第9話「お忍びの客は、香水でばれる」
その客が路地に入ってきた瞬間、私はにおいで気づいた。
錆び横丁にはおよそ似つかわしくない匂いだった。すみれとかすかな白粉。上等な香水の、そらぞらしいほど品のいい香り。
乾物屋の塩気や、金物屋の鉄のにおいに慣れた鼻には、その甘さがひどく際立った。顔を上げると、質素な外套で身を包んだ女の人が、うつむき加減に店先へ立っていた。
外套は地味だ。けれど、その下からのぞく靴は絹の縫い取りが施された、明らかに高価なもの。フードから零れる髪は艶やかに結い上げられ、指先は、水仕事をしたことのない白さだった。
お忍びのつもりなのだろう。けれど、隠しきれていない。この人は表通りの、もっと上の世界の人だ。
「……ここで、魔導具を直してくださると聞いて」
声まで、育ちのよさが滲んでいた。低く、抑えた話し方。私は一瞬、返事に詰まった。
かつて、私のまわりには、こういう声とにおいがあふれていた。忘れたはずの世界の気配が、ふいに鼻先をかすめて、背筋が知らず強張る。私は膝の上で、油じみた指をきつく握った。
落ち着け。今の私は路地裏の修理屋だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「ええ、どうぞ。何をお預かりしましょう」
言いながら、私は自分の所作に、いつもより気を配っていた。背筋をのばしすぎないこと。指の使い方に、育ちの癖を出さないこと。
この人の前で、うっかり昔のままの立ち居振る舞いをしてしまえば、路地裏の修理屋という今の顔にひびが入る。相手が自分と同じ世界の出だからこそ、かえって用心が要った。同類は同類の匂いを案外すぐに嗅ぎ分けるものだから。
女の人は外套の内側から、布にくるんだものをそっと取り出した。手のひらほどの、銀の手鏡だった。縁には細やかな麦穂の彫金、背には小さな青い石。
並の鏡ではない。鏡面の裏に魔石を仕込んで、覗き込む人の顔を柔らかな光で照らす化粧鏡だ。貴婦人たちが薄暗い馬車の中で身支度を整えるのに使う。
私も昔は。
「母の、形見なのです。覗くと、いつも明かりがともって……でも、母が亡くなってから、ずっと暗いまま。どこの店でも、古すぎて直らないと言われて」
鏡を受け取る手が少し震えた。母の形見、という言葉が、胸の柔らかいところに触れる。私は努めて何気なく、鏡を作業台に置いて、裏蓋の細工をひらいた。
中は思ったより単純な作りだった。魔石が寿命で尽きて、灯りを送る細い魔導線が一本、根元から切れている。年月による、ごく自然な傷みだ。
古すぎて直らないと言われたのは、この鏡が古い工法で作られているせいだろう。麦穂の彫金の下に魔導線を通すやり方を知る職人は、今どきめっきり減っている。私はその工法を母から教わっていた。
母の道楽はこういう古めかしい細工物を飽きずにいじることだった。
切れた線を細いはんだでつなぎ直す。彫金の隙間は狭く、小手の先を入れる角度が難しい。息を止め、指先だけで小手を運んで、髪の毛ほどの継ぎ目を仕上げた。
それから、青い飾り石の裏に隠された小さな魔石座から、砕けた古い石を抜き取る。手持ちの中から、いちばん光の柔らかい魔石を選んでそっと嵌めた。爪の先で、彫金の麦穂をなぞる。
凝った細工の一つひとつに、この鏡を贈った人の想いが宿っている。手を動かしているあいだだけは、相手が誰であろうと、私はただの修理屋でいられた。
仕上げに、鏡面を目の細かい布で丁寧に磨きあげた。長く鏡を覆っていた白い曇りが晴れていくにつれ、奥に沈んでいた像がゆっくりと輪郭を結び直していく。私は魔石に念を送る。
——やがて鏡の面がほのかに息を吹き返し、覗き込んだ女の人の横顔を、やわらかな照り返しでくっきりと映し出した。女の人が小さく息を呑む。
「……ああ。この光。そう、この光だわ。母が、この鏡でわたくしの髪を梳いてくれた」
女の人は鏡を胸もとへ引き寄せ、もう一度そっと覗き込んだ。母の面影をたどるはずだった視線がふいに止まる。曇りの晴れた鏡がまっすぐ映し返したのは、記憶のなかの母ではなく、いまこの路地に立つ彼女自身の顔だった。
その表情がほんの一瞬、迷子のように揺れる。取り戻したのは懐かしい思い出か、それとも忘れたかったはずの今の自分か。白い頬を横切ったその戸惑いを、私は見なかったふりで、そっと鏡から目をそらした。
女の人は修理代にと、私が受け取るのをためらうほどの銀貨を置いていった。断ろうとしても「お願い、受け取って」と、白い手で押し戻される。そして帰りぎわ、フードを目深にかぶり直しながら、こう言い残した。
「あなた、とても良い腕をしていらっしゃる。……ご存じ? 近ごろ王宮でも、腕のいい魔導具の修理屋を探しているそうよ。あなたのような人を」
すみれの香りを残して、貴婦人は路地の坂を上っていった。その言葉がしばらく私の耳の奥に居座った。王宮。かつて私が立っていて、そして、追われた場所。関わりたくない世界の名が、こんな路地の底まで、香水と一緒に降りてきた。
奥から出てきたピコが、鼻をひくひくさせて、「なんかいいにおいする」と首をかしげた。すみれの残り香だ。私は「上等なお客さんが来たのよ」とだけ答えて、窓を開け放った。
路地の、鉄と塩と土の匂いが流れ込んできて、甘い香りをゆっくり押し流していく。この匂いのほうが、今の私にはよほどなじむ。
それでも耳の奥の言葉は、簡単には流れていってくれなかった。王宮が腕のいい修理屋を探している。ほんの世間話かもしれない。
あるいはそうでないのかもしれない。私は磨き残しの布を握りしめて、坂の上を見つめた。坂を上りきった外套の背を、夕日が赤く縁取っている。
過去はいつか追いついてくるものなのだろうか。それでも今日はまだ、ここにいる。ここに私の店がある。
私はそう自分に言い聞かせて、閉店の鈴に手を伸ばした。ざらついた音が暮れかけの路地に、いつもどおり響いた。
次話:「祭りの夜にぜんぶの灯りが点く」




