その日の朝
八月五日は、朝から雲一つない晴天。
「病院に来る途中、公園でラジオ体操をしている人たちを見たよ」
父とそんな話をしただけのタイミングで、主治医がやって来た。髪のごく薄く、華奢で顔色の悪い先生である。五十代ぐらいだろうか? いつだって顔に薄雲がかかっていて、医師というもの、どれほど長く続けても、患者に望まれない言葉を向けることには慣れないらしい。
それならば、いつでもそういう顔をしていればいいという発想に行き着いたとして不思議はない。
「……というわけなので、手術は早いほうがいい、というのが私の考えです」
外からは鮮やかな夏の光がキラキラ射し込んで、カーテンを開け放っているけれど、その熱はベッドに横たわる父とスツールに腰掛けた息子の元までは届かない。冬弥の細い腕から指先にかけては、ひんやりとした冷たさが広がっていた。
「ベッドをいま、仮に抑えている状態です。ご判断をいただければ、正式に」
先生の言っていることの意味は、冬弥にもわかる。お膳立てはもう整っているので、さあ箸を持ってください、という状況なのだ。
「……どうする?」
父が、冬弥に訊く。訊かれると思っていなかったから、少し驚いた。それでもこの息子は、少々のことには動じないで冷静さを保つことができる。心臓のつくりはどうあれ、心の細いわけではないので、樹霊や、霊的な獣たち、そして八十歳を超えている幼女と話が通じるのかもしれない。
「日取りは、いつなんでしょうか」
言ってから、あれ、こういうとき「日取り」はおめでたいときに使うんだっけ、なんてことが気になった。場違いな恥ずかしさを催して、少しだけ頬が熱を帯びる。
先生はそこには拘らなかった。
「約一ヶ月後になりますが、九月十二日の昼に」
先生がちゃんと、手術後のリハビリの話もしてくれたことに、少なからず救われる。
そこまで決まっているのなら、と冬弥は父に視線を向ける。
「じゃあ、……いいんじゃない?」
父はベッドから出た細い胸を膨らませて、萎める。
「そうだね。では先生、それでお願いします」
先生は不景気な顔に少しだけ安堵の表情を浮かべ、「では正式な書類は後日」と言い残して出ていった。入れ替わるように看護師が入ってきて、「平入さん血圧測りましょうねぇ」と手際よく支度に取り掛かる。父の腕はシーツや布団カバーのように白く、薄ら青い血管が浮き出ていた。
病院で、病院の人たちに取り扱われている父の姿を見ていると、この人の息子なんだな、という気持ちがいつも湧いてくる。一日の大半をこのベッドの上で、背中をシーツに貼り付けて生きる人。
この、弱くて、今にも命の炎の消えそうな人が、僕の父なんだ、と。
そして、僕はこの人の息子であるから、……というところまで思いを至らせるぐらいに、いつも父が沈黙を嫌って言葉を発する。
今朝もそうだった。
「バイトは、続いてるの?」
あるいは父は、特に今朝は先ほどの先生の話の余韻を拭おうと、力を込めたのかもしれない。
「あんまり役に立ってないけど、楽しいよ」
「終わった後の身体の感じとかは?」
「疲れるけどね。でも、周りの人も気を遣ってくれてるし。……色々落ち着いた後も、続けられるなら続けたい」
もうすぐ、最初の給料が出る。
音楽への情熱、理想的な音を欲する気持ちは、おととい小豆洗さんにライブに連れて行ってもらってから、ますます強まっている。あの「黄色」というバンドの人からは、制作した楽曲を発表しているSNSアカウントにメッセージが来ていた。静かだが、手放しの賞賛に冬弥の心臓はちりちりと炙られるような気持ちだった。
「バイト以外は、ずっと家?」
問われて、誤魔化すことも出来たけど、嘘を吐くのは気が引ける。
「最近は……、芋窪さんたちと、よく遊ぶ」
父は、父にしては珍しく、「ふうん……」と応じてから、
「えっ」
と無防備な声を発した。そういう反応になるだろうな、という想像をしたから、ずっと言わないで来た冬弥だった。
「い、芋窪さんって、あの芋窪さん? ギャルの」
彼の背中がシーツから剥がれた。
「そう。……父さんがあの学校にいたころから、ずっとギャルをやっている芋窪さん」
「芋窪さんと話したの」
