第2話「居候が増えて、鍋がにぎやか」
夕暮れどき、市場帰りに、私の前掛けの隠しへ小さな手が伸びてきた。
銅貨の入った布袋を、指がつかみかけている。私は振り向くより早く、その手首をやんわりと握った。振り払おうと暴れたのは、痩せた男の子だった。
年のころは10歳くらい。継ぎだらけの上着から突き出た手足は、枯れ枝みたいに細い。私と目が合うと、子どもは唇を噛んで、逃げようと身をよじった。
「走ると転ぶわよ。石畳、そこだけ濡れてる」
私が力をゆるめると、子どもはよろけながら二歩下がった。それでも逃げなかったのは、たぶん腹が減りすぎて、足に力が入らなかったからだ。私はその顔を見て、怒る気にはなれなかった。
痩せた頬、落ちくぼんだ目。空腹の色を私は知っている。品よく着飾っていたころの私は知らなかったけれど、この横丁に来てから、いやというほど覚えた。
「ちょうど鍋を火にかけるところなの。掏った詫びに、豆を洗うのを手伝いなさい。話はそれから」
子どもは警戒しきった目のまま、それでも私のあとをついてきた。
店の奥の、狭い台所。私は竈に火を入れ、鍋に水を張った。マルタがくれた青梅は塩漬けにするとして、今夜は乾物屋で分けてもらった豆と、萎びかけた根菜を放り込む。
塩と、干した肉をひとかけら。ぐつぐつと煮える音と、湯気の匂いが台所に満ちていくと、子どもの喉がこくりと鳴った。
「名前は」
「……ピコ」
それだけ言って、ピコはまた黙り込んだ。豆を洗う手つきは存外に丁寧で、水をこぼさないよう鉢を体で抱え込んでいる。生きるために手先を使ってきた子の手だ、と思った。掏摸もこういう仕事のうちなのだろう。責める気持ちは湧かなかった。
鍋が煮えるのを待つあいだ、ピコの目は落ち着かなげに店のほうをさまよっていた。作業台に並んだ工具、棚に積まれた壊れた時計やランプ。この横丁で、こんなにたくさんの魔導具を置いている家は珍しい。
「姉ちゃん、これ、盗品?」と、ピコが警戒まじりに聞いてきた。私は思わず小さく吹き出した。
「まさか。ぜんぶ、直しかけよ。壊れたのを持ち込まれて、直して、持ち主に返す。それが私の仕事」
証拠を見せようと、私は棚から、笠の蝶番がゆるんだランプを一つ下ろした。鍋が煮えるまでのちょっとした手すさびにはちょうどいい。ぐらつく蝶番の芯をつまみ出し、薄いあて金を一枚噛ませて、ねじ回しで少しずつ締めていく。
話しながらでも手のほうは勝手に動く。かたかた鳴っていた笠が、じきにぴたりと据わって動かなくなった。「ほら。
壊れてたのがこうして元どおり」。笠を指先で開いて閉じてみせると、湯気の向こうのピコが、鍋のことも忘れて身を乗り出していた。
ふうん、とピコは疑わしそうに鼻を鳴らしたが、それでも作業台の鏨を一本そっと手に取った。慌てて取り上げようとした私に、彼は「盗らねえよ」とむくれる。工具を光にかざして、飽きもせず眺めている横顔は、掏摸をしていたときとはまるで別の子どものようだった。
壊れたものを直す、という言葉が、この子には物珍しく響いたらしい。
椀によそった豆の煮込みを差し出すと、ピコは一瞬ためらってから、火傷しそうな勢いでかき込みはじめた。ふうふう吹くのももどかしいらしい。根菜の甘みと干し肉のだしのしみた塩気が、痩せた体に染みていくのが、見ているこちらにも伝わってくる。
頬に飯粒をつけたまま、口いっぱいに頬張る音がやけに大きい。汁を一滴も残すまいと椀を傾ける姿に、いつからまともに食べていないのだろう、と胸の奥がしくりと痛んだ。二杯目をよそってやると、ピコはようやく少しだけ、肩の力を抜いた。
食べながらもピコは片手を胸から離さなかった。上着の内側に何かを隠している。布にくるんだ、小さくて硬いもの。
私が視線を向けると、ピコはさっと体をひねって隠した。奪られると思ったのだろう。私は何も聞かなかった。
人には誰にも触らせたくないものがある。それを抱えて生きるということを、私も少しは知っている。
——弁明すれば、失わずにすんだものがあった。
湯気の向こうで、ふと昔のことがよぎった。私も一度、言葉を呑み込んだ。本当のことを言えば守れたはずのものを言わずに手放した。
あのとき口をつぐんだ理由を、今もまだ、うまく人には説明できない。だから私はこの子が何を隠していても、無理に開かせようとは思わない。抱えていたいものは抱えたままでいい。
鍋がからになるころには、外はすっかり暗くなっていた。帰る家を聞くと、ピコは「ない」と短く答えた。ねぐらはこの横丁のはずれの、崩れかけた樽の陰なのだという。私は少し考えてから、店の隅の、まだ使っていない物置を指さした。
「藁を敷けば、樽よりはましでしょう。掏摸をやめる気があるなら、しばらくいてもいいわ。そのかわり、朝は早いわよ。鈴を鳴らすのは、あなたの仕事にしましょう」
ピコはぽかんと口を開けて、それから、疑わしそうに私を見上げた。どうしてそんなことをするのか、と顔に書いてある。理由なんて、うまく言えない。ただ、腹をすかせた子を暗がりへ帰す気に、どうしてもなれなかった。
その夜、物置のほうから、ごそごそと藁をいじる音がしばらく続いた。やがて静かになったころ、私が明かりを消しに行くと、ピコは丸くなって眠っている。細い腕はあの布包みをしっかりと抱きしめたままだった。何が入っているのかはまだ聞かない。
翌朝、寝ぼけまなこのピコが、おそるおそる軒先の鈴を鳴らした。ざらついた音が路地に響くと、彼は自分の鳴らした音に驚いたような顔をした。それから、ほんの少しだけ笑う。
「……リーゼ、姉ちゃん。この鈴、変な音」
そう呼ばれたのは初めてだった。悪くない響きだと思う。
次話:「直したら、終わってしまう気がして」




