第27話「今度はみんなが、私の店に来る」
開店の鈴を鳴らす前から、店の外がにぎやかだった。
軒の氷柱がゆるんで、雫が落ちるたび土の匂いが立つ。冬の底が抜けはじめた朝の路地に、なぜか人が並んでいる。先頭は腰の曲がった小柄な影——マルタさんだ。亡くなったご主人の魔導カイロを、去年の初夏に直したお客さま。
「カイロの調子をね、見てもらおうと思って」
預かって蓋を開けたけれど、魔石は元気で接点も曇りひとつない。どこも悪くありませんよ、と返すと、マルタさんは「そうかい、よかった」とあっさり引き下がった。かわりに布包みをずいと押しつけてくる。バターと蜜の匂い。焼き菓子が数えるのも大変なほど詰まっている。
「焼きすぎちまってね。年寄りひとりじゃ食べきれないんだよ」
焼きすぎたにしては包みが立派すぎる。口を開きかけたところへ、もう次の客が土間に入ってきていた。パン屋のベルクさんが、麻袋を肩に担いでいる。
「姉さん、窯の癖をちょっと聞きたくてよ。ここんとこ左の奥だけ焼きが強え気がする」
「見に行きましょうか」
「いや、いい。話しただけで整理がついた。こいつは試し焼きの余りだ」
どさり、と作業台に丸パンの山が置かれた。試し焼きで10個も焼く人があるだろうか。続いて石鹸屋のおかみさんが、例の撹拌機の「音がなんだか艶っぽすぎる」という前代未聞の相談を持ち込んでくる。聞き終える前に新しい石鹸を3個、棚にちゃっかり並べていく。
「油仕事の手にいちばん効くやつだよ。あんたの手は商売道具だろ」
昼前には井戸端のおかみさんたちがなだれ込んできた。用件を訊く暇もなかった。換気だよ換気、春の前にやっとかないと黴が出る——そう言い合いながら、雑巾とはたきで店じゅうの掃除を勝手に始めてしまう。
窓が拭かれ、梁の埃が払われ、床が磨かれていく。ありがたい。ありがたいけれど。
「そこの棚は! 触らないで、順番が決まって——」
工具の並びを几帳面に直されそうになって、私は台の前に両腕を広げて立ちはだかった。使う順に右から左。ここだけは母の代からの掟なのだ。
おかみさんたちは「几帳面だねえ」と笑って、かわりに私の昼ごはんの心配を始めた。誰かが竈に火を入れ、誰かが鍋を持ち込み、気づけば台所から芋の煮える匂いがしている。ここは私の店のはずだった。
ひとつだけ、ひやりとした瞬間があった。はたきの先がいちばん奥の棚へ伸びかけたのだ。毛布にくるんだ木の箱の、その手前で、おかみさんの手はするりと隣の段へ流れていった。
誰もあの箱には触れない。教えたおぼえもないのに、触れていいものといけないものの区別が、この人たちにはちゃんと見えているらしい。
午後、表がまた騒がしくなった。
「修理の人はこっち! 差し入れの人はそっち!」
ピコが戸口で仁王立ちして、交通整理を始めている。修理待ちの列と差し入れの列がもつれて、狭い店先が市場の朝みたいになっていたのだ。ところが仕分けてみれば、修理の列に並んでいたのは結局ひとりきり。
それも「ランプの芯を見てほしい」というヨナじいさんで、柱時計を直した縁でうちの常連になってくれた隠居だ。診れば芯は無事、じいさんの外套の物入れからは飴の包みが出てきて、ピコの手に握らされた。
「……姉ちゃん。今日、壊れたもの持ってきたやつ、ひとりもいねえ」
ピコが列の名簿がわりの石板を見せてくる。差し入れ・差し入れ・掃除・差し入れ・世間話。商売としては開店以来の閑古鳥で、店としては開店以来の大にぎわい。帳簿につけようのない一日が、石板の上でぐちゃぐちゃに笑っていた。
夕方ちかく、ダリア婆さんが顔を出した。
「お嬢ちゃん、店賃の相談だ」
来た、と背筋が伸びる。路地は残ったけれど、詮議のごたごたで婆さんの懐も痛んだはずだ。値上げなら受けるしかない。神妙に座り直した私の前で、婆さんは湯呑みの茶をゆっくり一口飲んでから言った。
「今月分は、まけとく」
「……え?」
「路地が残った祝いだよ。それと、これは豆の煮方の講釈。あんたのはいつも水が多い」
相談とはと口の中で言い返す間もなく、婆さんは豆の袋を作業台に置いて、煮方を一方的に講釈して帰っていった。あたしが喋ってあんたが聞く、それが相談というものらしい。
閉店の間際に最後の客が来た。
ヴィムだった。無言で土間に入ってきて、布包みを作業台に広げる。中身はうちの鏨と鑷子が3本。今朝がた「砥ぎのついでだ」と持っていかれたものだ。返された刃先は夕暮れの薄暗がりでも分かるくらい研ぎ澄まされて、光の線を細く弾いた。
「……仕事の道具が鈍ってると、見てて苛つく」
それだけ言って、隣へ帰っていく。私は研がれた鏨を光にかざした。刃は綺麗に返って、柄はきちんと油拭きまでされている。この人の「ついで」は、いつも本業より丁寧だ。
夜になると、店にはパンと焼き菓子と石鹸と豆と飴が積み上がっていた。床は光り、窓は透きとおって、竈では煮えた芋の鍋が湯気を立てている。ピコとふたりで食べても食べても減らない。
「食いきれねえ」とピコが幸せな悲鳴を上げる。余ったパンは明日の朝あぶり直して、焼き菓子は硬くなる前にヨナじいさんへお裾分けに行こう。もらったものがもう次の誰かへ流れる道を探しはじめている。
私は笑いながら、ふと箸を止めた。
今日、私は何ひとつ直していない。
なのに、店じゅうが整っている。研がれた道具も磨かれた窓も、この店でいちばん草臥れているものが何なのか知っている。みんな知っていて、誰ひとりそれを口にしなかった。
カイロの調子、窯の癖、店賃の相談。壊れてもいないものを提げて、あの人たちは今日、この店の何を直しに来てくれたのだろう。
答えの手前で目の縁が熱くなって、私は湯気のせいにした。芋がおいしい。今夜はそういうことにしておく。
次話:「口ずさんだ夜に、箱が目を覚ます」




