第5話「こんがり焼ける朝は、しあわせのにおい」
夜明け前、まだ星が残るころに、店の戸を叩く音で私は目を覚ました。
戸口に立っていたのは、粉まみれの前掛けをつけた大柄な男だった。錆び横丁の角でパン屋をやっているベルクだ。いつもは陽気に鼻歌まじりで生地をこねている人が、今朝は眉を八の字にして、大きな手をもみしぼっている。
「修理屋の姉さん、頼む。うちの窯が、いかれちまった」
聞けば、魔導オーブンの温度計が壊れて、火加減がまるで読めなくなったのだという。朝いちばんの生地はもう焼きに入っている。このままでは街じゅうの朝食のパンが真っ黒焦げになってしまう。私は着替えもそこそこに、工具を布にくるんで、ベルクのあとを追った。
パン屋の中に入った瞬間、香ばしい匂いが鼻をついた——と思ったら、その奥に焦げくさい煙のにおいが混じっている。せっかくの小麦とバターの匂いが、黒い焦げの苦さに台無しにされていた。天井の梁からは乾かしかけの布巾が下がり、粉台には打ち粉が薄く積もっている。
壁ぎわの木箱には、これから焼かれるはずだった生地が、ふくらんだまま順番を待っていた。パン屋の朝は街の誰よりも早い。この店の匂いで目を覚ます人が、この横丁にはたくさんいる。
鉄の窯の扉を開けると、鉄板の上で、丸パンがいくつも炭のように黒ずんでいる。ベルクが泣きそうな声を上げた。
「ゆうべまでは、ちゃんと焼けてたんだ。それが今朝になったら、温度計の針が動きゃしねえ。勘で焼いたら、この有様さ」
私は窯の横に取りつけられた魔導温度計を覗き込んだ。文字盤の針がいちばん下でぴくりともしない。これでは窯の中がぬるいのか、燃えたぎっているのかも分からない。
手のひらを扉にかざすと、じりじりと肌を焼くような熱。針が動かないだけで、窯そのものはちゃんと熱を持っている。
「温度計だけの故障ね。窯は元気。今のうちに火を落として、生地は一度出しましょう」
ベルクが慌てて焼きかけの生地を運び出すあいだに、私は温度計を窯から外しにかかった。熱いうちは触れないので、濡らした布で金具をくるみ、少しずつ緩めていく。指先に伝わる余熱がじんわりと痛い。
外した温度計を作業台がわりの粉台に置き、裏蓋を開ける。中には熱を感じ取るための細い金属の芯と、それを針の動きに変える小さな魔石座。
芯を見て、私はすぐに合点がいった。熱を測る金属の芯が、長年の煤でびっしり覆われている。これではいくら窯が熱くても、芯まで熱が届かない。
針が動かないわけだ。毎日毎日、窯の熱を浴び続けて、少しずつ煤をため込んでいったのだろう。急に壊れたように見えて、本当は、じわじわと限界が来ていた。
魔導具はたいてい、そういう壊れ方をする。
私は刃先の平たいところを使って、芯にこびりついた煤をこそげ落としていった。黒い粉がぱらぱらと粉台に散る。焦げた油と鉄の混じった匂いが、指先から立ちのぼった。
芯の地金が銀色に戻るまで磨き上げ、目盛りの狂いがないか針の根元も見てやる。加えて、魔石座の魔石も、そろそろ寿命が近い。座から抜いて光にかざすと、もとの澄んだ橙はすっかり褪せて、芯まで灰色に濁っている。
命を使いきった石の色だ。これも新しいものに替えておく。細かな作業のあいだ、ベルクは何度も窯とこちらを見比べて、そわそわと足踏みをしていた。
焼き上がりの刻限が迫っているのだ。
「姉さん、間に合うか? 常連が起きてくる前に焼き上げないと」
「間に合わせます。あなたは竈の火をもう一度おこして」
温度計を窯に戻し、火を入れる。しばらくして——針が、かすかに震えながら、ゆっくりと持ち上がりはじめた。ベルクが「動いた!」と叫ぶ。針が示す目盛りに合わせて火加減を調え、頃合いを見て、生地をふたたび窯へ。
それからほどなく、店じゅうに、あの匂いが満ちはじめた。焦げのにおいではない。こんがりと色づいた小麦の皮が、バターと蜜の甘さをまとって、ふくらんでいく匂い。
生地が窯の中で笑っているような、しあわせな匂いだ。窯から出てきた丸パンは、てっぺんがきつね色に光っている。指ではじくと、こつんと乾いたいい音がした。
ちょうど東の空が白みはじめた。路地の向こうから、寝間着姿のおかみさんやあくびをした子どもたちが匂いに引かれて集まってくる。ベルクの店先に、朝いちばんの行列ができていく。売り物になった、と胸を撫でおろす大男の横顔は、もうすっかりいつもの陽気さを取り戻していた。
「修理代だ。持ってけ」
ベルクが押しつけてきたのは、銅貨ではなく、焼きたての丸パンを山ほど詰めた紙包みだった。多すぎる。そう断ろうとしたら、「姉さんが直してくれなきゃ、今日は一枚も売れてねえんだ。
安いもんさ」と、粉だらけの手でぽんと肩を叩かれた。この横丁では修理代がパンや青梅や豆に化けることも珍しくない。財布は軽いままだが、暮らしはちゃんと回っていく。
包みを抱えて店に戻ると、まだ乾いた匂いを漂わせるパンに、寝ぼけたピコが鼻をひくつかせて飛び起きた。私は一つを割って、湯気の立つ中身をちぎってやる。噛みしめると、ほのかな甘みと塩気が舌に広がった。
ピコは口いっぱいに頬張りながら「これ、毎朝食いたい」と目を輝かせる。その欲張りな一言がおかしくて、私はつい声を立てて笑った。夜明け前に叩き起こされた眠気も、この匂いの前ではもう、どこかへ溶けてしまっている。
次話:「油まみれのしっちゃかめっちゃか」