「まあ……、芋窪さんだけじゃなくて、吊掛さんたちとも」
「あの人たちと。……あ、遊ぶって、どういう、何をして遊ぶんだ……」
この話をするなら看護師さんが血圧を測る前にするべきだったな、と思った。
「バイトで、働いてたら芋窪さんが来て、それがきっかけになってちょっと……」
父は、息子に対して、「はぁあ……」と嘆息し、何やら尊敬するような眼差しを向けてくる。
「でも、遊ぶって言っても、別に、その……」
結局、全部話さないわけにはいかなくなってしまった。
吊掛さんと山へ行ったこと、白子さんとナポリタンを食べたこと、小豆洗さんにはライブへ連れて行ってもらったこと。もちろん、「吊掛さんにおんぶしてもらった」とか「白子さんが膝枕してくれた」なんて話はしない。
そして、
「今日はこれから、芋窪さんが、……どこかへ行くらしい、それに付いて行くことになってる」
ということまで、冬弥は白状する。
父は、何やら羨むような、恨むような、なんとも言えない顔を息子に向ける。彼自身、そんな心の反応が「大人気ない」と評されるタイプのものであることには自覚的であろうから、はっきりと言うことはしなかったけれど、「自分にもう少し勇気があったら」みたいなことを思っているらしいことは、なんとなくうかがえた。
「……僕が何かしたんじゃなくて、たまたま、その、芋窪さんは機械があんまり得意じゃないらしくて、それで、セルフレジの使いかたを教えてあげて……」
もちろん、夢を壊すようなことは言わないに限る。
「芋窪さんは、父さんのこと覚えてるって言ってたよ」
父は虚を衝かれた表情になった。
「そんな。ほとんど話したこともないはずだ」
「彼女たちの、誰とも?」
「白子さんは、本当に一度もない。住んでいる世界が違うと思ったよ。芋窪さんもそう。逆に吊掛さんは、彼女は誰とでも分け隔てなく話すからね」
だいたい、いまの冬弥のクラスメイトたちと同じぐらいの見方である。
「じゃあ、小豆洗さんとは?」
「一度だけ話したことがある」
意外だった。四人のうちで、話したことのある男子の人数が一番少ないのが小豆洗さんであるはずだ。
「芋窪さんたちは、同じクラスになった人はみんな覚えてるって言ってた。父さんの書いたものも読んだことがあるって」
そのときの父の表情を、冬弥はきっと忘れないだろう。
胸を抑えて、いつもはかさこそと白い顔をぱっと紅潮させ、こころなしか、その目は潤んだようである。
冬弥が生まれる前から文章を書くという仕事をしてきた父が、これほど嬉しそうな顔をすることが、はたして今まであっただろうか? この表情を彼が浮かべないまま、……つまり、芋窪楓果さんが自分の書いた文章を読んだことを知らないまま、死んでしまうのではなくてよかったと、きっと思ったはずだ。
冬弥は、実際にその本人と顔を合わせ、自分に向かう声を聞かせてもらった立場ではあるが、父さんのほうが自分より幸せなんじゃないか、なんて想像を、少しした。
「頑張れよ。でも、気を付けて」
「別に、頑張ることなんて何もないよ……」
父には、病室を後にする冬弥の背中が、丸まって見えたかもしれない。息子が身に余る光栄に緊張しているように捉えられたとしても仕方がない話ではある。本来ならば父同様、みんなが元気に走り回るグラウンドを、後者の日陰にじっと座って眺めているのが似合う冬弥なのだ。
芋窪さんとのデートに、無邪気に喜ぶことが出来ないのは、言うまでもなくおとといの夜の一件があるからだ。多少渋滞してもいいように早めの便に乗ったのだが、病院の下から乗り込んだバスは大過なく冬弥を待ち合わせ場所の駅まで送り届けた。流れる景色を眺めながら、何度も冬弥は溜息を吐く……。
芋窪さんは、待ち合わせに来ないかもしれないとさえ思った。
白子さんの冗談にのたうちまわるぐらい清純な心を持った芋窪さんが、不可抗力とはいえ冬弥に「襲われた」という実感を持ったなら、もうこれまでのように接してくれることがなくなってしまったとして、不思議はない。銀色の光に照らされた時間を迎えるにしては、冬弥の胸はこれまでの三人のデート前とは違う、喉奥にちくちくと棘の刺さるような後ろ向きや緊張を感覚を剥がすことが出来なかった。




