第25話「小さな形見を、小さな手に返す」
その朝、ピコは上着の内側に3回手を入れて、3回ともやめた。
雪はやんで路地は白いままだ。立ち退きの詮議はまだ役所の机で眠っていて、錆び横丁は星籠の灯る夜と凍える朝とを行き来している。私は火鉢に粉魔石を足しながら、4回目を待つことにした。せっつかない。あの布包みに触れる手つきだけは、急かしてはいけないと決めている。
4回目は昼過ぎに来た。
「姉ちゃん」
作業台の前に立ったピコが、布包みを両手で突き出していた。目は包みに落としたまま、耳だけ赤い。
「これ……直して」
自分の息を呑む音が耳の奥で鳴った。直したら終わっちゃう気がする、と床を見て言ったあの日から、この包みは一度もほどかれていない。私は工具を置き、手の油を丁寧に拭ってから、両手で受け取った。
軽い。こんなに軽いものを、この子は何年も、命綱みたいに抱えて歩いてきたのだ。
「いいの?」
「……こわれたまんまなら続いてる、って思ってた。けど、ちがった」
ピコは足元の床板を、爪先でこつんと蹴る。自分で打った釘の頭がそこにある。
「ヴィムのおっさんの籠、直ったろ。おっさん、じいさんの話するとき、前は謝ってるみたいな顔してたのに、今は自慢すんだよ。……直っても、終わんなかった。だから」
だから、の先をピコは言わなかった。言わなくていい。私は結び目に指をかけた。
布の中から出てきたのは、手のひらに載る小さな真鍮の筒だった。表面は無数の細かい傷で曇り、片側の網の窓がべこりと凹んでいる。伝声管——いや、違う。
管がない。対で使う伝声具の、片割れだ。決まった呼び声を対の筒に吹き込むと、離れた場所のもう片方が澄んだ音で鳴る。
行商人が家族への合図に使う、少し値の張る品。
「とうちゃんの。……鳴るほう」
ピコの説明はそれで全部だった。父親は魔導具の行商人で、市場を回るあいだ、ピコは荷車の番をして待つ。帰り道になると、懐でこれがころころ鳴った。
それが「もうすぐ帰る」の合図で——鳴らなくなったわけを、ピコは「転んだ」とだけ言った。いつ、どこで転んだのかは言わない。私も訊かなかった。
診立てには半時かけた。
凹んだ窓を外し、中の振動板を光に透かす。歪みがふた筋。落とした衝撃だろう、共鳴結晶を抱く座金も片側が浮いて、細い魔導線が根元から切れている。
私はルーペを目に当てたまま、いちばん肝心なところを確かめた。座の奥の、小指の先ほどの乳白色の石。罅は——ない。
指先で触れると、冷たい石の内側に、かすかな響きの余韻が眠っている。
「結晶は生きてる」
言った途端、ピコの肩からすとんと力が抜けるのが分かった。この石が割れていたら替えるほかなく、替えれば、覚えているものごと失われる。
「この石はね、呼び声のかたちを覚えてるの。あなたのお父さんが、あなたを呼ぶために決めた言葉。音にはもう、できないけれど」
「……なんて言ってたか、わかる?」
「ごめんなさい。そこまでは、私の腕でも」
ピコはしばらく黙って、それからちょっと笑った。
「いい。おれがおぼえてる」
教えてはくれなかった。それはこの子と父親の、ふたりだけの言葉なのだろう。
修理は二人がかりでやった。歪んだ振動板は替えの薄板から切り出して、縁を私がならし、座金の浮いたねじはピコに締めさせる。ちび助の指もずいぶん器用になったもので、ねじ回しの返しに迷いがない。
切れた魔導線を私がつなぎ直し、凹んだ窓は——これはお隣の領分だ。壁を2回叩くと、ものの数分で本人が金槌ごとやって来て、真鍮の窓を当て木の上でこつこつと叩き出してくれた。
「網は、張り替えるか」
「ううん。傷は残して」
ピコが言うより早く、私の口が動いていた。ヴィムは私とピコを見比べて、傷だらけの窓をそのまま嵌め戻す。この傷はこの筒が生きてきた道のりで、消していいものではない。星籠の台座の隅で、焼けた欠片が光っているのと同じことだ。
組み上がった筒を、ピコは両手で包んで耳に当てた。
鳴らない。当たり前だ。これは受けるほうの片割れで、呼ぶほうの筒は、父親の荷物と一緒にどこかへ消えている。直っても呼ぶ人がいなければこの子は黙ったままだ。ピコもそれは分かっていて、それでも耳に当てたまま、目をつぶっている。
「……そっか。おれ、呼ばれてたんだなあ」
ぽつりとこぼれた声に、恨みの色はなかった。市場の隅で荷車の番をしていた小さな男の子は、呼ばれる側だったのだ。呼ばれるというのは、待っていていいということだ。帰る人があなたのいる場所を忘れずにいるということだ。私はそれを、この子の横顔から教わっている。
棚から、部品取り用の壊れた伝声管を下ろした。
「ピコ。呼ぶほうの筒、作りましょう」
「え?」
「対の相方は組めるの。結晶の調律さえ合わせれば。……その子、まだ働ける子よ。棚の奥で思い出になるには早すぎる」
ヴィムが黙って真鍮の胴を転がしてよこした。金物屋の端材で、寸法はもうぴたりと合っている。この人は話が早い。
調律は夕方までかかった。新しい送り筒に、新しい呼び声をひとつ刻む。結晶は幾つでも覚えられて、古い声の上に重ねても前のかたちは消えない。送り筒に唇を寄せる段になって、私は少しだけ迷った。刻むのは私の声だ。何と言って、この子を呼ぼう。
「ピコ、ごはんよ」
それに決めた。ピコが「うわ、ふつう」と鼻に皺を寄せる。ふつうがいちばん毎日使えるのよ、と私は言い返した。
試しは日暮れの路地でやった。ピコが形見の筒を握って坂の下まで駆けていき、私は店の戸口で送り筒をかまえる。息を吸って、いつもの夕方の声で吹き込んだ。
——ピコ、ごはんよ。
数えて三つ。坂の下で、澄んだ音がころりと転がった。雪の路地は音がよく通る。それより早く、雪を蹴散らす足音がこちらへ駆け上がってくる。
「鳴った! 姉ちゃん、鳴った! とうちゃんのときと、おんなじ音!」
真っ赤なほっぺたで、息を白く弾ませて、ピコは筒を頭の上に掲げて走ってくる。私は戸口で鍋の蓋を開けた。豆と芋の匂いが湯気になって、冬の路地へ流れ出していく。
雪の上には小さな足あとが、坂の下から戸口まで一直線についていた。呼ばれてから帰りつくまで、寄り道はなしらしい。
次話:「もう直せないと、私は鍵を置く」




