ジャストライクアガールフレンド
自分の推しバンドの人が冬弥と希薄な糸で結ばれていたことを知ったからだろうか、帰り道の小豆洗さんは、少し優しかった。
「カレーで足りたか」
彼女に問われて、ちょっと考える。三時間前に食べたばっかりなのに、お腹はちょっと寂しい。
「帰ったって、どうせ一人で食べるんだろう」
「それは……、ええ、そうですけど」
「だったら、うちに来ればいい」
もう十時を回っている。冬弥と、肉体的には小豆洗さんは、もうライブハウスにはいられない時間だ。
「こんな遅くに」
「構わん。どうせあいつらの誰かは起きている」
芋窪さんとつむぎちゃんがそうだった、「孤食」というものへの抵抗感。冬弥にとっての当たり前は、小豆洗さんにとっても捨て置き難いことのようである。
「小豆洗さんも、その、小豆を洗ってらしたときは、一人でごはん召し上がってたわけですよね?」
電車の中で、訊いてみた。
「……小豆を洗って……いたときには、まあ、そうだな」
「でも、いまはあの四人と一緒に」
浅く小さく頷いて、彼女はちょっと考え込む。それから溜め息混じりに、
「……放って置けないと思ったからだ」
こう言った。
小豆洗さんがあの邸の住民となったのは、いまから五十年ほど前のことだという。
「俺が、一番の新参者だ。お前から見たら大差ないババアどもだろうけど」
「吊掛さんたちは、もっと前からいらしたんですか。あのお二人は江戸時代からのお知り合いって聞きましたが」
「楓果とつむぎが二人だけでいるところに、あいつらがやって来たらしい。八十……二年前だ。」
「じゃあ、つむぎちゃんはまだ生まれたばかりですよね」
なぜか少し苦しそうな顔をして、小豆洗さんは頷き、
「……とにかく、あいつらは四人で暮らしていた。あの谷戸の奥に邸を建てて、人間の暮らしを取り入れながら。つむぎは元々人間だし、あいつら三人も元々人間の中で暮らすことに慣れていた連中だ。どうも、そのころにはもう『飯はみんなで食うもの』『そうでなければならない』みたいな、……いまも金科玉条として守ってる約束事を作ったようだ」
その決まりごとに招かれて、一緒にごはんを食べたのが冬弥である。
「お前以外にも、そういうガキがいたら誘ってみようかっていうアイディアはあった。でも、楓果がな、それを嫌がった。人間とあんまり仲良くするのはよくないんじゃないかって」
意外な気がした。だって、冬弥を一番熱烈に誘ったのが芋窪さんである。
「シンプルに、お前に恥を晒しただろうあいつは」
「まあ……」
「だから、逃げるのはよくないっていう思いもあったんだろうし、なによりつむぎが上手くやったんだ。あいつ一人だったらお前にちゃんと礼を言いに行くということだって出来なかっただろう。……これは恐らくだが、つむぎはお前が一人で飯を食っていることを見抜いていたんじゃないか」
どうやって?
しかし、……なるほどな、なんて納得に、冬弥は至るのである。芋窪さんたちギャルズよりは、圧倒的に年齢面で冬弥に近い。また、つむぎちゃんにあるのは芋窪さんたちのように「人間の外にずっといる人間以外のものが人間の社会に侵入している」という自意識ではない。
彼女はどうも元々人間らしいけれど、同時に人間の社会の中に存在したことがないし、高校にも通っていない。
人間でありながら、人間というものを、人間の外側から怜悧に観察することができるのである。
「お前が、一人で飯を食ってるんだろうなっていうのは、俺にもわかる」
小豆洗さん自身が、彼女の感覚としては「最近」まで一人でごはんを食べることが習慣づいていたからだろうか。
「そうだな。一人で飯を食うことに慣れると、食事というのは生命維持のための作業になる。何を食うか、誰と食うかということに思考を割く必要がないからな。こだわりは失われていくし、『どうして食うか』だけ考えていればいい。そしてそれは、考える暇もなく答えが出る」
命を繋ぐため。
白子さんはこれまでの人生において、たくさんの男性と関係を結んできたことを冬弥に教えてくれた。関係、というのは、想像するにただ肉体的な部分の結びつきのことではない。その前後には、おしゃべりをして、一緒にごはんを食べるのだ。だから冬弥は、改めて白子さんと「関係を結んだ」と言える。
