第8話「叩けない扉が隣にある」
その依頼を、ヴィムが断るところを、私はたまたま見てしまった。
その朝、私は店先の日向で、水汲みポンプの魔導具を直していた。錆びついた弁を外して磨き、油をさし、へたった魔石を替える。地味な仕事だがこれが直らないと、井戸端のおかみさんたちが一日じゅう桶を担いで往復する羽目になる。
指を動かしながら、私はふと隣から聞こえてくるやり取りに耳を澄ませていた。
仕立てのいい上着を着た商会の使いが、隣の金物屋の前で、熱心に何かを頼み込んでいる。話の切れ端が私の店先にまで届いてくる。商会が新しく構える店に、大きな魔導の看板を据えたい。
文字が魔石の光で浮かび上がる、凝った細工のもの。ついては腕のいい職人に作らせたい——どうやらそういう話らしかった。
報酬は私の店なら半年ぶんはあろうかという額。それを、ヴィムは一言のもとに断った。
「そういう大きい仕事は、やらねえ」
取りつく島もない返事だった。使いはなおも食い下がったが、ヴィムは炉に向き直ったきり、二度と顔を上げなかった。困り果てた使いが、肩を落として引き上げていく。ポンプの弁を磨く手を止めて、私はその背中を見送った。
妙な気持ちだった。ヴィムの腕なら、あれくらいの看板は造作もないはずだ。私の店へ回ってくる細かい部品ひとつとっても、あの人の仕事は正確で迷いがない。
以前、私が魔導線の継ぎ方に手こずっていたとき、横から覗き込んでひとことだけ助言をくれたことがあった。その一言で、何日も悩んでいた不具合が、うそのように直った。あれほどの目と手を持つ職人が、この路地の隅で小さな鍋の修理や包丁研ぎばかりを黙々と続けている。
それだけの手を持ちながら、なぜ、大きな仕事を頑なに避けるのだろう。ずっと引っかかっていた違和感が、その日、はっきりと形を持ちはじめた。
その疑問に答えをくれたのはピコだ。
夕方、豆をつまみながら、ピコが何気なく口にした。この横丁の噂はたいていこの子の耳を通り抜けていく。「ヴィムのおっさんさ、むかし王宮のでっかい工房で、すげえ職人だったんだって」。
私は手を止めた。「でもなんかの式典でさ。おっさんが手入れした大きい魔導具が急に暴れて、怪我人が出たんだと。
それでおっさん、工房を辞めてここに来たって。乾物屋の婆さんが言ってた」
ピコはそれ以上は知らないらしく、また豆に手を伸ばした。私はしばらく黙って湯気を見つめていた。大きな仕事をやらない、ではなく、やれないのだ。あの人は自分の手が人を傷つけたと思っている。だから、大きな力を持つものに、二度と関わろうとしない。
思い返せば、あの人の仕事にはいつもどこか、自分を戒めるような慎重さがあった。金具ひとつ削るにも、寸法を三度も四度も測り直す。私が「そこまでしなくても」と言いかけたことさえある。
あれは臆病なのではなく、二度と間違えまいとする、必死の手つきだったのだ。あの規則正しい槌の音の裏に、そんなものが隠れていたなんて、私は今日まで知らなかった。同じ路地で毎日壁一枚を隔てて暮らしていても、人のことは驚くほど分からない。
次の日、私は部品を借りに隣を訪ねた。
いつもどおり、ヴィムは炉の前にいた。真っ赤に熱した鉄棒を金床の上で叩いている。火花が散り、鉄と炭の匂いが店じゅうに立ちこめていた。
抽斗から金具を選んでいるあいだ、私はふと店のいちばん奥に目をやった。うずたかく積まれた鉄材の陰に、大きな布のかたまりがある。今まで気に留めたことのなかった、その布。
ちょうど、人の背丈ほどもある何かをすっぽりと覆い隠している。布の裾からわずかにのぞいているのは、複雑に組まれた金属の骨組みの一部——何か大きな、精緻な魔導具のようだった。ほかの道具や材料には薄く埃が積もっているのに、その布だけは、きれいに払われていた。
触れられていないのに、忘れられてもいない。そういう気配だった。誰かが遺したものを大切に、けれど頑なに仕舞い込んでいる。
そんなふうに見えた。
私の視線にヴィムが気づく。
彼は無言で立ち上がり、私と布のあいだに割って入るように立った。大きな背中が奥を隠す。「金具、それでいいか」といつもより硬い声。話をそらそうとしているのは明らかだった。私はそれ以上、奥を見ようとはしなかった。金具を握って、「ありがとう」とだけ言う。
「あんた」
店を出ようとした私を、ヴィムが呼び止めた。振り返ると、彼は炉の火を見つめたまま、ぼそりと言った。
「よけいな詮索は、しねえほうが身のためだ」
脅すような響きではなかった。むしろ、疲れた声だった。触れてくれるな、と扉を閉ざす音。私は「詮索する気はないわ」と答えて、暖簾をくぐった。
店に戻り、私は棚の奥の、布をかけたオルゴールを見た。あの布と、ヴィムの店の布が、私の中で静かに重なる。触れられないのに捨てられない。
忘れたいのに払い続けてしまう。人は誰でも開けられない扉のひとつやふたつを抱えて生きている。私にとってのオルゴールが、あの人にとっての、あの布なのだろう。
鉄と炭の匂いがまだ指先に残っていた。私は無理にこじ開けようとは思わない。ただ、あの扉の向こうにあるものが、いつかあの人自身の手でそっと開かれればいい。そう願うくらいのことは、隣人の私にも許されるだろうか。
次話:「お忍びの客は、香水でばれる」




