第4話「声で目を覚ます小さな箱」
昼下がりの店はいちばん静かな時間だ。朝の慌ただしさが引いて、夕方の引き取りにはまだ早い。私は開けはなった窓から入る風に前髪を遊ばせながら、預かった時計のぜんまいを巻き戻していた。
路地の奥で、鳩が喉を鳴らしている。こういうのんびりした時刻は、たいてい長くは続かない。
案の定、けたたましい足音が近づいてきた。
「開かないんだ。俺の声で、開くはずなのに」
息を切らして飛び込んできたのは伝令のヤンだった。王都の役所やら商会やらの言伝を届けて走り回る、まだ若い男だ。今日は肩から下げた革の鞄を抱えて、半泣きの顔をしている。
差し出されたのは、鞄に取りつけられた小さな真鍮の錠前。鍵穴がない。かわりに、蓋の真ん中に細かな網目の彫られた円い窓があった。
「声紋錠でしょう。決まった言葉を、決まった声で言うと開く」
「そう、それ! 中に届け先の書状が入ってるのに、朝から何度呼びかけても、だんまりで。今日中に届けなきゃ、俺、首が飛ぶ」
ヤンが試しに錠へ顔を寄せ、「ひらけ、風の便り」と唱えた。錠は沈黙したまま。もう一度、今度はやけくそ気味に大声で。やはり、開かない。私は思わずふふ、と笑ってしまった。当のヤンは笑いごとじゃないと唇を尖らせている。
「あなた、風邪ひいてる?」
「……よく分かるな。三日前から、喉がガラガラで」
やっぱり、と私はうなずいた。声紋錠のからくりを、私は指で網目の窓をなぞりながら説明した。この錠の中には声の形を覚えている小さな結晶が入っている。
人の声には一人ひとり違う模様——声紋がある。登録された声と同じ模様の響きを聞いたときだけ、結晶が共鳴して、内側の掛け金が外れる。歯車や鍵ではなく、声そのものが鍵になる仕組み。
「じゃあ、俺の声が変わっちゃったから」
「そういうこと。風邪で喉が腫れて、声の模様がにじんでしまったのね。錠は正直だから、いつもの声と違うと、頑として開かない」
ヤンが情けない声を上げた。だが直せないわけではない。私は錠を作業台に据え、覗き窓の網の内側から、慎重に中の機構をひらいていった。
声を受ける薄い振動板と、その奥の小さな共鳴結晶。指の先ほどの、乳白色の石。魔石とは違う、音を記憶するための特別な結晶だ。
そっと指を這わせると、つるりと冷たく、内側にかすかな響きの余韻を宿しているのが伝わってくる。この石は一度覚えた声を忘れない。そういう作りになっている。
だから直すというより、こちらが石の側に歩み寄ってやる、という感覚に近い。
私はまず振動板の埃を払った。細い網目の奥に綿埃がたまっていて、これも響きを鈍らせる一因だ。息を吹きかけるだけでは飛ばないので、羽根の先で一枚ずつ払い落としていく。
それから、共鳴結晶の座を細筆で清め、結晶が拾う響きの幅をほんのわずかに広げてやる。声紋の中心はそのままに、多少にじんだ声でも受け入れられるよう、遊びを持たせるのだ。締めすぎれば、健康なときの声しか受けつけない偏屈な錠になる。
ゆるめすぎれば、他人の声でも開いてしまって錠の意味がなくなる。締めすぎず、ゆるめすぎず。ここは職人の勘がものを言う。
母はこの加減を「呼吸ひとつぶんの余裕」と呼んでいた。
昼を待たずに調整を終え、私はヤンに合図した。「もう一度、いつもの言葉を」。ヤンが息を整え、掠れた声で「ひらけ、風の便り」と唱える。
——かちり。錠の内側で、掛け金の外れる涼やかな音がした。蓋がぱたりと持ち上がり、中から折りたたまれた書状がのぞく。
ヤンは目を丸くして、それから、ぱっと顔を輝かせた。
「開いた! すげえ、開いた! 姉さん、あんた命の恩人だ!」
礼を連呼しながら、ヤンは書状を握りしめ、風のように路地を駆け出していった。首の皮一枚つながったらしい。銅貨を数枚、作業台に置いていくのも忘れずに。
忙しない後ろ姿を見送って、私は肩の力を抜いた。声が鍵になる魔導具。人の声の、あの複雑な模様を覚えて、それに応える小さな箱。
何度直してもあの繊細さには惚れ惚れする。
工具を片づけながら、私はふと棚の奥へ目をやった。布のかかった、母の形見のオルゴール。
あれも蓋を開ける小さな箱だ。けれど、あれは声紋錠とは違う。ねじを巻けば櫛歯が円筒を弾いて音を鳴らす、ごく普通の機構式のはず。
何度分解しても歯車もばねもどこも壊れていない。それなのに鳴らない。私は今日まで、何十回とあの箱の中を覗いてきた。
円筒の突起の並びも、櫛歯の一本一本の長さも、指がかたちを覚えてしまうくらい調べ尽くした。答えはいつも同じ。どこも悪くないのに動かない。
布をめくり、私はためしにねじを巻いてみた。かちり、かちり、とぜんまいの巻き上がる手応え。放すと、円筒がゆっくり回りだす——はずが、櫛歯に触れる寸前で力尽きたように止まった。
いつもどおりだ。何ひとつ、いつもと変わらない。母がこれを作ったとき、私はまだ言葉も話せない赤子だったと聞いている。
それでも耳の奥には残っている。眠りに落ちる間際に降ってきた、あの子守唄の音の並び。鳴るはずの音を知っていて、鳴らせない。
それがいちばんこたえる。
声で目を覚ます箱を直したばかりの手で、私はまた、鳴らない箱のことを考える。私の手はたいていのものを直せるのに、母の遺した一箱だけは、いまだに機構のどこに理由があるのか分からない。壊れているのは私の腕のほうなのかもしれない。そんな考えがちらりと胸をよぎった。
布の上に手を置いて、すぐに離す。今日はもう、閉店だ。夕闇の落ちた路地で、ピコが「腹へったー」と間延びした声を上げていた。
次話:「こんがり焼ける朝は、しあわせのにおい」




