第0話「錆びた鈴が鳴ると、店が開く」
——ああ、直せるのに。
真っ暗になった大広間で、真っ先にそう思ってしまった。私を取り囲む人垣が、囁きと非難で膨れ上がっているというのに。
建国祭の夜だった。頭上には王家の宝、星降りの魔導シャンデリア。天井の本体から幾千の星が光の鎖になって垂れ、いちばん低い星は、背伸びすれば指の届くあたりまで降りてくる。王家の光は民の頭上にまで降る、という趣向らしい。そのくせ触れることは固く禁じられていて、毎年、手を伸ばした子どもが衛兵に叱られるまでが祭りの見慣れた景色だ。
その、いちばん低い星が。宵の口から、ときどき翳っていた。座金が緩んで、魔力の道が細っているときの翳り方だ。私は扇の陰で、その瞬きを数えていた。
侯爵家の娘が、そんなものを見分けられると知られてはいけないのに。目が離せないまま、私はシャンデリアのそばを離れそこねていた。
光がいっせいに落ちたのは、その時だった。
悲鳴。どよめき。完全な闇。——頭のすぐ上に、あの星がある。座金さえ嵌め直せば灯は戻る。そう思ったときには、指が伸びていた。
躾も、立場も、闇が全部覆い隠してくれた気がした。それが間違いだった。
誰かの掲げた手燭が、星に触れた私の手を照らし出した。
「……アッシュフォードの、ご令嬢?」
「見たわ。灯が落ちる瞬間、あの方の手が星に」
違う。灯が落ちてから、伸ばした手だ。けれど闇の中の順番なんて、本当は誰にも見えていない。見えた気がした順番のほうが、真実の顔をして人垣を巡っていく。
「そういえば宵からずっと、シャンデリアばかり見上げていらしたわ」
「なんてこと」
何が起きているのか、頭が追いつくより先に、人垣の輪が私を閉じこめる形へ変わっていた。
壊したのではなく、直そうとした。——その申し開きの無力さは、自分がいちばんよく知っている。王家の宝に指を置いた事実は、灯が落ちる前だろうと後だろうと消えない。そのうえあの一言は、もっと悪い問いを連れてくる。なぜ、直せるの?
夜ごと、母の部屋で。刺繍と偽って、ふたりで魔導具の腹を開けた。ねじの頭を潰さない力加減も、魔石の座を磨く布の目も、ぜんぶあの内緒の遊びが指に教えてくれたもの。母が逝って、あの時間だけが私に残った。
それを、この人垣の真ん中で明かせと?
広間の主だった顔ぶれが、玉座の側へ集められていく。祝いの夜は、罪人が決まるまで終われないらしい。異国の客人が見ている前で、王家の宝は壊れたままにしておけないし、壊した誰かがいないままにもしておけない。
やがて進み出た大臣が、よく通る声で咎を読み上げた。動かぬ証拠、衆目のあるところ。——私の知らない私が、その口上の中では堂々と王家の宝を壊していた。
人垣の中に、婚約者の姿を探してしまった。テオバルト殿下。第二王子は玉座の側、大臣たちの列の間で目を伏せている。その口が私のために開くことは、最後までなかった。
「申し開きがあるなら、この場で述べよ」
広間じゅうが、私の口元を見ていた。
申し開きなら、ある。あのシャンデリアは今夜壊れたのではなく、何日も前から弱っていたこと。座金の緩みなら、道具さえあれば半刻で直せること。
——でも、それを言える侯爵令嬢は、この国のどこにもいない。言った瞬間、疑いがひとつ晴れるかわりに、油に汚れた母の指先までこの人たちの笑いものになる。
人垣のどこかで、小さく息を呑む音がした。
私は目を伏せて、ドレスの膝を折った。数えきれないほど繰り返してきた、いちばん綺麗なお辞儀のつもりだった。
「……申し開きは、ございません」
「沙汰は、追って下される」
大臣の声を合図に、衛兵が両側から歩み寄ってきた。父は最後まで、一度もこちらを見なかった。人垣の奥で誰より早く背を向けた、その横顔だけをなぜか今も覚えている。
広間を出るとき、一度だけ振り返った。手燭の火で、垂れ幕の金の獅子だけが生きているように揺れて、シャンデリアは死んだまま高みにいる。
