第29話「お母さんが隠した、もうひとつの声」
その声は歌の終わりに隠れていた。
箱が目を覚ましてから、夜のひと巻きはうちの日課になりつつある。閉店後の火鉢のそばで、ピコが特等席の木箱に座り、私がねじを巻く。小川の音色がひと巡りして、ピコが満足して寝に上がる。
その晩もそのはずだった。三つ目の節にさしかかったとき、ピコが欠伸まじりに言ったのだ。
「姉ちゃんも歌えば? 箱とふたりで歌ったほうが、うまいだろ」
深い考えのない、子どもの思いつきだった。私は笑って、音の粒に自分の声を重ねた。ねむれ、ねむれ。母がしたように旋律の下へ低くもぐりこんで、あの音外しの節を、箱と一緒になぞる——。
ふ、と音色が途切れた。
ぜんまいは残っているのに、円筒の回る気配だけがして、音の粒が消えた。壊れたか、と腰が浮きかけた次の瞬間、箱の奥から、別のものが立ちのぼった。
『——リーゼ』
私の名前だった。
櫛歯の音ではない。人の声だ。低くて、すこし笑いを含んで、語尾のやわらかい——忘れるはずのない声。ピコが木箱の上で固まっている。私は動けないまま、その続きを聞いた。
『この歌がうたえたのなら、あなたはもう、ひとりで抱えていないわね。……それでいいの。それがお母さんの、最後の修理よ』
それきりだった。
声は途切れて、円筒は何ごともなかったように残りの旋律を鳴らし、歌はいつもどおりの終わりまで流れて止まった。火鉢の炭がひとつ爆ぜる。ピコがおそるおそる、というふうに口をひらいた。
「……いまの、だれ」
「……母よ」
声を記憶する結晶。ヤンの錠を直した日に、この手で触れたあの仕組み。母は箱の耳に、歌の鍵のさらに奥へ、短い言葉をひとつ仕込んでいたのだ。
開く条件はたぶん箱と私が一緒に歌うこと。私がひとりで歌えるようになって、それでも足りない。誰かとふたりで——今夜ならピコの思いつきと一緒に——歌えた夜にだけ、届く言葉。
ひとりで抱えていないわね、と訊く声が、ひとりでは決して開かない鍵の奥に仕舞われていた。仕掛けごと母の言葉だった。
泣かなかった。かわりに、長いこと笑ってしまった。ああ、この人には敵わない。5年かけてようやく箱の蓋を開けた娘の、その先の先まで、あの人は工房の椅子で設計していたのだ。
翌る日の昼、坂の上で馬車が止まった。
濃紺の外套に星獅子の徽章。テオバルトは今度は従者を連れて、公けの顔で店の敷居をまたいだ。作業台の上に置かれたのは重たい蝋封の書状——アッシュフォード家の名誉回復と、リーゼロッテの復籍を認める旨の、国璽の入った正式のものだった。
「王命だ。あの夜の裁きは誤りだったと、国が認めた。……アッシュフォード嬢。いや」
テオは言い直しかけて、今日は言い直さなかった。この書状の前では、その呼び名こそが正式なのだろう。私は油の染みた指で蝋封をなぞった。この紋を、断罪の夜は見上げるしかなかった。今は作業台の上で私の指の下にある。
「名誉の回復は、たしかに受け取ります。母の名が晴れるのなら、これほどのことはありません」
「では、復籍も——」
「いいえ。私は戻りません」
テオの眉が下がる。分かっていたという顔と、それでも、という顔が半分ずつ。私は書状を丁寧に畳み直して、言葉を探した。帰る帰らないの話なら、とうに終わっている。今日のこれはもうひとつ別の問いだ。どこで生きるかではなく——どの名前で生きるか。
「アッシュフォードの名は、ひとつだけいただきます。侯爵家の名としてではなく、母エレオノーレ・アッシュフォードの名として。……この店の屋号にします。母の工房として、私が継ぎます」
言いながら、腑に落ちていくのが自分でも分かった。ゆうべの声が背中にある。ひとりで抱えないと決めた店に、あの人の名前を看板ごと掲げてしまえばいい。テオはしばらく黙って、それから負けたときの顔で少しだけ笑った。
「……君は本当に、こちらの筋書きどおりには受け取らないな。叔母上の言ったとおりだ」
「叔母上?」
「この店を私に教えたのは、あの人だよ。母の形見の鏡を、ここで直してもらったと。……形見を取り戻す姿に、身分の別はないものねと言っていた」
すみれの香水がふいに記憶の鼻先をかすめた。あのお忍びの貴婦人。フードの奥の戸惑いと、坂を上っていった背中。
あの人の置いていった銀貨と一言が、めぐりめぐって王宮の御用になり、この書状になって帰ってきたらしい。壊れた鏡がつないだ縁だと思えば、これも修理屋の身から出た糸だ。
「彼女にお伝えください。鏡の魔石は、5年はもちますと」
「修理屋の口上だな。伝えておく」
テオは書状を——復籍の頁だけを丁寧に抜き取って、持ち帰った。名誉回復の頁が作業台に残る。戸口で彼は一度だけ振り返り、公けの顔を半分だけ脱いで言った。
「私は春から、北の国境の視察に出る。今度は、自分で決めた仕事だ」
「お似合いです。……道中、灯りが壊れたら、うちに送ってください」
初めて、テオが声を立てて笑った。坂を上っていく背中は、革靴の音まで軽くなっていた。
夕方、私は看板を下ろして、作業台に寝かせた。
拾った板きれに墨で殴り書きした「なんでも直します」。この看板もずいぶん風雨に晒された。私は細筆に墨を含ませて、文字の上に一行、書き加える。
アッシュフォード工房——なんでも直します。乾くのを待つあいだに、彫刻刀を出して、オルゴールの底板の隅へ小さく銘を刻んだ。エレオノーレ・アッシュフォード。
母がこの箱に署名を遺さなかったのは、きっと娘の手で入れさせるつもりだったからだ。そういうことにしておく。
刻み終えた銘の溝へ油をひと拭き。木くずを払うと、灯りの下で母の名が鈍く光った。
看板の墨が乾けば、この店はふたりの名前で開く。
次話:「壊れたままの私も、ここにいていい」




