第10話「祭りの夜にぜんぶの灯りが点く」
建国祭の当日は朝から路地じゅうの空気が甘い。乾物屋の店先では蜜がけの木の実が香ばしく炒られ、どこかの窓からは香草入りの焼き菓子の匂いが流れてくる。祭りのごちそうの支度が、坂の上の大通りからこの窪地の底まで、にぎやかに降りてきていた。
私はといえば、開けはなった店で最後の駆け込み仕事と向き合っていた。持ち込まれたのは井戸端のおかみさんの吊りランプ。今夜こそ軒に吊るすつもりで納戸から出したら点かない、と半べそで運び込まれてきた子だ。
蓋を開ければ魔導線の接点が緑青を噴いている。細筆の先で錆を払い、接点を磨いて魔石に念を通すと、笠の中にことりと灯が生まれた。手を叩いて喜ぶおかみさんを、夜までは触らないでくださいねと念を押して送り出す。
日が傾くころには駆け込みの波も引いて、私は店じまいの支度を始めた。手は動いているのに、心は決まらないままでいる。今夜をどう過ごすか、朝からそればかり考えていた。
今夜が私にとって何の夜なのか、この横丁で知る人はいない。建国祭——王家の祝いの夜。そしてちょうど1年前のこの夜、私は大広間のシャンデリアの下で、持っていたものをぜんぶ失った。婚約も家の名もあの世界での居場所も。
だから雨戸を閉めて、早々に休んでしまうつもりだった。祭りの灯りはあの夜の幾千の光と、どうしたって重なる。見なければ痛まない。そういう夜のやり過ごし方を、私はこの1年で覚えた。
その雨戸に手をかけたときだ。
「姉ちゃん、なにしてんの! 早く早く!」
ピコが表から駆け込んできて、私の前掛けの裾をぐいぐい引いた。もうすぐ路地の灯りがいっせいに点るのだという。「婆ちゃんがさ、修理屋の姉ちゃんを連れてこいって」。
そう言われて思い出した。祭りの晩は表に出て、灯りでも見上げてごらん——あの日のダリア婆さんの言葉は、社交辞令の響きではなかった。
断る言い訳を探すより先に、小さな手が私の手をつかんだ。子どもの手のひらは驚くほど熱い。引かれるまま敷居をまたいで——そこで息をのんだ。
路地じゅうの軒という軒に灯りがともっていた。
軒から軒へ渡した縄に吊りランプが連なり、乾物屋の樽の上にも、井戸の屋根にも小さな灯が据えられている。橙色の光は窪地の縁に沿って点々と続き、まるで光の川が路地の底へ流れ込んできたかのようだった。
そして、数えるうちに気づいてしまう。あの吊りランプは今朝直したばかりの子。井戸の屋根の灯りは、ポンプと一緒に整備した子。パン屋の窓辺のは、祭り前の行列のさなかに魔石を替えた子だ。この路地に点っている灯りの半分は、私の作業台を通っていった。
「どうだい、壮観だろう」
ダリア婆さんが人垣の向こうから現れて、果実水の杯を差し出してきた。蜂蜜で割った冷たい果実水は祭りの寄合のごちそうで、口に含むと甘酸っぱさが舌の奥までしみていく。婆さんは灯りの連なりを顎でしゃくった。
「言ったろ、灯りでも見上げてごらんって。あたしの目に狂いはないのさ」
得意げに笑う顔が、灯りに照らされて赤い。返す言葉を探していると、井戸端のほうでランプがひとつふつりと消えた。おかみさんの慌てた声が上がる。
私は前掛けの隠しからねじ回しを抜き、樽を踏み台にして手を伸ばした。魔石座のゆるみをきゅっと締め直せば、灯りはすぐに息を吹き返す。まわりから拍手とも冷やかしともつかない歓声が上がって、頬が熱くなった。
祭りの晩でも手を動かしているあいだの私がいちばん私らしい。
ふと見れば、隣の戸口にヴィムが立っていた。炉の火を落として、杯を片手に光の連なりを眺めている。目が合うと、彼はぼそりと言った。
「よく点いてる」
一言きり。けれどあの人のそれは、どんな長い賛辞よりも重い。私は「どうも」とだけ返して、その隣で同じ景色を眺めた。
ピコが紙包みを抱えて戻ってきた。婆さんに買ってもらったらしい蜜がけの木の実を、ほっぺたをふくらませて頬張っている。「姉ちゃんも」と差し出された一粒を口に放り込むと、香ばしさの奥から蜜の甘さがじんわり広がった。
祭りの味というものを、私はこの歳になって覚えはじめている。
やがて坂の上で笛と太鼓が鳴りはじめる。広場の祭り囃子だ。夜空の高いところにぽんと光の花がひらいて、歓声がひと呼吸遅れて降ってきた。王宮の方角だった。
あの丘の上では今ごろ、大広間のシャンデリアが幾千の光を降らせているのだろう。1年前の今夜、私はあの光の真下に立っていた。知らず指先が冷えて、杯を持つ手に力がこもる。
祭りの喧噪が一瞬だけ遠くなる。あの夜もこんなふうに音楽が鳴っていた。楽団の弦の音、衣擦れ、幾百のささやき。
思い出というものは呼んでもいないのに、勝手に戸口まで来る。
「姉ちゃん、見て見て!」
ピコが袖を引いた。吊りランプの列の下を、子どもたちがくぐり抜けては駆けていく。灯りの下を通るたびに影が足元で伸びたり縮んだりして、ピコはそれがおかしくてたまらないらしい。
腹を抱えて笑う声につられて、私の口元もゆるんだ。冷えていた指先に、血の気がゆっくり戻ってくる。
見上げれば、軒の灯りが夜風にゆらいでいる。あの夜のシャンデリアは、見上げることも許されない高さで光っていた。けれどこの路地の灯りは手を伸ばせば届く高さにあって、どの子をどんなふうに直したか、私はぜんぶ覚えている。名前を知らない光は、ここにはひとつもない。
「灯りってのはね、点けた者より直した者の顔を覚えてるもんさ」
婆さんが杯を傾けながら、誰にともなくつぶやいた。ほんとうかどうかは知らない。それでも今夜のこの路地でなら、信じてみてもいい気がした。
祭りの夜は更けていく。光の花がまたひとつひらいて、ピコが飛び跳ねる。ヴィムは何も言わずに、杯だけをわずかに掲げた。1年前の今夜を忘れる日は、たぶんこの先も来ない。それでもいつか、あの夜よりこの夜のほうをなつかしく思い出す日なら、来るのかもしれない。
来年もこの灯りの下にいられますように。口には出さず、私はその願いを果実水の最後のひとくちと一緒に飲み込んだ。空になった杯の底で、灯りの色がちいさくきらめいていた。
次話:「安請け合いは、いつも高くつく」