ごめんなさい。直してあげられないまま、行きます。
王家の沙汰は三日後に下りた。婚約の解消。父のほうは、もっと早い。翌朝には勘当を言い渡されて、私はアッシュフォードの名を失った。娘の罪が家門に燃え移る前に、燃えている端から切り落とす——昔から、そういう算段のできる人だ。
屋敷を出る朝、私は母の形見だけを抱えて門をくぐった。
——あれから、あと少しで1年になる。
侯爵家の娘の指は、刺繍針より重いものを持ってはならない。そう躾けられて育ったはずの私の爪の隙間には、今朝も乾ききらない油が黒くたまっている。
王都のいちばん低い窪地、錆び横丁。雨のたびに水がたまる路地の突き当たりで、私は小さな修理屋をやっている。
朝はまず、軒先の鈴からだ。赤茶けた銅の鈴を指で弾くと、澄んだ音のなり損ないみたいな、ざらりとした響きがこぼれる。この音がひとつ鳴れば、私の店の一日が動きだす。
看板は拾った板きれに墨で殴り書きしただけ。「なんでも直します」。掲げた最初の朝、通りすがりのおかみさんに鼻で笑われた。
「ほんとに直るのかい」
「直せます。魔導具なら、たいていは」
あれから客は途切れていない。壊れたものは、どこの路地にも転がっているから。
作業台に布を広げ、工具を使う順番どおりに右から左へ寝かせていく。刃物は刃を自分に向けない。母の口癖のとおりに。手の甲からは鉄と、松脂に似た油の匂い。令嬢だったころなら卒倒しそうな匂いを、今はむしろ好ましく感じている。
母のことは、ここでは誰も知らない。それでいい。
壁の向こうで、どん、と金物のぶつかる音がした。隣の金物屋はもう火を入れている。無口な男は挨拶ひとつ返してくれないけれど、あの規則正しい槌の音を聞くと、なぜか肩の力がゆるむ。
この路地には、私のほかにも黙って手を動かしている人がいる。
通りの先で戸板の跳ね上がる音がして、乾物屋の女主人が豆の麻袋を店先へ引きずり出していた。目が合うと、皺だらけの顔がこちらを向く。
「お嬢ちゃん、今朝も開けるのかい」
「開けますよ。壊れものは、休んでくれませんから」
ふん、と鼻を鳴らして、女主人は袋に向き直る。ぶっきらぼうなくせに、うちの煙突から朝餉の煙が上がっているかを、あの人が毎朝確かめていくのを私は知っている。
最初の客までにはまだ間がある。棚の整理のふりをして、私はいちばん奥の段へ手を伸ばした。
布をかけた、手のひらふたつぶんの木の箱。
飴色の木肌に唐草の彫り。蓋の合わせ目には、幾度も開け閉めした白い擦り傷が残っている。オルゴールだ。ねじを巻いても蓋を持ち上げても、うんともすんとも言わない。
中の櫛歯も円筒も、暗記するほど分解した。歯が欠けているわけでも、ばねが折れているわけでもない。
それなのに鳴らない。
母が私のために手ずから作った、たったひとつの魔導具。母が逝ったあの日から、この箱は口をつぐんだままでいる。
壊れたものなら、私はたいてい直せる。冷えたカイロも狂った時計も焦げつくコンロも。それが今の私の食い扶持で、母が遺してくれた唯一の翼だ。
なのに、この箱だけはどうしても。
だめだ、朝から湿っぽいのは性に合わない。布を戻し、箱を棚の奥へ押し込む。
表の鈴が風でかすかに鳴った。
荷を担いだ行商の影が路地へ入ってくる。井戸の滑車が回りはじめ、どこかで幼子の泣き声と、それをあやす母親の低い声。錆び横丁が今日も少しずつ目を覚ましていく。
私は前掛けの紐を結び直して、開けはなった戸口に立った。爪の隙間の油も、指の腹に散った火傷の跡も、もう恥ずかしくはない。
ここでは白い手より、直せる手のほうが役に立つ。かつての私に足りなかったのは、たぶんそういう手だった。
さあ。今日は誰の何が壊れているだろう。
錆びた鈴を、指の腹でもう一度弾く。ざらついた音が路地の朝へ溶けていった。誰かがこの音を頼りに、壊れた何かを抱えてやってくる。
私はそれを、思い出ごと預かる。
次話:「誰かの温もりを預かる仕事」