吊掛さんも、もうずっと昔から人里に降りて、人間の力仕事に協力してきたという。彼女が立派な仕事をするのを見て、里の人たちは何か食べものという形で報恩した。それは、必ずそうであったに違いないと冬弥は確信する。彼女たちは野の獣として生まれながら、人の間で人に囲まれて食事をする喜びを知っている。野の獣として孤食した経験を持つがゆえに、人と同じ食事をすることの価値がわかるのだ。
その価値を、冬弥のほうが忘れつつある。もうここ何年も、食事とは一人で「片付ける」ものである。三日続けて同じメニューでも苦にならない。気を使うのは栄養バランス、味や彩りではない。そして、そのことに少しの不足も感じない。
三十年ほど前までの小豆洗さんもそうだったわけだ。
◯
スイ、という名を彼女に付けたのは、人間である。なお彼女は、自分が「女」であるという感覚を持ってはいなかったし、自分が長生きをしているという実感もないまま、しかし一般的な生きものにはない時間を延々過ごし、あるときから霊熊、霊狐同様、人間の姿を模るようになった。
彼女は綺麗好きで、山中の渓流にて石を洗うのが好きだった。
石を根気強く洗うと、ぴかぴかに光って、それは何時間でも眺めていられる。その石を洗う音が、既に伝承として人口に膾炙していた「小豆洗い」の立てる音に酷似していたため、彼女は「小豆洗い」と定義されるようになった。
彼女自身がそれを知ったがゆえに、自らを「小豆洗い」と定義することとなったのである。
すなわち、実のところ彼女は「小豆洗い」ではない。スイと名付けられたのは、たまに川を下って広々とした河原をスイスイと器用に泳いだのち、飽きたらまた山に引っ込んでいく姿を目撃した人間がそう呼んでいることを知ったから。
つまり「小豆洗スイ」という姓名はどちらも彼女の実態とは異なるものだ。
しかし、彼女自身はそれを自らの名としている。
だって、「小豆洗い」は妖怪で、つまり格好良くっていいなと思ったから。スイという名は「水」や「粋」と同じ響きで、これも好みである。ネーミングというものの持つ分類の暴力に、これ幸いと自ら身を浸すことを選んだのだ。
よって彼女は山中に迷い込んだ幼女に名を訊ねられたとき、
「小豆洗スイ」
と答えたのである。これが彼女の口にした初めての人間の言葉であった。吊掛エツコ、白子エマと異なり、人間たちと対話しようなどと思ったことは一度もなかった。人間とは本来、彼女が里に降りて行ったとき、こっそりと残飯や衣料を拝借する対象であると同時に、不注意に道に出たなら自動車で殺しにかかる恐るべき相手なのである。
「スイ? そう。私は芋窪つむぎという」
怪しむ様子もなく、幼女は堂々と自己紹介をした。
「山を超えたところに住んでいるんだが、家人がいない間に散歩に出掛けたら、鳶に拐われてしまってね」
ただの鳶がいかな幼女とはいえ拐うことなど出来ようはずもないから、それもつまり、スイと同じような存在だと見て良いだろう。
「さっきようやく解放されて、帰ろうと思ったんだが、道に迷ってしまって往生していたところだ。見たところ君は」
「小豆洗いだ。そんなことより、お前はいま何をしようとした」
スイの訊ねに、つむぎは首を傾げる。
「喉が渇いたものだから、……このあたりの水は綺麗そうだし、まあ、あとでお腹を下すことになるかもしれないけれど、一口ぐらい飲んだって構わないだろうと思って」
スイが現れなければ、つむぎは無警戒にももう一歩進んで、……溺れ死んでいたかもしれない。幼い彼女には気付けなくても無理からぬことだが、足を滑らせでもすれば落ちた先は深く抉れた淵になっている。たちまち彼女の小さな身は飲み込まれて、二度と浮かび上がることはないだろう。
スイはつむぎを湧き水の場所まで連れて行ってやった。喉を潤したつむぎは、厚かましいことを言った。
「恩に着る。感謝ついでに、私を家まで送ってはくれないだろうか?」
断れば、このままこの幼女は迷い続けるだろう。もうすぐ日が暮れる。夜になればもっと話の通じない連中が出てきて、いよいよこの幼女の命は危険に晒されることになるだろう。それを放っておくことは、先ほど危うい縁からこの娘を救ってやったスイとしては矛盾となる。それならばそもそも、助ける必要がなかったのだ。
