第1話「誰かの温もりを預かる仕事」
その日の最初の客は、腰の曲がった小柄な老婆だった。
両手で胸に抱えるようにして持っていたのは、色あせた毛織りの布にくるまれた何か。私が椅子をすすめても、老婆はすぐには腰を下ろさなかった。包みをそっと作業台に置いてから、皺の寄った指で布をほどきはじめる。マルタと名乗ったその人の指は少し震えている。
布の中から出てきたのは、手のひらにおさまるくらいの真鍮のカイロだった。丸みを帯びた本体に蔓草の細工。蓋には小さな覗き窓があって、本来ならそこに魔石の灯がちらちら見えるはずだ。けれど窓の奥は暗い。触れてみると、鉄の冷たさが指の芯まで届いた。
「じいさんが、あたしのために作ってくれたものでね」
マルタはそう言って、覗き窓を撫でた。亡くなった夫が王宮の錠前づくりの職人だったこと。手先が器用で、退屈しのぎに作ったのがこのカイロだったこと。
ひと冬もふた冬も、これがマルタの手を温めてきたこと。老婆はぽつりぽつりと語り、最後にこう付け足した。ひと月前から、ぱったり温まらなくなったのだ、と。
「もう古いものだし、直らないなら、それでもいいんだよ。ただ、捨てる前にね、どうしても一度、確かめたくって」
私はうなずいて、カイロを手に取った。まずは全体を眺め、次に耳を近づけて振ってみる。中でかすかに、乾いた粒の転がる音。魔石が寿命を迎えて、ひび割れているらしい。それだけならすぐだ。けれど、蓋を開けて内側を覗き込むと、事情はもう少し込み入っていた。
魔石を受ける座金——魔石座の接点が、長い年月で青く錆びついている。この錆が魔力の通り道をふさいでいる。新しい魔石を入れても、これでは灯はともらない。
私は鑷子で錆の様子をつまみ、指先の感覚で厚みを測った。磨いて落とせる錆と、金具ごと替えるしかない錆がある。これは後者だ。
手のなかで、カイロをゆっくり回してみる。真鍮の合わせ目に走る細工の線は、ところどころ深さが不揃いだった。売り物ではなく、素人の手すさびで彫ったものだ。
それでも蔓草の葉先の丸め方には、作った人の癖がちゃんと残っている。魔導具は直そうと機構をひらくたびに、作り手のことを少しだけ教えてくれる。この人は覗き窓を大きめにとった。
灯りが見えたほうが、握る人が安心すると思ったのだろう。会ったこともない職人の心づかいが、金具の一つひとつから伝わってくる。
「少しだけ、部品を借りてきます。すぐ戻りますから」
マルタを店に残して、私は隣へ向かった。金物屋の油じみた暖簾をくぐると、火床の熱気と、金属を打つ匂いが顔にぶつかってくる。奥で、背の高い男が鉄棒を炉に差し込んでいた。ヴィム。この横丁で、私が唯一まともに仕事の話をできる相手だ。
「魔石座の接点金具、細いのを一つ分けてほしいの。真鍮の、古いカイロに合う寸法で」
ヴィムは炉から目を離さずに、顎で壁際の抽斗を示した。無口な男だ。私が抽斗を開けて金具を選んでいる間も、彼は槌を握ったままひとことも喋らない。それでも私がいくつか取り出して迷っていると、横から手が伸びて、いちばん奥の一つをつまみ上げた。
「そっちのは肉が薄い。あんたの用なら、これだ」
押しつけるように渡された金具は、たしかに私が探していた寸法にぴたりと合っていた。礼を言うと、ヴィムはまた炉のほうへ向き直る。代金を聞いても「あとでいい」としか返ってこない。ぶっきらぼうな背中にもう一度頭を下げて、私は店へ駆け戻った。
作業台に戻り、私は仕事にかかった。錆びた接点金具を外し、火にかけた小手で古いはんだを溶かして落とす。松脂の焦げる匂いが鼻をつき、白い煙がひとすじ立ちのぼった。
ヴィムの金具を据えて位置を合わせ、あらためて魔導線をつなぐ。継ぎ目に小手を当てると、銀色のはんだがつるりと流れて、細い川のように接点を包んだ。冷めて固まるのを待ってから、目の細かい紙やすりで表面をならしていく。
爪の先でたどって、引っかかりがないのを確かめる。魔力の道はほんのわずかな段差でも滞る。だから、ここは念入りに。
最後に、ひび割れた古い魔石を抜き取った。手のひらに転がすと乾いた音がした。長いあいだこの人の手を温めてきた石だ。
私はそれを捨てずに、布に包んで脇へ置く。かわりに手持ちの新しい魔石を座に嵌めた。小指の先ほどの、淡い橙の石。
カイロごと握って念を通す。魔力が回路をたどっていくのを私はじっと待つ。——ほどなく、握りしめた手のひらの中心に、かすかな温もりが生まれた。
それは真鍮の冷たさを内側から押し返すように、じんわりと本体のすみずみへ広がっていく。
冷えきっていたカイロが、手のなかでゆっくりと目を覚ましていく。私はそれを両手で包み、マルタの手のひらにそっと載せた。
老婆の目がじわりと見開かれる。それから、しばらく何も言わなかった。理解が追いつくのを待つように、両手でカイロを握りしめている。やがて皺だらけの頬を涙がひとすじ伝った。
「……あの人はね、毎朝、あたしの手をこうやって握って、温めてくれたんだよ。冷え性だからって。この子を作ったのは、自分がいなくなった後も、あたしの手が冷えないようにって、そういうことだったのかねえ」
マルタの指がカイロの丸みをなぞる。その手つきはきっと生前の夫の手を辿っている。私は口を挟まなかった。直したのはカイロだけれど、この人が今この手のひらで握り直しているのは、たぶんもっと別の温もりだ。私はそれを預かったにすぎない。
帰りぎわ、マルタは修理代の銅貨に、庭で採れたという青梅の包みを添えてくれた。断ろうとしたら、皺だらけの手にぴしゃりと押し戻されてしまう。
戸口で老婆を見送って、私はふと壁の向こうを見やった。槌の音がいつのまにか止んでいる。金具の代金はやっぱりあとで払いに行こう。青梅を半分、持って。
次話:「居候が増えて、鍋がにぎやか」




