第30話「壊れたままの私も、ここにいていい」
弟子の爪の隙間にも、近ごろは油が黒く残るようになった。
朝の土間で手を検分してやると、ピコは誇らしげに10本の指を開いてみせる。飴玉のほうが似合う手のひらに、豆粒ほどの火傷の痕がひとつ。勲章のつもりで隠さないところがこの子らしい。湯で洗っても落ちない黒が働く手の色なのだと、もう知っている顔だ。
「開店の鈴は、おれの仕事だからな」
宣言して駆けていって、軒先でざらりと鳴らしてくる。雪はもうどこにもない。開けはなった戸口から入る風は土と若草の匂いがして、路地の水たまりが朝日を銀色に散らしている。
作業台に布を広げ、工具を右から左へ、使う順に寝かせていく。隣ではピコが自分の布を広げて、私の手つきを横目で盗みながら、柄を短く詰めた子ども用のねじ回しを並べていく。
「刃物は刃を自分に向けない」
「知ってるよ。姉ちゃんそれ、もう100回目」
「100回でも言うの」
私も母に、同じだけ言われて育った。口うつしの言葉が自分の声で出ていくたび、胸の奥であの人が笑う気配がする。
表では墨の一行が増えた看板が春の風に晒されている。アッシュフォード工房——なんでも直します。書き加えた一筆はまだ黒々と若くて、朝の光を受けると文字が胸を張って見える。向かいで麻袋を引きずり出していたダリア婆さんが、それを見上げて鼻を鳴らした。
「回りくどい屋号だよ。この店は修理屋で通ってるんだ」
「両方いただきます。呼びやすいほうでどうぞ」
「言うようになったねえ、お嬢ちゃん。……今夜、例の箱を聴かせてもらうよ。ピコがしつこくてね、婆ちゃん来い来いって」
ここへ流れ着いたばかりのころ、この人は会釈しか返してくれなかった。文句と約束を置いて豆の袋を担ぎ直す背中を見送りながら、日暮れがすこし楽しみになる。
昼前に、荷運びの親方ガレンさんが敷居をまたいだ。桟橋から市場までの荷を一手に請ける、樽みたいな体つきの人だ。作業台に差し出されたのは、手のひらに収まる魔導時計だった。蓋の角がへこんで、鎖の環がひとつ潰れている。
「昨日から、てんで動かねえんだ。女房にもらって20年、一度も止まったことがなかったのによ」
蓋を開けて、針の顔をのぞきこむ。蓋の裏には細かい引っかき傷で、頭文字がふたつ寄り添って彫ってある。見なかったことにして、検分を続けた。
文字盤に狂いはなく、焦げの跡もない。魔石座の石が寿命まで白く濁って、受け座の接点に緑青がうっすら浮いている。石を替えて座を磨けば動く。
ただ、耳をあてて調速輪の拍子を聞くと、刻みがほんのわずかに間延びしていた。輪の軸が髪ひと筋ぶんだけ歪んでいる。
「この時計、遅れませんか。一日に5分ほど」
「お、分かるかい」
親方は破顔して、へこんだ角を太い指の腹でなでた。
「所帯を持った日に石段から落とした。以来ずっと5分遅れよ。おかげでおれは万事この調子、女房は先回りして待ってる。うちはそれで回ってんだ」
「軸を起こせば、遅れごと直せますけれど」
「やめてくれ」
即答だった。石だけ頼む、と親方は言う。遅れが直ったら待ってる女房の立つ瀬がねえ——照れ隠しの早口を聞きながら、私は工具を持ち替えた。濁った石を抜き、緑青を磨き落とし、新しい魔石を座へ収める。歪んだ軸には触れない。
「ねえ、せっかく開けたんだからさ。軸ってやつも、ついでに起こしちゃえば」
横から覗きこんでいたピコが小声で言って、親方に頭をわしわし撫でられている。私は弟子の鼻先へ、外した古い魔石をつまんでみせた。
「頼まれたぶんだけ、直す。うちの店の決まりよ」
安請け合いで泣いた昨年の夏を思い出しながら言うと、ピコは口を尖らせて、それでも古い石を布で包む手つきだけは丁寧だった。針が動きだすと、時計は昔なじみの拍子で、のんびりと時を刻みはじめる。
「5分の遅れは、そのままにしてあります。へこみも遅れも、もうこの時計の顔ですから」
「そうとも。よく分かってるよ、あんた」
銅貨を受け取って、時計の重みを親方の掌へ返す。まっすぐに戻すだけが修理じゃない。壊れたところごと、その人の暮らしの形に添わせるのも直すうちだ。母の教えになかった手順を、この横丁が私に足してくれた。
店じまいの刻限に、隣の槌の音がやんだ。
ほどなくピコがダリア婆さんの手を引いて戻ってきて、ついでのように壁を叩く。
「ヴィムのおっさんも聴いてけよ。今夜は演奏会だからな」
戸口に現れたヴィムは、腕を組んだまま柱にもたれた。入りも帰りもしない、あの人なりの特等席らしい。婆さんは火鉢のすぐそばの椅子に陣取って、湯呑みを両手で包んでいる。
手土産だと言って、干し杏の包みがピコの膝へ放られた。豆の講釈が出ないのは、特別の晩だと分かっているからかもしれない。私は棚から母の箱を下ろして、ねじを巻いた。
音の粒がこぼれはじめる。
小川の水音に似た、高く澄んだ並び。ピコが得意顔で、声の模様で開く仕掛けなんだぜ、と婆さんに説いて聞かせている。半分は私の受け売りで、もう半分は弟子の知識だ。三つ目の節がいつもどおりひょいと外れる。婆さんの皺深い目じりがそこでゆるんだ。
「……いい腕だ、あんたの母さんは。この外れるところがいちばんいいね。うますぎる歌は、信用ならないから」
「……機構も悪くない」
柱のほうから、短い声が落ちてくる。あの人の言葉でそれは、たぶん最上級なのだ。ぜんまいがほどけきるまで、店の中はしんとして、豆の煮える匂いと音の粒だけが漂っていた。
客が引けて、二階からピコの寝息が降りてくるころ、私はひとりで店の灯を順に落としていった。
母はいない。それは直らない。箱が歌うようになっても、あの人の指が私の髪を梳くことは二度とないのだ。胸の真ん中には穴の形がそのまま残っていて、ふさがる兆しは、この先もないのだろう。
それでもと思うのだ。遅れごと生きてきたあの時計も、音の外れた節ごと好かれるあの歌も、狂いを抱えたままでちゃんと動いている。壊れたままの私もここにいていい。
誰かに直してもらうというのは、元通りになることではなくて、そう思える場所へ帰りつくことなのだ。穴は穴のまま、まわりに新しい棚ばかり増えていく。そういう直り方もきっとある。
火鉢の灰をならして、朝のための火種を奥へ埋ける。熾は灰の布団の下で、ちいさく赤い息をしている。
明日もこの火から、店の一日を起こす。