スイはしぶしぶながら、つむぎの要請に応じた。沢を遡り、たまに人間がやってくる道に至ったころにはすっかり日がくれて真っ暗になったが、スイの足が止まることはなかった。
「ここまで来たら大丈夫だ」
公道に出たところでつむぎは言って、
「本当にありがとう。君には是非ともお礼がしたい」
身を翻しかけたスイの、その日着ていたシャツの裾を掴んだ。なお、スイは綺麗好きなので、服はこまめに洗っており、つむぎが躊躇いなくそうしたことからも、そんなに臭くはなかったはずである。
「私の家人たちと一緒にごはんを食べよう」
「要らん。めしなら自分でどうにかする」
「しかし、それでは私の気が済まないのだ」
勝手な理屈を、幼女はこねる。
「君が私にしてくれたことは、私の命を救うということだ。一方で、同時にそれは私に報恩の義務を課すということでもある。にもかかわらず君が一人で帰ってしまうとなっては、私はまたこの山の中に一人で入らなければならなくなる。この真っ暗で、私の目には何も見えない山の中にね」
「知るかよ。そんなの、俺には関係ない」
「しかし、君が私を関係させてしまったんだ」
このガキが再び山に入って、結局命を落とすことになったら、それこそ俺は何をやっているんだという話になる。スイは結局、つむぎに導かれて人生初めて電車に乗り、バスに乗り……。
「ただいま楓果。となりの山にいると噂されていた小豆洗いの正体を連れてきたよ」
谷戸の奥の邸で、熊と狐と、樹霊の女たちに取り囲まれる羽目になったのである。
◯
あの谷戸の方面に向かう終バスに揺られる間、小豆洗さんは寝た。「眠いんですか」とそっと訊いたら、キッと睨んで「眠くなどない」と言った、それが二分前のことである。冬弥は躊躇わず 彼女に肩を貸してあげながら、彼女の誇りを傷付けることになりませんようにと願う。
冬弥は、こんな想像をしていた、……小豆洗さんは、「小豆洗い」ではないんじゃないか、と。
吊掛さんたちを見ていれば、霊的な存在というもの、あるいは妖怪もののけの類が「居ない」と言うつもりはない。しかし、ライブ前にカレーを食べながら聞いた小豆洗さんの言葉に、少しばかり違和感があった。
小豆洗さんは「小豆洗い」という妖怪を、外側から説明しているな、という気がしたのである。
ややこしいが、小豆洗さんが「小豆洗い」自身だったら、人間のする解釈なんてことは考えないのではないかと思ったのである。子供というものは、小豆洗さんが妖怪「小豆洗い」であるならば、それを騙して溺死させるというのは生存の目的そのもの、……冬弥が音楽を作るのと同じぐらいの、行動と生存の痕跡である。けれどさっきの彼女の言いかたは、「小豆洗い」があくまで伝承の存在で、その存在の理由までをも認めたものではなかったか。
冬弥はケルピーを挙げたが、それはなんとなく、小豆洗さんは河童と同一視されることにムッとしそうだなと思ってそうしたのである。しかるに小豆洗さんはケルピーも外側から眺めていたようだった。
敢えてそれを確かめることに意味はない。妖怪「小豆洗い」の正体は、恐らくたまたま川辺で砂利を踏んづけたか、あるいは変わりものの狸の中にはあらいぐまのように石ころを洗って遊ぶ個体もいたかもしれない、そういうものが立てた音が聞き誤られたか。そういうケースは昔からよくある、幽霊の正体見たり枯れ尾花……。
「ん」
小豆洗さんが起きた。バスの中は、最後部に並んで座った二人だけである。小豆洗さんは寝てなどいなかった俺は眠気など感じないと言わんばかりに座り直す。
そして、初めて彼女から言葉を発した。
「悪くなかった」
彼女は真っ暗な窓の外に顔を向ける。小豆洗いであろうとなかろうと、霊的な存在であり、野生動物の感性を持つはずの彼女には、景色が見えているのかもしれない。
「誰かをライブに連れて行くなんて考えたこともなかったが」
冬弥には真っ黒なガラスに映った小豆洗さんの、不器用さの現れた面持ちが見えている。
「僕も楽しかったです、すごく。連れて行ってくれて、ありがとうございます」
冬弥は素直に頭を下げる。プライドが高くて、ちょっと気難しいところがある小豆洗さん、でも、それは人間もそうではないか。とっつきにくいと最初から距離を置くのではなく、相手を尊重して付き合うのは、言葉を用いてコミュニケーションする関係において当たり前の礼儀だ。
