうになった声を、慌てて飲み込んた。
つむぎちゃんが、そのノンスリーブワンピースの裾をひょいっと持ち上げて、細くて「太腿」なんて呼ぶことに抵抗のある部分を、冬弥に覗かせたから。冬弥はつむぎちゃんのような形の身体に、何か生の希求心のようなものを喚起されるタイプの少年ではなかったが、それにしたって冷静さを保つのは難しい。
だが、同時に、あるいは、それ以上に、つむぎちゃんの、日焼けした腕や顔に比べてずっと白い右太腿の内側に、変色した傷痕のあることを捉えて、言葉を失った。
「……やめぬか、はしたない」
芋窪さんが咎めた。つむぎちゃんは肩をすくめて裾を戻した。
「残念ながら平入くんは私じゃ誘惑されてはくれないか、せめてエマぐらいあればな……。ま、そういうことだ」
そういうこと。
バスはすでに橋を渡り終え、市街地を北西に向かっている。大きな駐車場を設けたドラッグストアやコンビニエンスストアが目に付くようになり、乗り降りするお客さんはいない。
「……だいたい、そなたのその傷は、そのときできたものではなかろうが」
芋窪さんの声は、果てしなく静かで、深い井戸の底のように暗かった。
「そう」
対して、つむぎちゃんの顔はいつも通り、飄々として、小さな女の子らしいあどけなさの中に、油断ならない強さを備えて、可愛らしさと頼もしさの両方を、冬弥は見ることが出来る。
「浅川空襲があって、遠土大橋にああした痕が出来たのは八月二日、……八十一年前のさきおとといのことだ。私の柔らかな肌をこうして銃弾が抉ったのは、それから三日後の、今日」
バスは山に向かって走っている。徐々に窓外の建物はまばらになり、雑木林がメインになる。その中でも「駅入口」の名の付くバス停があり、そこで、意外なほどたくさんのお客さんが乗ってきた。
やはりみんなお年寄りである。冬弥は腰を上げ掛けたが、幸いにして全員が席に腰を収め、俄かに混雑したバスが更に進むと、右手の高台に線路が現れた。
このあいだ吊掛さんと「デート」をしたときに通った路線、大幹線である。ちょうど、十二両の特急がものすごい速さで駆け抜けていくのが見えた。
駅を出てから、三つ目のバス停を発ったところで、
「次は、伊ノ花入口、伊ノ花入口です」
というアナウンスに応じて、久しぶりに降車ボタンが押された。程なくして到着したバスから、老人たちがじわじわと吐き出されていく。何もない、小さな道沿いに数軒の民家と、古民家をリノベーションしたようなお店が見えるぐらいの場所である。
老人たちがどこへ行くのか、冬弥には全く見当もつかなかった。そしてもちろん、席を立たなかった芋窪さんとつむぎちゃんが、どこに向かっているのかも。
伊ノ花、とは何だろう? 何かそこに、今日、老人たちを誘い導くものがあるのだろうか?
