第28話「口ずさんだ夜に、箱が目を覚ます」
その夜の店はまだ昼間のにぎわいの匂いをうっすら残していた。
磨かれた窓の向こうで、雪解けの雫が軒を叩いている。竈の鍋には豆と芋の煮汁が残り、棚には焼き菓子と石鹸の包み。ピコは食べ疲れて二階で寝てしまい、研ぎ澄まされた鏨が作業台の布の上で行儀よく眠っている。
私はそのどれも仕舞わずに、火鉢のそばへ椅子を引いた。今夜は体のどこにも力が入らない。悪い脱力ではなかった。
湯上がりに似た、骨まで届くゆるみ方だった。
棚のいちばん奥から、母の箱を下ろした。
工具は出さない。布にくるんだ極細の鑷子は布のままだ。修理はもうしないと決めた箱を、それでも下ろしたのは、直したかったからではない。今夜はなんだか母に会いたかった。その用だけで膝に載せていい形見なのだと思えるようになったのは、たぶん昨日今日のことだ。
毛布をほどいて、蓋の唐草を指でたどる。
窓際の長椅子。膝の毛布。夏の虫の声。
あの毛布はいつもうっすら石鹸くさくて、私はその匂いの中で眠りに落ちるのが好きだった。ねじを巻く前に決まって一度、こうして蓋の彫りを撫でるのが母の手順のはじまり。歌の三つ目の節でわざとみたいに音を外して、油と石鹸の匂いのする指で私の髪を梳いた。
石鹸。私は棚の包みへ目をやった。石鹸屋のおかみさんの置いていった石鹸と、母の指の匂いが、記憶の中で重なっている。
おかしなものだ。あの人たちが昨日この店に運んできてくれたものの中に、母の欠片がまじっていたなんて。
気づいたときには唇が動いていた。
ねむれ、ねむれ——。
声が出ていた。
掠れて、細くて、音程もあやしい。それでも喉は今夜、蓋をしなかった。豆の煮える匂いと石鹸の記憶と、研がれた鏨の光の中で、あの歌はするりと口からこぼれていく。
ひと節目を歌い終えてふた節目に入り、自分が歌えていることに気づいて、そこで初めて息が乱れた。歌えている。5年間、鼻歌にすらできなかった歌を、私はいま母の箱の前で歌っている。
歌のさなか、指先にこそばゆいものが走った。
最初は自分の手の震えだと思った。違う。木だ。木肌が震えている。蓋に置いた指の腹に、蜂の羽音より細かいおののきが伝わってくる。歌をやめると、おののきも眠るように薄れていく。
「……え」
わけが分からないまま、私はもう一度、歌の続きを口に載せた。すると箱の奥で、かちり、と小さな音がした。錠前の掛け金が外れる音。伝令のヤンの声紋錠が開いたときの、あの涼やかな音と同じ種類の音が、この箱の中で鳴った。
声で開く。
決まった言葉を決まった声で。あの日ヤンに説明した自分の声が、耳の奥でよみがえる。声の模様に結晶が共鳴して、掛け金が外れる——嘘でしょう。
この箱、機構式じゃ、なかったの。櫛歯の台座に嵌まっていた、夜空の色のあの石。軸受けの飾りだとばかり思っていたあれは、飾りではなく、耳だったのだ。
5年間、私が探し続けた故障はどこにもなくて、この箱はどこも壊れないまま、鍵の歌をじっと待っていた。
言うことを聞かない指でねじを巻いた。
かちり、かちり。ぜんまいが力を溜める、いつもの手応え。指を放す。円筒が回る。突起が櫛歯にかかる。そして——鳴った。
音の粒が箱からこぼれた。
小川の水音に似た、高く澄んだ粒。ひと粒ずつが火鉢の明かりの中へ立ちのぼって、店の梁に触れて、磨かれたばかりの窓にやわらかく跳ねる。旋律はあの子守唄だった。
私が譜面に起こせるほど覚えていた、そのとおりの並び。膝から腿へ、箱の響きが木肌ごと伝わってくる。胸の奥のいちばん固いところが、その響きにゆっくり溶かされていく。
母が作った箱が母のかわりに歌っている。
三つ目の節で音が外れた。
円筒の突起はそこだけわざと半歩ずらして打たれていたのだ。癖ではなく、わざとだった。母は自分の歌いかたをそっくりそのまま、この箱に刻んでいる。答え合わせの相手はもういないと思っていた問いに、5年越しに箱が答えた。
頬が熱い。
伝った雫が顎から手の甲に落ちて、そこでようやく自分が泣いているのを知った。唇の端に流れてきた一筋は、うすい海の味がする。ぬぐわなかった。
ぬぐう手で箱を支えていたかった。オルゴールは構わず歌い続ける。音の粒が店に満ちて豆の匂いとまざり、軒の雪解けの雫の音ともまざる。
私はその真ん中でちゃんと聞いた。まだ言葉も話せなかった私のために母が選んだ音の、ひと粒も欠けていない並びを。
直せなかったのではなかった。
この箱はあの日から、歌える日の私を待っていた。機構をいくら開いても届かなかったはずだ。鍵は箱の中ではなく、私の喉の奥にあったのだから。
頭ではもうそこまで分かっている。それでも胸のほうは、旋律がひと巡りするたびに新しく驚いて、追いつくのにもうしばらくかかりそうだった。そしてその鍵を回せる程度に私の中の何かを整えてくれたのは、昨日この店に列を作った、あの人たちの手だ。
焼き菓子とパンと石鹸と、豆の煮方の講釈と研がれた鏨。誰も箱に触れていないのに、揃ってここへ向かう道を直していってくれた。
ぜんまいがほどけきって、最後のひと粒が梁の暗がりへ消えた。
余韻の中で、階段がみしりと鳴った。振り向くと、寝ぼけまなこのピコが手すりから顔だけ出して、目をまるくしている。
「……姉ちゃん。いまの、あの箱?」
「ええ。……鳴るのよ、この子」
「へえ。……いい歌。とうちゃんの筒より、上等な音がする」
ピコは欠伸まじりにそう批評して、もう一度聴きたがった。私は箱の蓋を撫でて、濡れた頬のまま笑った。今夜はもうおしまい。この子も5年ぶりに歌ったのだから、喉を休ませてあげないと。
「なあ、明日も鳴らす?」
「ええ。明日も」
「じゃあおれ、婆ちゃんも呼んでくる。ダリアの婆ちゃん、いい歌にはうるさいんだ」
勝手に演奏会の段取りを決めて、ピコは満足して二階へ戻っていった。階段の軋みが遠ざかったあとも、店の空気にはまだ音の粒の名残が漂っていて、私はしばらく火鉢の前を動けずにいた。
ねじは巻き切らずに、ひと巻きぶんだけ残してある。明日も鳴らせるように。
次話:「お母さんが隠した、もうひとつの声」