谷戸の奥の邸に着いた二人を玄関まで迎えに出てきてくれたのはつむぎちゃんだった。
「やあ、おかえり。スイ、平入くんを連れて来たんだね」
小豆洗さんはジーンズのポケットに手を突っ込んで、「腹が減ったって言ったから」とぶっきらぼうに言う。
「なるほど。じゃあ、楓果が風呂から出てきたら何か作らせよう。まったくあいつときたら、君たちはそれほど遅くなったわけでもないのに大騒ぎをして……」
もうすぐバスも無くなるというのに「帰りが歩きになっても構わぬ、浅川駅、いや南武まで迎えに行く!」と大騒ぎをしたそうである。なお吊掛さん情報によれば芋窪さんは一人で電車に乗るのが危なっかしいということだ。
「さっき、それを諌めて風呂に押し込んだところだ。いくら平入くんがいい子だからと言って、スイが朝帰りなどするはずもないのにね」
「俺にだって選択の自由がある」
「それは平入くんの側にも当然……」
言葉の途中で、ばーん、と邸の奥のほうから大きな音がして、どたどたどたどたと騒がしい足音が近づいて来て、冬弥は腰を抜かしそうになった。タオル一枚、髪もびしょびしょ、本当にいまお風呂から上がりましたという格好の芋窪さんが駆け寄って来たので。
「はっ……はぁ……、はぁあ、……ちゃんと、……はー……、帰って来ておったか……、はー……よかった……、よくない! 平入くんがおるではないかぁ!」
「ど、どうも、こんばんは」
ピャッ、みたいな声を上げて慌ただしい足音が遠ざかっていく。しばらく離れたところから、ずべっ、と転ぶ音が届いた。
芋窪さんは教室後方という高嶺に咲く氷の花……、そう思っているのは冬弥だけではない。だいたい三十年前からそう思われていて、冬弥の父をはじめ多くの人に夢を与えてきたのであるから、冬弥ももう少しその勝手なイメージに囚われていたい気持ちもないではない。ただ、本当にタオル一枚しか身に付けていないはずの芋窪さんを直視することは能わず、自分より小さな小豆洗さんの背中に隠れて顔を伏せるぐらいしか冬弥にはできなかった。
「帰ってきてそうそう騒がしくてすまないね。……そうだ、楓果が夜食の支度をするまで、平入くんもお風呂に入ってきてはどうかな。なんならスイ、平入くんの背中を流してあげるぐらいしたまえよ」
「いいいいえあの、結構です背中ぐらい自分で洗えますので!」
白子さんは冬弥を「男」という標的として見做しているようだが、他の四人は孫、いや孫より遥か下の、ケシ粒のような存在として捉えているのだろう。冬弥自身にそうした方面への強い欲求はないとはいえ、できればあまり刺激していただかないほうがありがたいところではある。
「スイ、楽しかった?」
小豆洗さんはつむぎちゃんに訊ねられて、なんとも答えない。悪くなかった、とガラスに跳ね返して渡された言葉の手触りを、冬弥は勝手に、一人で大事にしていれば良いと思っている。
小豆洗さんの正体がなんであれ、冬弥にとっては大切なガールフレンドの一人なのだから。
お風呂と芋窪さんの作ってくれた焼きうどんをいただいて、深夜に急の来客ながらまた釣ってもらった蚊帳の中に横たわったところ、何か気配がするなと思って伺ったら、芋窪さんの銀色の髪が暗闇にぼんやり光っていた。
「あ、うちわ持って来てくださったんですか、ありがとうございます」
彼女は恥ずかしそうにこくんと頷き、蚊帳の裾からうちわを滑らせて冬弥に渡した。
「その……、あいすまぬ。平入くんにもいろいろ予定があろうに……」
明後日、芋窪さんとデートをすることになったのである。
さっき、小豆洗さんと焼きうどんを食べているところに吊掛さんが降りてきて、
「スイが大人しうがな、いいデートしゅうが」
と感想を述べた。小豆洗さんは当然の権利として吊掛さんを睨み上げるが、くつくつと笑いながら吊掛さんは小豆洗さんと冬弥の髪を順に撫でる。
そこへやって来たのは白子さんで、
「リー来てたのかぁ、だったら部屋まで顔見せに来いよなぁ」
と椅子の背もたれ越しに抱き着いて、その上で、
「エツコとあたしとスイとしたんだったら、楓果もしとけよな。そもそもあんたが『誰ぞ平入くんを楽しませてやれる者がおればのう』とか他力本願なこと言ってるからあたしらが順にデートしてんだ」