「次は、伊ノ花神社、伊ノ花神社です」
「押していいかな、こういうのは子供の仕事だと思うんだ」
つむぎちゃんがそう言う声が、静かな車内で朗らかに響いた。彼女が意識してそういう声を発していることだけは、冬弥にも伺える。ピンポーン、つぎ、とまります、能天気な機械音声が応じ、浅川駅から四十分、バスは「伊ノ花神社」という小さなバス停に着いた。
伊ノ花入口に見られた民家はここにはなく、道沿い左手の小さな川に掛かった橋の向こうに、バス停の由来になっているものらしい鬱蒼とした神社が見える。そして右手には、少し高いところにある線路の踏切につながる細い道、……車が一台通れるかどうかというほどの狭さで、道の両脇からは夏草がぼうぼうと生命力豊かに生え茂っている。
空っぽになったバスが終点に向けて走り去ると、蝉の声が降り注ぐばかりの静寂さ。
巨大な夏の顔に見下ろされているかのような不思議な感覚がある。
「平入くん」
芋窪さんが言う。
「あまり陽に当たっては毒じゃ」
日傘の作る陰に冬弥を導く。その顔と声に、今朝にはなかった優しさが滲んでいる。彼女の空いた右手をつむぎちゃんが握り、冬弥は小さく「すみません」と言いながら、その日陰に収まった。
ひと繋がりになった三人の影をくろぐろとアスファルトに刻みつけるのを見下ろすように、視線を落とした芋窪さんが、言った。
「この先に、つむぎの墓がある」
耳がおかしくなったのかと思った。
芋窪さんの言葉を境に、蝉がぱたりと啼き止んだ、……ような気がしたのである。
「人聞きの悪いことを言わないでもらいたいね、それじゃあまるで、私が幽霊みたいじゃないか」
つむぎちゃんの声に呼ばれるように、また、二、三の蝉が啼き出して、元の通りの大合唱が戻ってきた。芋窪さんは言葉を継がない。言葉を失った冬弥に向けて、つむぎちゃんはにっこり笑って、
「平入くんは、怖い話は好きかな」
と、はっきり冗談だとわかる口調で問う。
少しの予感がある。つむぎちゃんの白い太腿に刻まれた傷痕、あれは、銃創だと捉えるのが妥当なはずだ。
一九四五年八月の銃創。
冬弥は、自分の間抜けさを呪いたくなった。信じられない、と言われるかもしれないが、つむぎちゃん八十二歳という年齢を、これまでほとんど意識していなかったのである。
「好き、かどうかは……。でも、聞きます」
冬弥の答えがきっかけになったわけではないだろうが、芋窪さんがゆっくりと歩き始めた。踏切に向かって、静かな足取りで、一歩一歩を踏み締めるように。
茂みから現れた虻が一匹、冬弥たちの前を行きすぎて、茂みへと帰っていく。干からびた蚯蚓に蟻が集っている。驚くほど派手に力強く咲き誇っている山百合。小さな蜘蛛が、拵えた巣の中でじっと身を潜めている。夏の山そのものが呼吸している。気温のわりに暑さを感じないのは、時折吹く風が木々の間を縫って冷やされたものであるからか。
踏切まで至ったところで、すぐそばにトンネルの出口があることに気づいた。
山へ向かうものと、都心に向かうもの、ぽっかりと大きな口を開けて日本の線路を飲み込んだそれの、喉奥が明るく光っている。一つ手前のバス停「伊ノ花入口」が、トンネルの向こう側なのだろう。
警報器と遮断機はちゃんと設けられているが、小さな踏切である。踏切の向こうにも道は続いているが、鬱蒼と暗く、どこへ繋がっているのかも定かではない。
と。
唐突に踏切が鳴り始めた。
芋窪さんは遮断機の手前で立ち止まり、目を閉じた。山を超えて降りてきた銀色の電車が、ごうごうと音を立てて、……踏切に差し掛かるところで、ぷあぁんとタイフォンを鳴らした。鉄輪が線路を踏み締める音に恐ろしさを覚えて、一瞬身を竦め目を閉じた、開いた目の前に茶色い車両が停まっていることに気付いた。
車体の表面に、ネジの頭がたくさん浮き出ていている。吊掛さんに連れて行ってもらった山で乗った電車よりも、もっと古い。
だが冬弥は、車体にネジの頭が浮き出ているだけでなく、穴が空いているのを見た。黒々と、……その穴は、無数に。
冬弥の両目に、温かなものが触れた。
「見てはならぬ」
芋窪さんが耳元で囁く。
暑さが、少し遠のいた気がする。だがすぐ、「暑さ」という言葉ではカバーできないほどの熱が自分を取り巻いていることに冬弥は気付いた。
ぱちぱちと、火の舌が何かを舐める音が聴こえた、……鼻の中が焦げてしまいそうに思われる。
「ここは」
つむぎちゃんの声がする。芋窪さんの右手から離れ、冬弥のそばまでやってきて、両手で冬弥の左手を取り、指を絡めてしっかりと握る。
「一九四五年八月五日の、伊ノ花トンネルだ」