と台所から麦茶を注いで持ってきてくれる芋窪さんに向けて言った。お盆の上で麦茶が激しく揺れる。
「なっ、なっ、んな、わ、妾はそのような浮付いた真似はせぬ!」
「あたしらだって別に浮付いたデートしたわけじゃーないよねぇ? どっちかっつったらさ、硬派で超大人っぽいデートしたよね?」
健全で、接触は最低限、でも確かに楽しんだ。大人っぽい、もしくは小学生みたいなデート。冬弥は小さく頷く。
「お前も行ってきたらいい。……平入にはお前を取って食うような真似をするだけの勇気もないだろ」
これについても、まあ、同じく。
「それとも何が。楓果は平入くんとデートしたがなかがか」
「ぎっ……、そ、その、そのようなことはぁ……」
「おぼこいからなぁー楓果はなぁ。あんたこそリーと寝たらいいんじゃね? なぁスイそう思うよなぁ」
小豆洗さんは無表情だが、沈黙の中に同意がうかがえた。芋窪さんは顔を引き攣らせて、言葉を探し、やっとのことで出て来たのは、
「い、一番歳上なのは妾じゃぞ! それを何じゃ、言うに事欠いておぼこいとは!」
なんて、あまり実効性のない反論。
「ほいがな、しきゃえいが、デート」
「そうだそうだ、して来いデート」
小豆洗さんはやっぱりノーコメント。だが代わりに彼女が言ったのは、
「明後日はあの日だろう。平入連れて行って来たらいい」
と。
その静かな言葉に、ぴた、と三人が言葉を止めた。小豆洗さんは表情を変えずに「ごちそうさま」と言って立ち上がる。今日が八月三日、明後日は、八月五日である。
「あー……、いんじゃね? ねぇ。あたしはいいと思うな。リーはだって、楓果のこと好きだろ」
「えっ……、あ、はい、あの……えっ、はい、すいません」
「あたしらのことも好きだもんなリーはないい子だもんなぁ」
後ろからぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜてくれながら、白子さんが言う。少し遅れてやって来た笑いと、吊掛さんの大きな手のひらが乱れた髪を直してくれた。
「暑いとこが。前の夜はゆーくり寝がして、日傘を持って来ゆうがじゃ」
吊掛さんと白子さんも部屋を出ていく。芋窪さんはお盆に麦茶の入ったグラスを持ったまま、立ち尽くしていた。
八月五日。
「ああ、楓果、気が効くな。私のために麦茶を注いでくれたのか……、もっと、こう、私に取りやすい高さにしてくれるともっと気が利いていると褒めてあげるところなんだが」
お風呂上がりのつむぎちゃんがやってくる。ほとんど下着同然の格好だが、そういう姿が許されるぐらいの年齢ではある。
「……べ、別にそなたのために入れたのではない。平入くんとスイのために……」
「スイはもうお風呂に行ったし、自分のぶんは自分で注ぐだろう、つまり私がもらうことに何の問題もない」
んく、んく、ぷはぁ、と麦茶を二口飲んだつむぎちゃん、
「ところで平入くん、頼みたいことがあるんだが」
と冬弥の隣に腰を下ろし、見上げて言う。幼女の器に大人の女性の感性が入っているということを了解していても、その角度から見上げられると本物の女の子に甘えられるような感覚があって、ちょっとぐらいのことならば「いいですとも」と応じなければいけない気持ちになってしまう。人間としての底が浅いと言われても仕方がない。
「明後日って空いているかな。ここまでエツコとエマにスイとデートをしてきたわけだ。あの三人と比べて楽しい時間を提供できるとも思えないが、うちの、そこの、時代遅れのポンコツとのデートにも付き合ってやってくれないだろうか。ああ、まあ、そいつ一人では何にもならないから、私も付いて行くけども……」
ぎぎぎぎ……、と本当に古い蝶番が軋むみたいな音が、芋窪さんの顔付近から聴こえる。
「いま、みなさんに明後日そうしろと言われたところでした」
「ほう、ならば答えを教えてもらってもいいかい。そんなに面白いもんではないが、私個人的には君を連れて行きたいと思っていたんだ」
バイトは休み、朝に病院に行く用事がある……、検査の結果を先生から聴く。でも、そのあとは完全フリーである。
自分の予定の余白が、「デート」で埋まるのは変な気持ちであり、いまだ慣れない。
「お誘いいただけて、光栄です」
芋窪さんのほうを見ないようにしながら、冬弥は言った。芋窪さんの整った顔が、さまざまな感情が入り混じってくちゃくちゃになっているような気配があったので……。
それから芋窪さんに「おやすみなさい」と言った以外、冬弥は彼女とは喋らなかった。芋窪さんにとって「八月五日」がどんな日なのか、冬弥はいまから探し調べることもできたけれど、まあ、当日のお楽しみということでいいかと布団に横たわろうかというところに、暗いなか芋窪さんが遠慮がちにやって来たというわけである。
「楽しみです。でも、その、いいんですか、僕なんかがついていって。なにかその……、特別な日、なんですよね?」
芋窪さんは学校で見るような、ひんやりとした表情を浮かべていた。しかし、彼女の色々なところ……、「えーん!」と泣いて逃げていったり、タオル一丁で飛び出してきたり、あと実際に見たわけではないがのたうちまわってそこの縁側から庭に転げ落ちたりという姿を見聞きしてきたからだろう、その表情の表層よりずっと深いところに指先で触れている気がする。
「……確かに、のう。つむぎが申しておった通り、平入くんを連れて行くことには……、まあ、そうじゃな、今様の言葉を使うならば、『メリット』のあることやもしれぬ……」
メリット。
「しかし、メリットと言うものは、当然デメリットというものも連れて参るわけじゃ。妾たちにとってメリットであるばかりで、平入くんにとってはデメリットばかりであるやもしれぬ。いやぁな気持ちになって、……その、せっかく妾たちと知り合うてくれて、あやつらとデートを、……その、とても健全な意味でのデートを重ねて、幸せな時間を共有してくれたのに、嫌になってもう寄り付かなくなってしまうかも知れぬ……」
芋窪さんは蚊帳の向こうに膝を揃えて座り、不安げに言う。
「元はと言えば、妾の間が抜けておって、平入くんに要らぬ苦労をかけたことがきっかけじゃ。そこからこのような、あのような、ばあさんたちの楽しみに付き合わせて、そのうえ、もしも嫌な思いをさせるようなことをしてしもうては……」
この人は、とても気が弱いのだな、ということを、冬弥はもう学んでいた。どんなに長く生きていようと、臆病で、怖がり。知り合った冬弥が自分の元を去っていくことに、強い怯えを抱いている。
長い長い人生の中にあって、別れなんて数え切れないほどあったに違いないのに。
いや、そうか、逆だ。冬弥は思い直す。この人は、この人たちは、人間のように有限の時間を生きるわけではない。人間はだからこそ忘れるという機能を持つ。
けれどこの人たちは覚えているのだ。白子さんが関係を結んだ男性のことを、それこそ江戸時代から今まで覚えているように……。彼女たちが無限の夏を繰り返し繰り返し生きなければいけないからこそ、いつでも手元へ、その温度を、手触りを、声を、存在感を、ありありと思い出すことができるよう、覚えているのだ。
それが失われ消えてしまうことについては、有限の時間しか生きられない冬弥よりも、ずっと強い寂しさと切なさを抱いてしまうのかも知れない。
「あの、……あの、芋窪さん、大丈夫ですよ、大丈夫です」
冬弥としては、相当な量の勇気を発揮した。結果がどうだったとしても、それについては評価してもらえたら嬉しいな、とは思う。つまりその、芋窪さんのことを、何らかの形で心慰めてあげられたらいいな、などと、畏れ多くも手を伸ばして触れようとしたところ、迂闊にも蚊帳の存在を忘れてしまったもので。
勢い余ってそのまま、天井から蚊帳は落ち、芋窪さんに覆い被さるような格好になってしまったもので……。
「ぴっ……」
みたいな声を、芋窪さんは発した。冬弥はぎりぎりのところで芋窪さんの身体のどこかを傷つけたり、体重をかけたりすることはなく、もちろん最低限の身体的接触だけにとどまったわけであるが、女性に対してこのタイプの「身体的接触」はそもそもしてはいけないのである。ここ一週間ほど、高嶺のギャルのおばあちゃんたちに撫でられたり抱きしめられたり膝枕をされたり……、身体的接触によって心が安らかになるという経験を重ねてきたもので、つい気が大きくなってしまったけれど。
「……ご、ごめんなさいっ……」
慌てて身を起こした冬弥は蜘蛛の巣に掛かった蛾であった。芋窪さんは冬弥を怯えたような顔で見て、それからものも言わずに身を翻し、いなくなってしまった。




